「政治的」なパフォーマンス・アートの実践
イトー・ターリ
(パフォーマンス・アーティスト)

 1951年東京生まれ、在住。1973年から身体表現に関わり、1982~86年オランダでの活動後、パフォーマンス・アートに移行。フェミニズムやジェンダーの視点でセクシュアリティ、身体、軍事下の性暴力などについてのパフォーマンスを行ってきた。「ウィメンズアートネットワーク(WAN)」(1994年~2003年)、「PA/F SPACE」(2003~2013年)を運営。著書「ムーヴ-あるパフォーマンス・アーティストの場合-」インパクト出版会


 「政治的なアートはアートではない」と言われてきたひとりの表現者としては、なぜ否定されるのか知りたいと思いながら活動してきました。
 70数年前の戦争時において、画家たちは戦争画を描くことによって協力したわけですが、敗戦後は批判の的になってしまったというトラウマが影響しているのではないかという説を聞きます。芸術家たちは翻弄されたけれども、戦争体験や戦争そのものを検証しないまま過ごしてきた戦後社会と共に埋もれていったのではないか。また、物事の価値観を単一にしておきたいという暗黙の了解が社会を包んでいる、あるいは包もうしていることもその理由にあげられるのではないかと思います。
 「政治的なアートはアートではない」という言説の背後には「体制に反するものだ」という判断があるように感じられます。現に反体制の表現をする芸術家は主流から遠いところに置かれています。アートの自立性が確立されていないとわたしは考えます。

 1951年生まれの私が読んだ芸術論は男性が書いたものでした。当時はそれしかなかったのです。それでも1920年代の未来派、ダダ、ロシアアバンギャルド、30年代のバウハウスに魅せられてゆきました。身体が介入するアートを作りたいと思うようになったのは明らかにこれらのアートフォームの影響です。
 70年後半に表現活動を始めましたら、こんどは自分が女性であることを意識せざるを得なくなりました。当時は10名の会合に行けば女はだいたい2名が普通でしたから、気持ち良く楽しそうに語らう男たちの会話に乗っていけない疲労感が募っていきました。そこには私の声はなかったのです。そんな私に扉を開けてくれたのがフェミニズムでした。

 私にとって政治的なアートとはフェミニストが言った「個人的なことは政治的なこと」という格言に添ったものです。個人が背負っている問題は社会に起因していることが多いのだから社会的に政治的に解決されなくてはならない。まさに今、#MeToo運動が叫ばれているわけですが、セクシュアルハラスメントを受けたひとりだけの問題ではなく、ハラスメントを受けた人が次々と名乗りを挙げることで社会的な問題にして本当の解決を求めます。これはフェミニストやマイノリティがとってきた手法です。
 ハリウッドの女性俳優から発したセクシュアルハラスメントだったため瞬く間に世界中に運動の輪が広がりました。しかし、日本においては大きなうねりになっているでしょうか。例えば伊藤沙織さんが立ち上がったけれども支援の輪が大きく広がらないのは、日本の性暴力を人権の問題であるとして扱わない、悪しき慣習を露呈していると言わざるを得ません。
 また、直近では杉田水脈衆議院議員がLGBTは生産性がないから、支援するのは税金の無駄使いになると主張しました。LGBTだけの問題ではなく、産まない、産めない女性への差別、さらに障害者差別に広がるものです。自己決定権を奪い、個人の問題を社会化する方向ではなく、個人を排除する方向に向かい分断化を図るものだと言えます。
 二年前に起きた相模原障害者施設殺傷事件は優性思想に基づいているために震撼とさせられましたが、今年1月には宮城県に住む知的障害の女性が強制不妊手術をされたことを公表し、憲法違反であると提訴しました。日本にはナチの断種法を参考にしたと言われる障害者への強制不妊手術は1948年から1996年まで実施されていたのです。被害者の数はわかっているだけで男女合わせて1万6475人に上るそうです。同時代に同世代の人にこんなことが実施されていたことを知らなかった私は恥ずかしく思います。

 遑(いとま)なく繰り返される性暴力やマイノリティへの差別の根を絶つことを望む表現は「政治的な表現」であり、可視化されたいマイノリティたちの叫びは「政治的な事柄」です。フェミニストたちの主張は日本では90年代に入ると、セクシュアリティ、民族、ディアスポラ、人種の問題とつながりを見せるようになりました。さらに最近では格差、貧困が問題になっていますが、このような課題はまさに「政治」そのものなのです。

「わたしを生きること」1999年 トキ・アートスペース(東京) ©松本路子
 ここで、私自身の活動に触れて、「政治的」をみてゆきます。
 1996年のセクシュアルマイノリティであることをカミングアウトしたパフォーマンスは振り返ってみれば「政治的なパフォーマンス」でした。
 『自画像』『わたしを生きること』『恐れはどこにある』『虹色の人々』『Rubber Tit』と題する各シリーズはレズビアンであることを考察したパフォーマンス群で、10年間を費やしました。
 『自画像』(1996)ではアイデンティティからの解放を、『わたしを生きること』(1998)では家族との関係や家父長制、強制異性愛社会を、『恐れはどこにある』(2001)では 内なるホモフォビアと社会にあるホモフォビアを、『虹色の人々』(2004)では「名前」を、『Rubber Tit』(2006)ではトランスジェンダーの性自認と既成概念をテーマにしました。

 20年前はカミングアウトパフォーマンスは「政治的」あるいはとんがったパフォーマンスでしたが、現在はどうなのでしょうか。「レズビアン」という言葉は使うなと公共施設でのパフォーマンス時に検閲を受けた時代は終わり、今や、公共施設の方からレインボーの企画をしたいと依頼が殺到しています。当事者の努力が時代を変えてきたのは事実です。ゲイ、レズビアンではなくLGBTと言い方を変えたり、レインボーカラーをシンボルにしていることによりダイバシティー色を強めました。いろいろな人がいるのが当たり前、がかなり進みました。そして、権利の拡大を目指すパートナーシップ制度を望む動きを加速させています。
 ところが政権内の議員からは足を引っ張る信じられない声が上がりました。こんな状況ではパートナーシップまでは認められても、同性婚は「家父長制」が随所でまかり通っている日本では簡単に認められるとはとても思えません。「家父長制」と言った途端にその発言は「政治的」としてレッテルが貼られてしまうのです。


「あなたを忘れない」2006年 Interakcje Performance Festival (ポーランド) ©Anna Syczenska
 2005年からは「あなたを忘れない」というタイトルで日本軍「慰安婦」の金順徳(キムスンドク)さんのことをパフォーマンスにしました。遡って1995年に「慰安婦」の絵画展を見る機会を得て、強い衝撃を受けて、関心を持つようになり、その後2002年に、ハルモニが共同生活しているナヌムの家を訪ねた折に、順徳さんが私のパフォーマンスを見た感想を話してくださる機会を得て、貴重な体験をしました。そのような経緯があって、2004年に亡くなったことを知り、順徳さんへのオマージュをパフォーマンスにしました。
 順徳さんは「あなたは玉ねぎの皮をむくように自分の殻を剥きたいのですね」と評してくれました。そこで、順徳さんが見てくれたパフォーマンスのシーンと実際に玉ねぎの皮をむくシーン、そしてハルモニたちが握手を求められて握手をするけれど、そっけない握手になって返って来るシーンで構成した「あなたを忘れない」を作りました。
 このパフォーマンスを2007年に沖縄の佐喜真美術館でやる機会を得て、丸木位里・俊さんの「沖縄戦の図」の前でやりました。異様なまでの臨場感のなかで、私の身体は戦火をくぐる妊婦となり、転げ回りました。私の想像力をはるかに超える力の存在を、絵から、そして観客から一身に受け止めながら行ったことを私の皮膚が覚えています。パフォーマンスの準備をしていた私に、沖縄にも「慰安婦」として送られた女性たちがたくさんいたことを話してくれた人がいました。

 那覇市内から佐喜真美術館へ向かうローカルバスの車窓から途切れることのない基地の姿をみて唖然としました。これが沖縄。知らないということの罪深さを思い知りました。東京に帰るや、沖縄の米軍基地の面積を東京都の地図にトレースするパフォーマンスを行いました。
 基地のことを調べていたときに、『沖縄・米兵による女性への性犯罪(1945年 4 月~2008年10月)』というリスト集、「基地と軍隊を許さない行動する女たちの会」編纂によるものに出会いました。性犯罪事件356件のリストです。敗戦後、1945~50年代に起きた事件は道端や畑で犯され、捨てられた事件が多く、当時の様子に打ちのめされます。性犯罪は現在も日常茶飯に起きており、2016年には女性が殺され遺棄されていた事件は記憶に新しいです。

 渡嘉敷島に送られた朝鮮人「慰安婦」7人のうちのひとり、ペ・ポンギさんにインタビューを10年かけて、ノンフィクションライターの川田文子さんが書き上げた『赤瓦の家』を片手にポンギさんの放浪の足跡を追いました。渡嘉敷島、佐敷、南風原、糸満、沖縄市(コザ)、嘉手納、宜野湾、那覇へ。風の匂いを嗅いで、近づきたい。ペ・ポンギさんが米軍の爆撃機の砲火をあびて逃げた渡嘉敷の北の山を、さとうきび畑の中の小屋で過ごしていた、その空き地を、戦闘機がtouch & goを繰り返す嘉手納基地を、夜のゲート通りのライブハウスを。ポンギさんが日常的に買い物をした道を歩き、体を売って辛酸をなめた街を訪ねました。私ができることは想像するということだけなのですが。

 なぜ、ペ・ポンギさんが祖国を離れ沖縄に住み続けたのか、なぜ、沖縄の女性たちが米兵にレイプされなければならないのかを考えました。個人の身の上に起きた忌まわしいことは国が引き起こしたことです。どちらも軍事下における性暴力です。
 あったにもかかわらずなかったことにしてきた為政者はその実態を明らかにする動きを忌み嫌います。

 私は沖縄を歩き回り、次第に自分の加害性を考えるようになりました。レイプしたのは米兵であり、日本兵だったのですが、レイプしたのは私かもしれないと。米兵によるレイプの事件リストを一件一件読み上げるパフォーマンスのなかで気がついたのです。主語と目的語を入れ替えたらはっきりしました。「女性が米兵をレイプした」「わたしが女性をレイプした」そして「わたしがわたしをレイプした」にたどり着いた時、応答を試みたパフォーマンスは一応の決着をつけたのです。


「ひとつの応答ーペ・ポンギさんと数えきれない女たちー」2012年 ギャラリーブロッケン(東京)©角張康治
 沖縄の基地や「慰安婦」のことは住んでいる街である東京で、自分のこととして捉え、そこで何をするか、またどのように生きるのかにかかっています。
 沖縄への差別、民族への差別がある現実を見つめる表現は、個人個人のストーリーに耳を傾けることによって成立します。性暴力について表す表現(アート)は政治的表現(アート)なのです。




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