やさしい初夏のこぼれ日の中で、あなたは何を考えるのかな?
(批評文体ラボ1)

原田広美
(舞踊評論家)

HEAD プレゼンツ『スワン666』
2018年6月19日(火)~7月1日(日) 会場 北千住BUoY


絵:中原昌也
  もう僕もだいぶ大人になったのだから、(実は僕は男ではないけれど)そうカチカチでなくても良いのではないか、と思った。飴屋さんが劇の中で演じた役の男も、メキシコの娼婦の前で立たなかったし。その前の場面が酷いよねぇと言っても、70年代では案外、刑事物のTV番組のソデなんかにも、そういう場面があったような気がする・・。その頃は、そういう性を怪しく扱う場面づくりが、きっとカッコいい時代だったんだ!(興奮するしネ、まだ子供だったから刺激が強くて。 まだ80年代の熟れ線に至る前でしょう。)――つまり女が番号札を下げて、男の前を廻ります。どの子がいい? 80年代は、東南アジアで、そういうのやってたっけ?(その後、地球規模でエイズがあったんだ)
  今回の劇、チリのロベルト・ボラーニョ(1953~2003)の『2666』から想を得たようだけど、これは死後出版だそう。ではいつ頃、書いたんだろう? チリやメキシコでは、そのような娼婦選び、今もよくあるのか分からないけれど、2666だから未来小説なの? だけどメキシコとアメリカの〈国境〉のトンネル、トランプのせいで注目されたから(トランプの発案は壁だったけど)、コンテンポラリーな話題ですね。
  そして「2」は「鳥」みたいだから、それを「スワン」にしたのが飴屋さんのアイディアなんでしょう? とてもお洒落。それと関連するように、劇の始めと終わりで、鳥の声が問題になっていた。どうも水鳥よりも、高い声で小鳥みたい・・、と。そしてセックスが「おセックス」になっていたのも、飴屋さんのお洒落感覚だったのでしょう。それは、もう最後辺りの場面でしたが・・。
  出演者は、4名。その中で黒い服の飴屋さんは、以下の3人を迎える教授のイメージか? また原作では、実在しないドイツの作家アルチンボルデイを追う4人だが(男3人、女1人の四角関係)、飴屋さんの他は3人で、今回のために集まった出演者と聞きました。始めに膝をついてニジリ歩くように登場したのは、緑の半袖上衣のサッカー・ウェアの男(山縣太一)。もう1人の男は、白Yシャツに白タイツ、つまりスワンだろうという男(小田尚稔)。そして首に番号札をかけた若い女性(加藤麻季-MARK)の、計3人。彼女は赤い上衣に白いスカート、サンダルにはセクシャル感があったけど、素朴な感じでした。そしてウクレレみたいな大きさの楽器も奏でた。いつもは音楽畑の人を女優さんにしたわけだ。だから全体に、いわゆる演技力で見せる劇とは違います。出演者達は、ピンマイクを使用。

  ここでちょっと閑話休題、ねぇ「疲れたよ、カチカチは」とは言うものの、あの原田広美の、いつもの内容が詰まった上に、気品があって慎ましく?、シリウスみたいに輝きながら、どこかでフワリと愛がこぼれるような文章、大好きじゃん、やっぱりあれがいいねぇ、と誰か言ってくれますか? 誰かが『ぼくと観光バスに乗ってみませんか?』(4月に逝去した森田童子の曲です、気づいてネ)、と僕(私)を誘うなら、今です!  36歳以降の僕は、博覧強記で突っ走って来た! その理由は、僕の筆歴をよく知っている人だけが、気づけるのかな~♬?
  そして話は変わりますが、批評も、大学の先生とか、博士とか、修士とか、男がいいとか、いつまで続くのでしょう、もう終わりそうな平成のこぼれ日の中で・・。僕は、時代と寝るような思想はそう好きでなく(それに真剣に取り組んできた人達、許してネ。僕も、ソコソコは押さえてマス!)、総合力のある本(これまでは3冊)で勝負して来たのだけれど。でも、もっと評判が立たなければ、やはり何とも言えないね。
  ただし、たとえば坂口安吾は、東洋大学卒である! しかし新潮文庫でよく売れた太宰治と夏目漱石は、やっぱり東京大学卒(太宰は中途で除籍)である。くやしいな~。だけど、そういう勉強っていつのこと? それに親の平均年収と子供の学歴は、ほぼ正比例するんだって。この前も放送大学のテレビ授業で、そのことをやってたヨ! それに何十年も(20年とか30年とか)前に、少し余分に勉強したからって、それが何だって言うんだろう? 中身のある本は少ないのに、著者の肩書の権威で選ぶ人も多いし(難解で下手な翻訳ほど、日本ではよく売れるとも言うしね)、肩書が弱いと中味が良くても無視かぁ。あるいは読む以前に無視でしょう? いいと思っても自分より学歴が下のヤツを褒めたくないし、でしょう? くだらないのよね、専門性や、それをやる感性や才能は、そういうこととは別なんですけどね~。それで世の中、進まないわけでしょう。得してる人達だけが集まって、絡み合って、停滞です。

  ただし僕がこの文章で、飴屋さんの『スワン666』について何が書けるだろうか。本来は演劇ではなく、舞踊評論家だし(OM-2は、けっこう書いて来ましたが)。だがダンスを経由しても、元々は舞踏Butohから来た批評家だし、暴力やセックス(セックスなんて言葉、この文章で初めて書いたヨ。これまではエロティシズムと書いて来たけれど、それは美学だったんだネ。)の問題なら、まあ何とかなるさ。「何だかんだ」で僕は、フロイトが源泉にあたる「心理療法家」でもあるし。とにかく飴屋さんのこと、ずっとどこかで尊敬して来たから、少し甘えさせてもらおう!
  上演場所のこと、書くの忘れてた。北千住のBUoYの地下、もともと雑多な感じがたまらないですね。奥の奥に、銭湯だった名残の浴槽、水色のタイル張りだったっけ。今回は、入口側の三方に客席を作っていました。客席途切れた下手側に水槽がある。後で、飴屋さんがそこに落っこちて苦しむのですが・・。水槽の向こうの陰の音響コーナーでは、中原昌也の生演奏。舞台として使用されている床面はやや縦長で広く、全体に大変に雑多です。
  まず沢山集められたマネキンが解体されて、ここかしこにある。下手一番奥には、脚ばかりが集めて立ててある。またマネキンのトルソの上の頭部に布がかかっていたり、それから鉄筋の大きな柱に絵(by中原昌也:この批評文に添えられている絵です)が貼ってあり、床面にある2つのマンホールも開かれている。そして観客席の脇のベッドの上に椅子が上げてあり、そこにまず赤い服の女の子、次にスワンが現れた! 誰かが「うるめ?マラソン」を走り(ヤン・ファーブルにも似たのあったけど、アングラでよくある〈走る〉演出だね、スワンが走ったんだっけ?)
  また緑の男がボールを蹴ったり、飴屋さんは銀色のバットで、そこかしこを殴打し、最後には羽枕に向かって殴打に次ぐ殴打! そして『スワン666』だからこそ? 羽枕の布地が打ち破られ、白い細やかな羽がドドッ~と飛び散る! これについては、後でも触れたい!!
  全体では、最後の方の「女だからと連続的に殺害されて行った300余人」と、「ひよこを雄雌でより分けて、卵産めない雄という理由で殺される話」が、互いにリバース。それから「立たなかった飴屋さんが演じる男」と、「発情するのは対象となる女のせいではなく、自分の中に充満していたエネルギーのせいなんだ、という男」が、リバース。舞台の中に設定された場所は、メキシコのサンタテレサ。アメリカへのトンネルがあるという国境の町、「命が軽い」町なんだって!!  メキシコに行ったことのある知人によると、警察官さえ信用できないようなことも本当のようで・・。
  でもメキシコっていえば、アルトーを思い出す。しかしトンネルで王子様と御姫様が出会う話は、よくは分からない。国交や両国の関係性にかかわる問題なのかな? おセックスをしなければならないらしいのに、ペニスを切ってしまって・・、それはもう大変なことになるわけでしょう。こういうのって悪趣味的に際立つための手口にも、僕には思えてしまうのだけど・・。マジでね、性転換とかと関係あるなら、それもそれでしょうが・・。しかし山場の印象が強いほど劇全体(元は小説でも同じ内容なのか)の印象も際立つのだから、これもいいか? この行為自体に託された比喩は、僕にはよく分からなかったけれど(トランプの言動にメキシコ側は怒っていて、もう繋がりたくないです、とか?)、その「破壊的な衝動」自体については、下記で触れることができると思う。
  では最後の、僕の批評文のツメにゆきましょうか? これは、やはり劇全体で、「エロス(性の欲動)とタナトス(死と攻撃の欲動)」という、「リビドー・レベルの本能的な欲望と〈衝動〉」を扱っているようだ。それで見ていて、ズッシリ来るんだね。「欲望と〈衝動〉」と書いたのは、命の根源に交わるエネルギーとしての衝動に、「欲望や欲動」よりも、「もっと〈純潔なイメージ〉」を与えてあげてもいいんじゃないか、って思うからなんだ。でも「エロスとタナトス」が大枠のテーマだというのは、舞踊に近い。筋立てというより、コラージュ的な展開だから? 最近は、批評におけるジャンル分けって、ダサいんじゃないの? の声もあるけど、まあポスト・モダン以降の作風なんだネ。前衛的です!
  また、もう一つ内容の奥に入ると、まず雄のひよこの圧殺と、サドの『ソドム百二十日』のような残酷極まる女性達の殺害。この女性達は、始めの娼婦のイメージとも隣り合わせになっていた。だからその殺害は、「エロスとタナトス」が〈混濁したままの発情〉だ! またペニスの切り落としは、「タナトス(死の欲動)」としての〈自傷〉だろう。
  そして、「あらかじめ渦巻いている欲望(欲動)を持つ男」は、それをエロスとして発情させるつもりのようだけど、「カチカチでない場合」も、飴屋さんが演じた男は、あれだけの「強い衝動」でバットを振り回した! その攻撃の欲動は「暴力的」で、羽枕の殴打から溢れる羽は「美的」だった! それはアウト・プットされた暴力的なセックスみたいでもあったけど、とにかく飴屋さんの演出には美学がある。それで、やっぱり「暴力(タナトスの攻撃性)とエロティシズム」になったんだネ! 
  それから最後になるけれど、「(対象に関わらず)、あらかじめ渦巻いている欲望・欲動、そしてそれをさし止めているもの・・」というような、分析チックなセリフには痺れた。でも僕は、「エロスとタナトス」の強い「欲動」(やはり僕は、それを「衝動」とも書く)が、目を覆いたくなるような結果ばかりを作らないことを願いたい。それはともかく、「根源的な命のエネルギーのあり方の問題」なのだから・・。やさしい初夏のこぼれ日の中で、あなたは何を考えるのかな?
(2018年6月20日、北千住BUoY)



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