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菊地びよソロ『空の根~内奥からの光粒子とその動向』

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▶140年目の『白鳥の湖』によせて
――「ダンスがみたい!19」評
「ダンスがみたい!」実行委員会『ダンスがみたい!19』


藤原央登
▶皇室と王家を想う
劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』/温泉ドラゴン『或る王女の物語~徳恵翁主~』

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KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ルーツ』

▶貨幣の自己増殖に使役させられる人間の姿
庭劇団ペニノ『ダークマスター

▶一人語りに他者性を導入するための格闘
女の子には内緒『ささやきの彼方』


▶劇に幻想が立ち上がる瞬間
燐光群『くじらの墓標 2017』

▶コンセプチュアルな『マクベス』読解と、小ネタによる笑いがもたらす幅
開幕ペナントレース『あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]』

▶劇内容と形式が幸福な一致を見せた告白劇
劇団あおきりみかん『つぐない』

宮川麻理子
▶世界とステージのつながり
ティツィアナ・ロンゴ ソロ舞踏『MUT』


▶全力!大人の文化祭!!〜すこやかクラブ『真夏のたちかわ怪奇クラブ』体験談〜
すこやかクラブ『真夏のたちかわ怪奇クラブ』

 






コンセプチュアルな『マクベス』読解と、
小ネタによる笑いがもたらす幅

藤原央登
劇評家

開幕ペナントレース『あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]』
2017年8月16日(水) ~ 27日(日) 会場 小劇場 楽園

  本作は『マクベス』を自らのフィールドに引き寄せて遊びながらも、実質60分ほどの上演時間であらすじをしっかりと観客に理解させる。その上で、権力と名誉に突き動かされた人間のあくなき欲望を浮かび上がらせた。
  シェイクスピア劇の新演出や本歌取りした作品は星の数ほどあり、今後も産まれ続けることだろう。それによってシェイクスピア劇の上演史は厚みを増し、古典としての権威が高まってゆく。一方で、ハイペースで作品が創られるあまり、個々の上演は上演史の突端に一過的に位置しては、すぐさま埋もれるという憂き目にあう。本作もその流れには抗せないかもしれない。だが、2月の初演から半年経って早くも再演されたことで、この作品の構造とユニークさに改めて感心した。私にとっては、『マクベス』の「特異な名作」として、記憶に刻まれたのである。
  スコットランドのコーダーの領主になり、やがては王になると3人の魔女から予言されたマクベス。予言を実行するべく、マクベスは妻と共謀してダンカン王を殺害して国王になる。さらに、魔女がマクベスの親友・バンクォーの子孫が王になるとも予言していたことから、バンクォー親子の暗殺も計画する。言葉の魔力に突き動かされたマクベスによる、飽くなき権力への志向。そのことを、タイトルマッチに挑むボクサーになぞらえること。これが、開幕ペナントレースによる『マクベス』読解の最大の趣向である。負けられない戦いがそこにはあるというやつだ。

  ボクサーにはリングが必要である。リングを表現した舞台美術が、とりわけこの作品の秀逸さを伝える。舞台空間を2方向からL字型に挟むように設置された客席。その前方にはロープが張られている。ロープで四角に仕切られた演技エリアの中に、白いリングが設置されている。リングの上面は開閉式になっており、フタのように開かれると、その裏にセリフの英語字幕やパフォーマーが演じる魔女の予言、鯉の映像などが映される。また容器のようになったリング下部からは、殺害されたバンクォーの亡霊が出現する。「桜の森の満開の下」のごとく、リングの下には戦いに敗れてマットに沈んだ、数多くの死者が埋まっていることを連想させる。
  リングには当然、コーナーポストがある。インターバルで使用する椅子と共にミニチュアで作られているが、それは1セットだけである。これに対応するもう1セット、すなわちマクベス用のコーナーポストと椅子がリングにない。それらはリングの外に用意されている。劇場内にある太い柱をコーナーポストに見立て、その前にパイプ椅子が置かれているのだ。ここを中心にして、パフォーマー(高崎拓郎)はマクベスを演じる。その様が、タイトルを賭けた試合に望むボクサーの重圧や苦悩と、それでも王座を勝ち取ろうとするボクサーの心情に重ね合わされている。
  ミニチュアのコーナーポストと柱のコーナーポストの関係性は、正方形のリングをさらなる正方形の舞台空間が内包するような、入れ子の構造を成している。数学でいえば、辺と角の比が等しい相似形を成すような格好である。この舞台美術と舞台空間が織り成す関係が、創り手が『マクベス』をいかに読んだのかを余すところなく伝える。数多くの為政者による権力奪取の物語は、権力欲に取り憑かれているという意味で同類であり、それはすなわち自己鏡像の連鎖でしかないということだ。そのことを、相似形の舞台空間そのものが語っている。相手選手がいないミニチュアのコーナーポストに対峙するボクサー=マクベスは、一体誰と戦おうとしているのか。見えない敵と虚しい空中戦を行っているようにしか見えないのだ。権力と名誉欲に突き動かされて空虚な戦いを強いられ、自己破壊した者たち。それがリング下に埋まった死体なのだ。
  ラストシーン。ダンシネンの森の枝を頭につけて攻めてきたマクダフを前にして、本作でのマクベスは自らリングを降りる選択をする。だが、たとえこのマクベスが降りたとしても、次に王座を狙って新たなマクベスがやってくるだろう。マットの下に潜ったパフォーマーたちが、タイツ生地になった上面に顔を押し付けながら「マクベスくる時、マットが動く」と述べる。マットをうごめく死者たちの言葉は、権力を志向する者を誘惑し、戦わずにはいられなくさせる魔法をかけ続けているのだ。
  以上が、創り手が解釈した『マクベス』の骨子である。短い時間で『マクベス』を理解させる構成力にも表れているように、劇の核心の提示は非常に明解だ。それを、舞台美術と共振させてコンセプチュアルに提示しているために、より説得力がある。本作の最大の魅力はそこにあることは間違いない。だが、それらを担うパフォーマーと様々に仕組まれた笑いを生み出すネタの数々もまた見所である。スタイリッシュな劇構造と、それに反するような各種の遊び。両極端の要素が詰まっている点が、開幕ペナントレースの作風の特徴である。代表作『ROMEO and TOILET』(2009年ニューヨーク初演)にもその様は読み取れる(ウェブサイト『シアターアーツ』の拙稿「「奇跡のうんこ」をひねり出すために」参照。→Link)。


©池村隆司
  一見して了解できるように、開幕ペナントレースのパフォーマーたちは一見したところ奇異な風貌だ。パフォーマーは頭まですっぽりと覆い、顔だけ出した白の全身タイツを着用する。露わになった身体のラインは、決して鍛え上げられたスマートなものではない。どっしりとした重量級、悪く言えばだらしのない中年の体つきである。とはいえ原色の照明が良く映える白の全身タイツは、パフォーマーをコミカルで愛すべきキャラクターにさせる。オヤジのむさくるしさを中和して愛くるしさへと変換する効果があるのだ。そんなオヤジたちが汗をかきながら舞台空間を駆け回り、高いテンションでがなり立てながら繰り出す小ネタの連続は、この集団を語る上で欠かせない要素である。
  目に付いた小ネタを挙げよう。第2幕、マクベス婦人(森田祐吏)と共にダンカンの殺害を計画するシーン。上面が開けられたリングの傍に2人のパフォーマーが座る。投影された映像が示す通り、リングはここでは、大量の鯉が泳ぐ池のようだ。パフォーマーはそこにエサをやりながら、妻の成すべき役割について語らう。鯉=恋ともかかっているのだろう。そこで、妻は夫が将軍になるために尽くすべきだとの結論が出される。登竜門の語源にもあるように―黄河上流の竜門を登りきった鯉は龍になるという言い伝え―、鯉が龍になることを手助けすべきだというのだ。ここでの語らいで、マクベス婦人はダンカンの殺害を決意する。
  王の座を手に入れたマクベスが酒宴を開く第3幕。マクベスがバンクォーの亡霊を見て錯乱するシーン。ここでは、鯉のタイツを全身に着用したG.K.Masayukiがリング下から現れる。全身タイツによって手足が拘束されているためリングをジャンプで飛び越えなければならない。そしてテンション高くわめいてマクベスを責め立てる。彼は龍になれず鯉のままで死んだバンクォー。マクベスが正気を取り戻すと鯉はリング下に戻る。だが、マクベスが再び幻聴を聞くと再び、鯉になったバンクォーの亡霊が飛び出してわめきたてる。何度も執拗にこれを繰り返す内にしだい疲れ、よたよたとしてくるG.K.Masayukiが可笑しい。8人の王とバンクォーの亡霊を幻視する第4幕では、G.K.Masayukiが公演のオリジナルTシャツを吊り下げて登場する。王に見立てられた8枚のTシャツは、漫画家・しりあがり寿によるデザイン。『マクベス』のシーンを利用して、Tシャツの宣伝を行う趣向だ。他、マクベスがバンクォーと共に魔女の予言を聞いた後、コーナーポストにも使われる柱で、高崎とG.K.Masayukiがツッパリの練習を行うシーンも印象深い。ここでの彼らは、北の湖と千代の富士。ささいなシーンではあるが、王座を求めるのは為政者だけでなく、ボクサー、力士、戦国武将等々、勝ち負けの世界で生きる古今東西の多くの人間に共通した心性であることが示唆される。このように、わずか60分ほどの『マクベス』劇の中に、種々の遊びが散りばめられている。
  最大のネタは、ヘルメットを被った高崎と森田が胡坐で向かい合い、手にした英語版の戯曲を読むシーンだ。その後のシーン展開から、マクダフに関する部分の朗読だと思われる。件のシーンの前段で、「マンモスウエスト」なる人物が率いるパラシュート部隊が、マクベスに戦いを挑んでくる、と高崎から説明される。『あしたのジョー』には、主人公・ジョーが送られた少年鑑別所で、ボスとして君臨していた巨漢の男・西寛一がいた。新入りのジョーにリンチを加えるなど当初は敵役であったが、少年院を退院して「マンモス西」のリングネームでデビューした後は、ジョーの親友として、そしてセコンドとして支え続けた人物だ。「マンモスウエスト」とは「マンモス西」のことであり、さらにマクダフに重ねられているわけだが、記憶ではここまで丁寧な説明は初演にはなかったように思う。このような解説が入ったことで、本作がボクシングを大枠にしていることと、タイトルが『あしたの魔ジョー』である理由がより明確となった。また、マンモス西が後にジョーの親友になるということは、敵の自己同一化と、それによる相手の見えなさという本作のコンセプトにも通じる。バトル系のビルドゥングスロマン(成長物語)は、次々に強敵と対峙しながら成長する主人公を描く。だが多くの少年漫画がそうであるように、無用に引き伸ばされる物語は、主人公に果てしのない戦いを強いる。本当の敵は一体どこにいて、どれだけ倒せば戦い=物語は終わるのかが分からなくなってくる。『マクベス』の骨格が、身近に溢れるサブカルチャーと親和性があることを示しているようだ。
  さて件のシーンである。2人のパフォーマーが戯曲を朗読している最中に、高崎の頭上に設置されたパイプから小石が大量に降り注ぐ。この小石が、パラシュート部隊による攻撃に見立てられている。ヘルメットに当たった小石の跳ね返り方によっては、森田の顔をたびたび直撃。朗読どころではなくなる。大量の小石は、パイプの入口にスタンバイしたスタッフによって、2Lのペットボトルから間断なく投入されていたのである。投入するタイミングが良ければ、小石の流れは加速度を増し、パイプの中をものすごい音を立てて流れ、一気に高崎の頭に降り注がれる。当然、森田は小石による猛攻撃を受けることになる。このシーンもしつこく続けられるのだが、多少のハラハラ感と共に、くだらなさの極地を見せつけられて、笑うしかない。ここに、開幕ペナントレースのエンターテイメント性の集約点がある。





140年目の『白鳥の湖』によせて ――「ダンスがみたい!19」評
呉宮百合香
ダンス研究

「ダンスがみたい!」実行委員会『ダンスがみたい!19』
2017年7月18日(火) ~ 30日(日) 会場 d-倉庫


出演:tantan / 黒須育海【co.ブッシュマン】 / 白井愛咲
上杉満代 / C/Ompany / 江原朋子 / ケダゴロ|大塚郁実
三東瑠璃 / 川村美紀子 / ケイタケイ’s ムービングアース・ オリエントスフィア / 笠井叡

舞台監督... 井草佑一,田中新一(東京メザマシ団),久保田智也
音響...許斐祐,高橋真衣,佐々木敦
照明...三枝淳,久津美太地,金原知輝
記録...Vitek,船橋貞信
協力...WORKOM,die pratze,OM-2,磯部豊子,
相良ゆみ,高松章子,福岡克彦,山口ゆりあ,吉村二郎,楽園王
宣伝美術...林慶一
監修...真壁茂夫
制作...林慶一,金原知輝,村岡尚子

  「歴史」といかに対峙し、いかなる距離を取るか――第19回目を迎えるd-倉庫主催のダンスフェスティバル「ダンスがみたい!」が、一昨年のストラヴィンスキー『春の祭典』、昨年のエリック・サティに続くお題として掲げたのは、クラシック・バレエの名曲、ピョートル・チャイコフスキーの『白鳥の湖』(1877)であった。

  白鳥の湖と聞けば、その音楽のみならず、衣装や振付まですぐに思い浮かぶ人も少なくないだろう。一般に共有されているイメージがとりわけ強固で、楽曲の訴求力も強い古典作品であるだけに、対峙するには自らのスタンスの相対化と相応の戦略が求められる。今回上演された10作品のうち、私が鑑賞できたのは4作品――黒須育海【co.ブッシュマン】(7/19)、白井愛咲『名称未設定』(7/20)、C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』(7/23)、川村美紀子(7/28)――のみだが、4者4様『白鳥の湖』の全く異なる側面に着目していた点が、非常に興味深かった。




黒須育海【co.ブッシュマン】――音楽の解釈

  まず黒須育海【co.ブッシュマン】は、音楽を身体に落とし込むという直球勝負に挑んだ。楽曲のリズムを身体の律動として取り込み、時に2足、時に4足で跳ね回りぶつかり合う男性6名の肉弾系群舞は、人間や白鳥といった形態を超えて、生物が持つ獰猛さを表出させる。男性による荒々しい白鳥像といえば、黒須自身も言及しているとおり、マシュー・ボーン版(1995)が思い浮かぶが、ブッシュマン版白鳥は、具体的な物語を語るのではなく、1対複数/1対1/ユニゾンと様々に変化するダンサー間の構図のみから詩的な情景を立ち上げていたことに、その特徴がある。また、描き出されるのは同種の群れの内でのドラマであり、そこに王子という「異種」は不在だ。

  作品中、「白鳥の湖」のモチーフは常にずらされた形で登場する。たとえば、闇の中にバサッバサッと大鳥の羽ばたきを思わせる音が響いたと思えば、ひとりの男が舞台上で大きな白旗を振っていることが判明する冒頭場面。宮廷舞踏会に集まる人々を描く第3幕の華やかな序曲が、躍動感あふれる野生的な群舞へと変換される中盤の場面。いずれの場合も、ユーモラスである以上に、実直さが生み出すロマンティックさに満ちている点が魅力である。中でも印象的だったのは、バレエのチュチュを連想させる襞襟の見え方の変化だ。この襞襟を頭にかぶって項垂れる場面では、照明効果と相まって、それまでのエリマキトカゲのような笑いを誘う姿からは一転、非常に静謐で美しい画が立ち現れる。

  体当たりで向かっていくタフさと、美的な形象に対する繊細なこだわり――横浜ダンスコレクション2017での受賞作『FLESH CUB』でも発揮されていたブッシュマンの身体性と美学をもって『白鳥の湖』を解釈した作品であったと言えるだろう。




白井愛咲『名称未設定』――形式の分析

  第4幕の終曲からいきなり始まる白井愛咲『名称未設定』は、「形式」自体を問題化する。壮大でドラマチックな音楽に反して、淡々と舞台上を歩き回る4人のダンサー。以降もこの低温テンションを保ったまま、振付のクリシェを俎上にあげ、「こう来たなら次はこう続くだろう」という流れをことごとく断ち切っていく。そして観客の方も、次第にその「裏切り」の法則へと引き込まれていく。

  この作品が批評的に取り上げる要素は、2つある。第1に、特定のダンス・スタイルが持つ常套表現である。たとえば作品中盤、ドラマトゥルク兼任の宮川麻理子による第1幕パ・ド・トロワの解説に続いて、音楽にのせた実演が行われるが、堂々と正面を切って踊る男性(加藤律)に対し、2人の女性(白井愛咲、熊谷理沙)はひたすらその後をついてまわり、彼が両肩に背負っているトイレット・ペーパーを巻き取り続ける。この他にも、踊り出す前のポーズやプレパラシオンの強調、「手をつなぐ」という象徴的身振りに還元された「4羽の白鳥」等、形式性に着目したクラシック・バレエの読み直しが随所に登場する。

  一方で、ポスト・モダン・ダンスの以降の現代ダンスに見られるコンセプチュアル性にも、その分析は及ぶ。ミニマルな身振りや日常的仕草、メタ的な発言を挿入することで、舞台のイリュージョンを破壊すること。あるいは、拍手の使用、誰もいない空の舞台の提示、舞台転換の開示、照明変化によるスペクタクル性の誇張など、劇場の約束事を逆手に取ること。いまや手垢にまみれてしまったこれらの手法をひとつひとつ舞台に乗せていく様は、さながらクリシェの展覧会である。

  第2に、振付の生成・伝達過程である。この点を問う作品は、多田淳之介『Choreograph』、田村興一郎『大きな看板の下で』等、近頃頻繁に見受けられるが、白井の特徴は、冷静な分析的態度を徹底して貫いたことにあるだろう。作品終盤、①ダンサーが軽くおさらいをする光景、②手書きのイラストを用いた振付解説ビデオ、③架空の「踊り手たち」を誘導し踊らせる「先生たち」の後ろ姿、という3種の周縁的な情報をもとに、観客は1曲分の振付を頭の中で想像するよう仕向けられる。しかしその「答え合わせ」がなされること――つまりダンサーによってその振付が実際に踊られること――はない。なぜなら、実演が始まろうとするまさにその瞬間に照明がカットアウトし、次に明転した時には舞台上は無人となっているからだ。

  舞踊史上最も有名な作品のひとつである『白鳥の湖』を出発点に、コンテンポラリー・ダンスに至るまでの流れを視野に収めながら展開したこの分析の最終的な到達点が、当のダンスの「不可視化」であるという点は示唆的だ。リアルなダンスが消え、ヴァーチャルなダンス体験のみがそこに残されるのである。





C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』――構造への解体

  原作を抽象的な構造のレベルにまで解体したのが、C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』である。他の3組がチャイコフスキーの音楽や「白鳥」のモチーフを随所で使用しているのに対し、大植真太郎と児玉北斗はそのような具体的要素は一切用いない。レヴィ=ストロースが個々の神話が内包するより普遍的な構造を明らかにしたように、彼らが『白鳥の湖』の中から抽出したのは、白と黒、善と悪の対比に代表される二項対立構造だ。

  大植と児玉のいずれも、若い頃から海外のバレエ団でキャリアを積んできた踊れるダンサーだが、両者とも最近の主たる関心は「言葉」にあり、この作品でもいわゆるダンスらしいダンスは少なく、もっぱら語りが中心的な役割を果たしている。中でも彼らが意識的に用いているのは、言葉の非在性と行為遂行性だ。目の前に存在しない事物について語り、ある現実を作り出していける言葉――その特性を活かしながら、舞台上の児玉は抽象的な概念について流暢に語ってゆくのだが、言葉を重ねれば重ねるほど、却って言説的に構築されたものの不確かさが露わになるという逆転現象が生じる。とりわけ「ある/ない」をめぐる話は、途中から堂々めぐりになり、言葉の上だけで展開する空論と化してゆく。

  そもそも、強い光に照らされ、空調も切られたホール内は汗ばむほどに暑く、観客の集中力は著しく削がれる。このように身体的に負荷のかかる環境下で、哲学的な引用を含む長台詞の全てを解するのはなかなかに困難で、また作り手側がそれを期待しているとも考え難い。その中で意識化されるのは、発言の意味内容よりもむしろ、話し/聞く身体の生理的感覚それ自体であろう。水で喉を潤しながら、身振り手振りを交えて語るダンサーと、同じく事前配布されたペットボトルの水を飲みつつ、目と耳に飛び込んでくる情報の意味を思考する観客。ダンスの喚起する運動感覚的共感以上に「身近」な身体の交感と同調が、両者の間には生まれている。

  ここで二項対立の話に立ち返ると、『白鳥の湖』にはひとつ面白い特徴がある。それは、白鳥オデットと黒鳥オディールという正反対の特徴を示す2役をひとりのダンサーが踊る伝統が、プティパ&イワーノフ版(1895)以来定着していることである。言説上相対する二項が、ひとつの身体のうちに共存すること――この発想を適用すると、大植と児玉が本作品において言葉に比重を置いた意図が見えてくるように思われる。すなわち、バレエが自律した1ジャンルとなってから西洋舞踊の歴史の中では長らく対立関係にあったこの二項を、いま再び身体を介して結びあわせる――『白鳥の湖』からの着想(インスピレーション)、あるいは妄想(デリュージョン)として、そのような心身二元論を超えた両義的なあり方の実現が志向されていたのではないだろうか。





川村美紀子――主題の変奏

  形式・構造といった外枠に注目した上述の2作品とは対照的に、川村美紀子は『白鳥の湖』の内容面に真っ向から対峙する。主題、楽曲、特徴的振付といった諸要素を自らの世界観に組み込みながら、王子様の到来を夢見ていた無垢な少女が、恋愛に翻弄された挙句、猟奇的狂気へと陥ってゆく物語へと大胆に書き換えたのである。

  自作自演のソロ作品、とりわけプライベートな主題を扱う私小説的な作品は、ともすると独り善がりな印象を観客に与えてしまう危険性を有する。しかし川村は、そこかしこに「醒めた目」を入れ込むことで、個人的な物語を描きながらもこの陥穽にはまることを巧みに防いだように思われる。たとえば、各場面を分割するインタータイトル。‪「王子来たる」‪「白鳥のソロ・コーダ」‬といった‬場面タイトル(と思しきもの)と使用楽曲情報がスクリーンに映写されるが、これらは時間進行を強制的に断ち切るのみならず、しばしばメタ的に作用する。丸めたティッシュ3つと共に踊る‪「4羽の小さな白鳥の踊り」や、黙々と膝で回り続ける「黒鳥の75回転」などがその例である。‬‬‬‬‬‬

  また、一見物語から浮いて見えるダンスも、同様の役割を担っているだろう。王子との出会い、求愛など、心情を表す情緒的なダンスを踊ることが予想される場面で、川村はストリートダンス由来の技術を駆使しながら――踊っていない時の内気な挙動からは想像がつかないほど――パンチの効いたダンスを踊りまくる。様式性の高いその動きの迫力によって、甘いムードは打ち砕かれ、物語は一時的に宙づりになる。

  そして何より、憧れの王子様は、「王子」と書かれた紙を頭に張り付け、赤褌のみをまとった男性マネキンなのだ。笑いには一種の対象化の作用があるが、このように作品のあちこちに散りばめられた「突っ込みどころ」が、“ダンサーとしての川村”が演じる物語を突き放して見ている“振付家としての川村”の存在を示唆し、単なる「私語り」とみなされることを回避している。

  とはいえ、クールなまま終わるわけではない。非常に緻密な構成力と破壊的なエネルギーの共存によって、カオスとコスモスが入り乱れた境地にまで達するのが、川村の怪物たるゆえんである。作品が進むにつれ、観客は舞台上の川村の情念の渦へと巻き込まれていく。床中を水びたしにしながら、絶叫し、転げまわり、マネキンの王子をバラバラに解体していく最終場面には、ただただ圧倒されるほかにない。王子と王女の純愛悲劇として語られるおとぎ話を、ゴシップ誌がかき立てるような現実的で卑俗な男女の恋愛譚へと変奏し、女性の側から見たこの物語の理不尽さを前景化する。その試みは、古典の主題に対して「そんなの美しくなんてない!」と正面から殴りかかっていくような、痛々しいまでのパワーに満ちていた。


共有財産としてのダンス

  ダンスはそのメディアとしての性質上、上演と同時に消失し、演劇における戯曲、あるいは音楽における楽譜のような、作品の同一性を担保する誰もが参照可能な物質的手がかりがほとんど残らない。それゆえ、何を作品同定の根拠とするかは、――C/Ompanyの作品の最後に語られる「これまで見た『白鳥の湖』を想像してください」という言葉が示唆するとおり――もっぱら個人の主観的経験に根ざすしかない。その点において、この『白鳥の湖』連続上演は、観客としての自らのまなざしのバイアスを殊更に省みさせられるものであった。

  『白鳥の湖』というよく知られた古典作品ひとつの中にも、限りなく広がる読みの可能性がある――上に挙げた4つの多彩な挑戦は、私たちの足元に広がるダンスの歴史の豊饒さを実証している。大概の目新しいことはすでにやり尽くされている今必要なのは、その大地を耕して新たな実りを得るとともに、未来に向けた「土作り」を行っていくことではないだろうか。東京で舞台を見ていると、文脈化の試みがなされないまま、ただただ作品が消費され、忘却されていく危機感を覚えることが時折ある。だが――『白鳥の湖』を例に語るなら――後世の多くの演出のもととなったプティパ&イワーノフ版の白鳥と同様、2017年版の白鳥もまた、将来の『白鳥の湖』の礎となるべきものだ。痩せた地では、作物は育たない。未来のダンスの発展のためにも、今のダンスを歴史のうちに組み込んでいくことは急務なのである。

  ダンスをどのように記録にとどめ、共有財産として蓄積し、さらに活用していくか――より視点を広げれば、これはアーカイヴの問題にもつながってくるだろう。だが何よりもまず欠かせないのは、「今目の前のダンス」と「歴史」の関係を絶えず問い直していく個々人の姿勢である。その中で、重厚な名作をお題として提示することで、過去の遺産と主体的に向き合う機会を作り手と観客の双方に提供する「ダンスがみたい!」の試みの意義は大きい。春の祭典、サティ、白鳥の湖……さて、来年は何が待ち受けているだろうか。





劇内容と形式が幸福な一致を見せた告白劇
藤原央登
劇評家

劇団あおきりみかん『つぐない』
2017年6月24日(土) & 25日(日) 会場 アイホール(伊丹市立演劇ホール)

2017年7月6日(木) ~ 17日(月・祝) 会場 G/PIT
2017年8月4日(金) ~ 6日(日) 会場 池袋シアターグリーンBOX in BOX THEATER

©佐々大助


  名古屋を中心に活動する劇団あおきりみかん(1998年旗揚げ)の作品は、2012年に『湖の白鳥』(池袋シアターグリーンBOX in BOX THEATER)を一度観ただけなので、劇団の作風や変遷は知らない。ただ、本作で5年ぶりにこの劇団を観て、その内容の厚さにちょっと驚いてしまった。他者に過去を告白することで自己が開放され、無意識に抑圧していたトラウマと向き合う。そのことが自身に対する「つぐない」となって生まれ変わる女(みちこ)。女の告白を聞くことが自らの過去を逆照射することになり、殺人を踏みとどまることができた男(松井真人)。共に肉親への悔悟の念に捉われた男女の告白劇は、他者を発見することで互いが互いを癒すカウンセリングのような効果をもたらす。彼らが癒される過程を追うことで、最後には観る者も心が洗われるような気持ちにさせられた。作・演出の鹿目由紀はキリスト教系の学校へ通っていたという。決してキレイ事ではない、内容的な強度を持たせることができたのは、鹿目に備わった活きた宗教観念が込められていたからだろう。
  とある教会の礼拝堂。長年の問いを解決するためにやってきた女が男にした告白は、これまでただの一度も罪悪感を抱いたことがないというものであった。女は過去に遡って、いかにそのような人生を送ってきたかを具体例を挙げて男に説明する(回想時の女は平林ももこが演じる)。小学校5年生の頃、自分の悪いところを書き出す授業で「ありませんと」記して先生に怒られたこと。万引きの現場を彼氏に見つかった高校時代。社会人になってからは妹・咲菜(川本麻里那)の彼氏と浮気し、不倫も経験した。犯罪を含む行為を働いても、彼女は罪悪感を抱くことはなかった。そのことをとがめられる度に、形だけの「ごめんなさい」で切り抜けてきたのだった。罪の意識に苛まれて懺悔に来ている男は、自分とは対照的な女の話にしだいに引き込まれてゆく。そして男は女のケースと比較検討するように、自身が罪悪感を抱くきっかけとなった妹との出来事を想起する。女と男の告白が進むにつれて、咲菜が起こした殺人未遂事件が判明する。女は咲菜の弁護士(花村広大)から依頼されて、事件についての証言を明日行うことになっているのだという。女は罪の意識がないため、かえって相手に罪悪感を強く植えつけてしまい、「無自覚に人を傷つけ」てきた。これが弁護士の見立てによる女の大きな罪である。咲菜を救うためにも女はその点を自覚し償わなければならない。そのように弁護士に諭されて、女は教会にやってきたのだ。


©佐々大助
  女と男の過去、弁護士が女に放った言葉、咲菜の裁判。4つの出来事が想起されるたびに、礼拝堂でその様子が再現される。なお、女と男は自身の心情や、相手・場の雰囲気を過去形で説明する。劇全体が告白の様相を呈している構成が巧みだ。過去の出来事は単に思い出すことから、次第にフラッシュバックするような切羽詰まったものへと変化する。インサートされる過去がテンポとリズムを作り出し、しだいに劇にうねりと切迫さをもたらしてゆくのだ。その過程で、女の抱える心の闇が暴かれる。罪悪感のなさによるこれまでの様々な行動が、実は咲菜のためを思ってのものであったこと。エスカレートする行動は、そうするように咲菜が仕向けたこと。さらに深層心理へと入り込むことで、父親を巡る咲菜とのトラウマが根本的な原因であったことが判明する。小学校4年生の時に離婚した両親の内、父親と暮らしたいばかりに、女は咲菜が母親と暮らしたいと言っていたと嘘をついた。女は父親と暮らし始めたが、1年後に父が急死。再び母元で暮らすことになった。嘘をついたことを悔いていた女は、咲菜に謝罪しようとする。しかし、咲菜は女のしたことを全て知っていた。その上で、今後は一切、その話をもちださないでほしいと咲菜は女に告げる。謝罪する機会を先回りして封じられたショックのあまり、女はそれらの出来事を潜在意識下に押し殺してしまった。それ以来、女は無意識の欲求に従うままに、罪悪感がないという言い訳を作って咲菜に許されるための贖罪を続けてきた。一切を知る咲菜は、女が自らの意に添うように巧みにそそのかして利用してきた。その「つぐない」の一環が、咲菜が起こした殺人未遂を自分がやったと裁判で「自白」することなのであった。女は罪悪感を抱かない人間なのではなく、その人生は罪の意識を感じないように自己を抑圧してきたことが浮かび上がる。当初は、女がいかに特異な人間であるかがコメディタッチで描かれる。だが、全てを了解した後に同じ回想シーンが繰り返されると、水を打ったように笑いが消え、見え方が180℃変わる。罪の意識がなく他者を欠いた自己本位な人生だったのではなく、咲菜に対する子どもの頃の後悔を抱えたまま、卑屈に生きてきた女の苦しさが滲み出てくるのだ。
  舞台の構成だけでなく、女と男のやりとりをはじめ個々の場面のやりとりが非常に丁寧で、不自然で唐突な会話がほぼない点も目を見張った。その台詞の積み重ねが巧みな劇構造を作り、人間の深層心理を暴露してゆく。配置された伏線が回収されてゆく手つきは、ミステリーのような感触を与える。だから、舞台が進んで謎が解かれてゆくほどに観客は作品に引き込まれてゆく。例えば父親の存在が次第にクローズアップされてゆく過程にそれは顕著だ。赤の他人の男に告白をしようと思った理由は、彼とすれ違い様に父親が吸っていたタバコの匂いがしたから。女が咲菜の元彼・飛影(ギャバ、近藤彰吾のWキャスト)とセックスした後に、彼から泣いていると指摘された時、最後に泣いたのは父親が他界した時だと回想する。弁護士から執拗に「つぐない」を要求されても従順なのは、彼が父親に似ていたからだ。女が咲菜の罪を被って救うことができれば、彼女に恋愛感情を抱いている弁護士=父の幸福にもなる。2人が幸せになることが、愛する父と咲菜への最良の「つぐない」だと女は考えたのかもしれない。実際には、女が罪を被らざるを得ないよう咲菜と弁護士が洗脳するように仕向けたのであったが。


©佐々大助
  そんな女が、無意識に深く潜水したことで行き着いた答えは、「わたしは明日の裁判について考えていた。先生(弁護士)がどう思うかは分からない。ただ、わたしはわたしの思ったとおりにつぐなってみよう。今は、そう思っている。」である。咲菜の罪を被ることなく、事件の一切を正直に述べることを決意する。女の決意は、法廷で証言する際の宣誓文-良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない-と二重写しとなる。懺悔の効用は個人を生まれ変わらせるだけでなく、その者が公共の場において良い影響力を与えうることにある。そのことを観る者に説得力を持って伝える見事な場面であった。このように、自己を抑圧してきた原因を見つめる女の過程が、サスペンスフルに仕立てられた巧みな劇構造に落とし込まれている。内容と形式の幸福な一致が、本作の高い水準を支えているのだ。
  女にそのような変化を促したのは、自己を見つめる告白を赤の他人に行ったからである。そのことが、妹への謝罪を封じられて以来、自己の殻に閉じこもっていた女を開放する契機となっている。実は、女自身は気付いてはいないが、すでに彼女の人生には常に一人の他者がいた。高校時代の元カレであり、女と別れた後は咲菜と交際していた貴大(カズ祥)である。貴大は女と別れた後もずっと彼女を心配し、人一倍罪悪感を抱いて生きてきたことを見抜いていた人物である。咲菜と付き合ったのは、貴大との交際を願う咲菜のために女が動いたからである。交際したものの貴大にフラれた咲菜は、彼に復縁を迫る。それを貴大に拒否されたことで、咲菜は彼を包丁で刺してしまったのであった。これが事件の真相である。女が咲菜の罪を被ろうとしていることを知った貴大が、教会にやって来て馬鹿なことをするなと忠告するシーンがある。女はこれまでと同じく「ごめんなさい」と謝るが、貴大は「…それホントっぽいな。」とつぶやく。自分のことは自分では把握できない。他者がどのように自らを受け止めているか、他者の視線を介した自己像を自らに差し返すことで、自分の存在がぼんやりと浮かび上がってくる。それを知ることはまた、自分が社会のどの位置にいるかの指標ともなろう。すなわち他者の存在が、自己を公的な場へと開く契機になるのだ。ずっと女を見守ってきた貴大とのやり取りには、そのことが提示されている。このような効果は、女の話を聞いて自らを相対化してゆく男にも訪れる。彼の妹・聡香(山口眞梨)は男の反対を押し切って洗礼を受け、シスターになった。その理由は神父への恋心のためであった。聡香は神父との恋に破れて自殺してしまう。それ以来、男はもっと強く反対すべきだったという強い後悔と罪悪感を抱いてきた。そして当の相手がこの教会の神父であることを知った男は、3回目の懺悔の今日、それを終えた後に刺殺する計画を持っていた。だが、女の告白を受けて自己を相対化することにより、男は犯行をすんでのところで踏みとどまる。

©佐々大助


  抑圧していた自己を見つめて癒し、最終的に事実を捻じ曲げずに主張しようとする女と、すんでのところで自制した男。本作は彼らの変化の過程を、多くの葛藤を盛り込みながら丁寧に描いた。女にとって事実に基く真実を述べ主張することは、咲菜の恨みを買ってしまうかもしれない。だが咲菜との関係を築き直すためには、彼女への卑屈な思いを断ち切ることが第一歩となる。そのためには、多少の痛みを覚悟の上で真正面から咲菜と正対しなければならない。女が到達した決意にはそのような強い意志がある。これが、隣人愛に代表されるキリスト教の、鹿目ならではの描き方なのだと思う。現在、自らが信じる事柄だけが真実であり、それ以外はフェイクニュースと決め付けるトランプ大統領がいる。日本では森友、加計、自衛隊の日報問題において、「記憶にない記録がない」を連発して、一方通行の不毛なやり取りが国会でなされた。見方や立場によって異なる物事を、軌道修正して補完し、ひとつの真実に近づけようと努める。それが開かれた公の場における議論のあり方にもかかわらず、自身の正当性だけを強調する為政者の姿を我々は見てきた。女と共に観客も心が洗われる気がしたのは、本作がこのような対話なき世界への批評になっているからである。そういう意味でも、本作は2017年の新作公演の中で群を抜く出来であった。
  俳優陣は、屈折したトラウマを吐露する女と男を演じたみちこ、松井をはじめ皆水準が高い。涼しい顔をして姉を利用する川本が演じた咲菜の小悪魔ぶりも印象深い。花村は、ナルシスティックでオーバーな仕草を取り入れて、アクの強い弁護士を造形。強烈な個性で笑い取った。改めて、良い俳優がたくさんいることを感得させられた。冴えていた演出にも触れておきたい。強い風が吹き込んで吊り下げられた電灯が激しく揺れたり、聖歌が流れてミサの雰囲気が訪れる礼拝堂は、様々な貌を見せて変化する。それが、女と男の刻一刻と変わる心理の視覚化として機能していた。





唐十郎の繋ぎ方—『ビンローの封印』『腰巻おぼろ』二つの公演を巡って
石倉和真
演劇研究

劇団唐組『ビンローの封印』
2017年4月28日(金) ~ 30日(日) 会場 南天満公園

2017年5月6日(土) & 7日(日) / 12日(金) ~ 14日(日) / 6月3日(土) & 4日(日) / 9日(金) ~ 11日(日) 会場 新宿・花園神社
2017年5月20日(土) & 21日(日) / 26日(金) ~ 28日(日) 会場 雑司ヶ谷・鬼子母神
2017年6月17日(土) & 18日(日) 会場 長野市城山公園・ふれあい広場
2017年6月23日(土) & 24日(日) 会場 甲府市歴史公園・山手御門前

新宿梁山泊『腰巻おぼろ 妖鯨篇』
2017年6月17日(土) ~ 26日(月) 会場 新宿・花園神社境内 特設紫テント


  今年三月に『唐十郎特別講義 演劇・芸術・文学クロストーク』(唐十郎著 西堂行人編 国書刊行会)という本が発売された。これは二◯◯五年、六年当時、近畿大学の客員教授だった唐十郎の授業を活字化して集録したものだ。唐の創作プロセスや「状況劇場」を巡る貴重な証言が、同じく近畿大学教授(当時)で演劇評論家の西堂行人氏のインタビューによって引き出される。詳細な説明はここでは避けるが、唐十郎の脳内に広がる幼少期の原風景から、縦横無尽に展開する創作の秘密を垣間見ることができる内容となっている。

  「生きる伝説・唐十郎」は病に倒れた今もなお、現在進行形で語られ続けている存在だ。
  今年は本家ともいえる「劇団唐組」が四月末から六月にかけて『ビンローの封印』を二十五年振りに再演して、大阪、東京、長野、山梨を回った。唐と縁のある「新宿梁山泊」も主宰・金守珍の演出で同じく四月末に唐作品『風のほこり』、『紙芝居』を芝居砦・満天星で立て続けに上演した後、六月には新宿・花園神社でテント公演『腰巻おぼろ-妖鯨篇』を上演した。また金守珍といえば、記憶に新しいところでは昨年(二◯一六年)、シアターコクーンで故蜷川幸雄の追悼公演で同じく唐の『ビニールの城』を演出している。
  このように現在でも定期的に過去作品の再演が続く唐十郎の「魅力」(魔力と言った方が適切か)とは何なのだろうか。
  「状況劇場」が新宿・花園神社で最初のテント公演「腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇」を行ったのは一九六七年(昭和四十二年)。そこから数えて今年はちょうど五十年目の節目の年にあたる。その半世紀の総決算(というと少し大袈裟な気もするが)として、前述の「劇団唐組」の『ビンローの封印』と、「新宿梁山泊」の『腰巻おぼろ』の上演が花園神社で行われたことは感慨深い。
  一時の中断はあったとしても、半世紀に渡り「テント」という非日常空間が新宿の真ん中に立ち続けたことの意義は、日本の現代演劇を考える上で重要であろう。安保闘争に揺れた六十年代〜七十年代から、八十年代の大量消費社会とバブル景気、そしてその崩壊を経て、九十年代以降現在まで続く大不景気時代。様々な時代のそれぞれの空気を吸いながら、それでも「テント」は依然そこに立ち続けた。忙しなく変化を続ける社会を底辺から見上げるように。

劇団唐組『ビンローの封印』©唐組


  劇団唐組『ビンロー封印』の初演は一九九二年(平成四年)。
  その前年の一九九一年に、東シナ海で操業中の日本漁船が外国船に襲撃を受けた実際の事件を元に、唐十郎が独自の解釈を加えて創作した。日本統治時代の台湾、そして今日へと続く尖閣諸島を巡る歴史的問題、そこに偽ブランド業者や、マフィア、カラオケ教室などの現代的要素、果ては実在の哲学者「和辻哲郎」までも登場し、それらがすべて唐式迷宮回路に組み込まれていく。
  お馴染みの唐組メンバーに加え、若手俳優も積極的に起用した。中でも唐組初出演の全原徳和は独特の存在感を放ち、舞台に新しい風を吹き込んでいたのが印象的だ。劇団全体に若い力が戻ってきた。
  この劇の中でも印象的なのがタイトルにもなった台湾のヤシ科の植物「ビンロー」(檳榔=びんろう)だ。日本では馴染みのない、台湾の嗜好品である檳榔は、石灰を混ぜて噛むと唾液が化学反応を起こして赤く染まる。それを飲まずに吐き出すと鮮血が飛び散ったような跡が残る。そして軽い酩酊と興奮状態が訪れるという。本作ではヒロインの女海賊を演じた赤松由美が檳榔の実を齧り実際に吐き出すが、赤い鮮血のような唾液を吹く彼女の姿は非常に妖艶であり、同時に他者を拒絶するような攻撃的な身体を見せつける。この辺りの人物造形には唐十郎のフェティシズムを感じる。


劇団唐組『ビンローの封印』©唐組
  唐十郎と檳榔といえば、私は一九九六年の映画『海ほおずき』(監督:林海象)を思い出す。この映画で唐は脚本と主演を務めた。そして劇中には檳榔がやはり重要なアイテムの一つとして出てくる。台湾で起きた女子大生失踪事件の謎を追うこの探偵映画には、檳榔の他にも、海上で襲われた元・漁船の無線航海士(原田芳雄が好演)とその手に巻きついたコードという設定など、『ビンローの封印』と共通した要素が多い。またこの映画はほぼ全編台湾で撮影が行われている(『ビンローの封印』の初演時も唐組台湾公演を行っている)。
  九十年代の唐十郎は台湾海峡や尖閣諸島、そしてその狭間で生きる特定の国家に所属しない海賊のような人間たちなどに関心を寄せていたことが分かる。唐作品には「水」にまつわるイメージが多く登場するが、「水」のイメージが「海」に繋がり、現実の事件を織り込みながら海路で結ばれた東アジアの近代史を巡る物語に展開していったと言える。
  唐十郎はこのように独創的なイマジネーションを広げながらも、実在の人物や実際の事件を創作の出発点に使うなど、ある意味では常に時代を意識してきた作家と言える。
  私が観劇した回の終演後には唐十郎が自ら舞台に上がり、観客に挨拶をした。その際唐は「久しぶりに久保井のにおいを嗅いだ気がしました」と語った。この発言にはどのような意図があるのだろうか。
  久保井研は唐十郎が二◯一二年に病に倒れてから劇団をリードしてきた。現在は役者として舞台に立ち続け、さらに唐に代わり「演出」という重責も担っている。この演出という部分について、おそらく久保井は唐十郎の単なるコピーアンドペーストではなく、独自のアプローチで「久保井色」を出そうとしているのではないだろうか(公演前のインタビューからも久保井は「唐組」作品の選定と演出に当たり「ウェルメイド」を意識しているように思われる)。それを実際の上演から読み取った唐は「久保井のにおい」と表現したともいえる。
  あくまで戯曲は戯曲として、演出についてはこれまで唐十郎の元で得た経験を活用しながら、最終的には久保井の解釈に基づいた演出を施していく。もちろん、“本家”「唐組」であればこそ、これまで唐十郎と「劇団唐組」を応援してきた観客のことを意識する必要もあろう。独自の演出、言うなれば唐十郎の演出からの脱却ともなれば、これは劇団としてもリスクも背負うということでもある。おそらく観客の多くは「唐十郎のにおい」を求めて来場している。そこにどのように久保井流の「におい」を加えていくのか。これは今後も続く課題となりそうだが、少なくとも演出家=久保井研の決意のようなものが表れた公演となった。

新宿梁山泊『腰巻おぼろ 妖鯨篇』©大須賀博


  水や海のイメージがより鮮明に打ち出されていたのは、同じく新宿・花園神社にて上演された「新宿梁山泊」の『腰巻おぼろ-妖鯨篇』だ。これは一九七五年に「状況劇場」が上野不忍池で上演した伝説的な作品である。そして初演以来再演されてこなかったこの作品を、「新宿梁山泊」は見事に現在に蘇らせた。休憩を挟んで上演時間三時間半に及ぶ大作であるにも関わらず、終始疾走感とエネルギーに溢れ、観客を飽きさせない展開はさすが老練の劇団と言える。そして唐作品の魅力を理解し尽くした演出・金守珍と役者のそれぞれの技が光る。前述の「劇団唐組」が新しい方向性を模索しているなら、こちらは、ある意味正攻法で唐作品にぶつかっていったと言えよう。
  ただし、正攻法と見せかけながらも、元々上演時間が五時間を超えたと言われるオリジナルの戯曲から、ディティールを壊さないようにセリフを少しずつ削ったことは今回功を奏したと言える。破天荒なストーリーでありながら、舞台全体のリズムが整っていた。


新宿梁山泊『腰巻おぼろ 妖鯨篇』©大須賀博
  本作を象徴する仕掛けとして捕鯨船が登場する。ここには一九七◯年代の反捕鯨運動の影響が見られる。一九六◯年代末ごろから国際的な海洋生物資源保護の動きが出始め、一九七二年にはアメリカ合衆国は海洋哺乳類保護法を可決。過激な反捕鯨活動で知られるグリーンピースが初めての大々的な反捕鯨キャンペーンを展開したのもこの作品が上演されたのと同じ一九七五年である。『腰巻おぼろ』はこのような時代を背景として生まれた作品である。前述のように、唐十郎は七十年代においても最新の時事を自作にうまく取り入れながら、作品世界を膨らましていたことが分かる。
  残念ながら私はこの初演については、数点の写真を見た限りであるが、唐十郎が演じた元捕鯨船の船長、千里眼のインパクトは強烈だ。肩をすぼめて目を見開いた異様な立ち姿、クライマックスの立ち回りの舞台写真からは、俳優・唐十郎ここにありという迫力が伝わってくる。今回、その千里眼役を唐十郎の長男である大鶴義丹が務めたことが話題になった。
  大鶴義丹は近年「新宿梁山泊」の客演として過去の唐十郎作品の上演に参加していて、直近では『二都物語』、『新・二都物語』でも舞台に立つなど精力的だ。
  客席からは大鶴が登場するや否や「義丹!」という声が掛かる。演技も堂々たるもので、父の演じた役を見事に演じてみせたといえるだろう。
  また同じく今回客演で、「状況劇場」を代表する俳優の一人だった大久保鷹の「怪演」も健在だった。こちらも四十二年前と全く同じ役を演じたということで話題になった。
  女優陣の美しい舞と可動式の舞台美術と映像のコラボレーションも印象的だ。しかし圧巻なのは舞台で惜しみなく本水を使ったラストシーンである。客席まで押し寄せるほどの大量の水、さらに巨大な捕鯨用の銛はクライマックスに相応しい圧倒的なカタルシスをもたらした。


新宿梁山泊『腰巻おぼろ 妖鯨篇』©大須賀博
  しかしここまで書いて私はふと思う。これではまるで下手な歌舞伎のレビューのようである。
  そもそも大向こうから声がかかる時点で、これは「現代演劇」ではなく、ある種の伝統芸能のようにも思える。私は先ほど大鶴義丹を唐十郎の長男、と書いたがおそらく客席のほとんどがそのことを承知のはずである。そして父と同じ役を演じていることも。最初からそのようなフィルターを通して彼を見ている。カーテンコールでも演出の金守珍が大鶴義丹を紹介する際、「唐十郎のDNAを継ぐ男」と紹介していた。
  我々は大鶴義丹の中に、父である唐十郎を見ている。どこかで比較している。
  これは何なのだろう。唐十郎は既に「伝統芸能」になってしまったのか。
  もちろん大鶴義丹の演技は唐のそれとは全く違う。
  しかし、客席にいながら我々はどうしても唐十郎をそこに重ねながら見てしまう。
  『特権的肉体論』の「バリッと揃った役者体」と、実際の親子の「血脈」はどのように繋がっていくのだろうか。
  前述のように今回の公演では大久保鷹がゲスト出演していたわけだが、初演と同じ役ということもあって、我々は現在の大久保鷹の肉体を通して一九七五年の上野に立っていた大久保鷹をも見ていたと言える。ある瞬間に、四十年前の上演と現在とが二重になって見えてくる。そのような意味では、唐十郎の「血」が流れる大鶴義丹の肉体を、我々はある種のメディアとして捉えて見ている。現在の上演を見ながら過去を、大鶴義丹を見ながら父・唐十郎の演じた一九七五年の上野不忍池の景色を見ているとも言える。そのためには赤の他人よりも「血」を継いだ肉体のほうが現在と過去とを繋ぐ媒介としての強度がより強いと思われる。しかもその肉体には唐十郎だけでなく「おぼろ」を演じた李麗仙の血も流れている。伝統芸能は「血」と「型」で継がれるが、少なくとも「血」の部分については、唐十郎の伝統芸能化が進んでいると言えのかもしれない。

  唐十郎の継承を考えた時に、もう一つの問題は、「言葉」、戯曲の問題がある。唐十郎が「状況劇場」の役者に当て書きで書いた作品群、あるいは蜷川幸雄などの演出家に「当てた」書き下ろしの作品をどのように継承していけば良いのだろうか。正に「伝統芸能」よろしく「型」を作れば良いのだろうか。しかし、唐十郎の戯曲を上演するにあたり「型」で演じるのは作品としての強度を弱めてしまう気がしてならない。唐の戯曲は常に新しい演出、そのときの新鮮な「肉体」(年齢が若いという意味ではない。その時代を生々しく生きている身体)で戯曲世界を生き直す必要があるように思う。
  それにしても唐式迷宮は複雑である。読み直す度、上演を重ねる度に発見がある。生易しい肉体ではこの戯曲の言葉に蹴散らされてしまう。何故なら前述のように唐十郎は時代と並走し、時代と格闘しながら作品を作ってきた。役者もまた同じように格闘することを求められる。そこにはどのような役者の肉体が必要であろうか。唐十郎の作品に応じられる俳優は今後生まれていくのか。突き詰めると現代日本において「唐十郎(の上演)は可能か」などとも思ってしまう。
  しかし、戯曲が書かれた時代の「熱」を内包しているなら、同じような「熱」の中を生きているバリッとした役者の肉体を揃えるのも一つの手だ。例えば、日本という国籍にこだわらず、海外出身の俳優が唐十郎作品を演じるのも面白い。上演場所にしても、政治に対する若者の熱量と発展途中の経済の熱量が現在進行形で高い地域ほど唐十郎の言葉は映えるのではないかと思ってしまう。特に東アジアの経済発展の最中にある地域、新旧の価値観が衝突している場所ほど、唐の世界観が合うのではないだろうか。翻訳の問題はもちろんあるだろうが、唐十郎自身が長年東アジア(時には中東までも)に目を向けながら創作をしてきたのなら、唐十郎は日本だけの作家ではなく、そのような東アジア全体の作家という位置づけがあっても良いのではなかろうか。今後アジアの国々の俳優が集まって唐作品を上演する機会があれば面白いものになるだろうと密かに思ってしまう。



全力!大人の文化祭!!
〜すこやかクラブ『真夏のたちかわ怪奇クラブ』体験談〜

宮川麻理子
ダンス研究家

すこやかクラブ『真夏のたちかわ怪奇クラブ』
2017年7月28日(金) & 29日(土) 会場 たちかわ創造舎


  大人の本気は怖い。しかも、くだらないことに全力を傾ける、そのエネルギーが尋常ではないとなると、なおのことである。すこやかクラブ主宰のうえもとしほは、そんな大人の本気を引き出して、廃校となった小学校の校舎を丸ごと使ってこの『真夏のたちかわ怪奇クラブ』というイベントを行なった。廃校というと、打ち捨てられてうらぶれ、いかにも「出そう」なイメージだが、普段はそんなことはない。立川南エリアの文化拠点として注目を集める「たちかわ創造舎」として再活用されており、サイクリング拠点、数多くの映画撮影が行なわれている校舎、スポーツに使用されるグラウンド、誰もが立ち寄れる休憩所などが整備され、また複数の演劇団体やアーティストが拠点として活動を行っているのだ。すこやかクラブもここを拠点とする団体の一つであり、去年に引き続き二度目となるこのイベントを7月28、29日に開催した。28日は前夜祭、29日がメインイベントの日となっている。なお筆者は、このイベントの2日目にいわば「裏方」として関わっていた者であり、この文章は一般的な意味での「劇評」ではなく、部分的に参加した者が体感したその記録であることを明記しておく。

  さて、このイベント、イメージとして一番近いのは文化祭のお化け屋敷だろうか。だがそこはプロ。とりわけ各種展開されるパフォーマンスのクオリティは高い。その割に、イベント全体はそれほどかっちりとオーガナイズされておらず、そこはかとない緩さが「文化祭」感を醸し出している。古い教室、そして夏の暑さも相まって、大人にとってはどこか郷愁も感じられる。
  懐かしい下駄箱が迎えてくれる受付に立ち寄った途端、そこからすでに異様な光景が眼の前に現れてくる。白塗り、ざんばら髪になぜか矢が数本頭に刺さった上半身裸の男が闊歩し、大きなヤカンを頭にすっぽりとかぶった男はうろうろして時おり自分の頭から茶碗にお茶を注いでいる。平然と、しかしお化けの三角巾を付けてにこやかに受付するスタッフとのギャップ。最初からシュールすぎて笑えてくる。受付横にある待合室に案内されると、今度はネオンの飾りのついたケバケバしさ全開の白衣を着た養護教諭ふうの女と、ゾンビが登場する。このゾンビ、やたらに怖いのだ。まるで映画のようにリアルな特殊メイクもさることながら、折れ曲がったように動く体、やたら大きな叫び声など、集まっていた子供達はぎゃんぎゃん泣きわめく。大人でもちょっと怖い。しかも、ゾンビは、増える・・・。ゾンビたちに追われながら、白衣の女に「結界が張ってある」という校庭に案内され、そこでゾンビたちの踊りを見るという展開。どうやらプログラムによれば、これが「ゾンビの開会式」らしい。怪奇クラブの始まりというわけだ。以降は、30分に一度ほど開催される教室でのパフォーマンスと、常駐のインスタレーションなどを主軸として展開していく。

  校舎の二階にある職員室と教室で繰り広げられるパフォーマンスは、例えば次のようなものだ。「ゾンビ女子会」では、ゾンビになってしまった3人の女の子たちが、生前のことを夢想しながらダンスを踊る。変な角度に曲がった手足や不気味なメイクを施しているにも関わらず、元気よく踊る姿にギャップを感じ、この女の子たちはどこか愛らしくもある。あるいは「弾丸小学校」では、観客が席につき、先生役のパフォーマーによる授業6年間分が十数分の間に展開される。名簿での点呼や黒板を使った授業、そして席替えと修学旅行の枕投げなど、誰もがかつて経験したような懐かしさを秒速の展開と笑いで追体験していく。この他「地獄甲子園」や「給食おばさん」なども交互に上演された。懐かしいのに、すべてがどこかズレていて、そのズレが笑いを生む、そんなパフォーマンスだ。それを大人になってしまった私たちが、かつて実際に小学校であった場所で体験するということ。私たちの記憶と校舎の記憶が重なり合い、しかしうえもとの演出によってそれらはエネルギー溢れる「くだらない笑い」へと転化されていく。

  同じフロアの別教室はゾンビメイク体験コーナーになっており、写真による図解付きで誰もがゾンビメイクにチャレンジできる。その横では、オリジナルのゾンビ盆踊りの振付を解説するレクチャービデオが流れている。音楽室では竹を使ったインスタレーションの中、尺八奏者がセーラームンのテーマらしきものを演奏していたり、やたらテンションの高い校長先生が校長室を訪問した観客を相手にお話をしたりお菓子をまき散らしたり、スピリチュアル保健室なるものがあったりと、観客は自由に回遊してこれらを見ることが出来る。さらに、おばけの寄合所ではピアノの妖怪(?)が、「ピアノを弾いていかないか」と声をかけ、手を入れたところで「今だー!」と叫んで蓋を閉じ手を挟もうとする、お決まりのギャグで盛り上げ、廊下にはヤカン頭の男がただしゃがみ込み、あるいはカオナシのような司祭を連れたシスターがうろうろやってきて「あなたに霊が付いている」と迫ってきたり、単発的なパフォーマンスもちらほら見られた。オバケの「カオハメ」コーナーで写真撮影し、トイレに飾られたインスタレーション「うんこすごろく」や「うんこを題材にした俳句」でそのバカバカしさに笑い、「ジブリみたいなへや」で廃品を利用した立体彫刻オブジェの森に迷い込み(なおこの部屋は、普段からたちかわ創造舎に多くの立体彫刻オブジェを展示している作家の作品が陳列されている。それを「ジブリみたいなへや」としてイベントに組み込んだ格好だ)、大人が全力で悪ふざけをしているとしか言えないような気もするのだが、その全力加減が清々しく、体験型のイベント、そしてパフォーマンスとして楽しめるものに仕上がっている。
  最後はあいにくの雨ながら、校舎の屋上で盆踊り大会が行なわれた。観客は傘をさしながらもかなりの参加者がおり、ゾンビも人も関係なく輪になって踊って終了となった。(晴れていれば昭和記念公園の花火が望めたというから残念!)
  元は学校であったという場を最大限に生かしながら、「ゾンビ」「怪奇」というキーワードを見事に当てはめ、さらに様々な笑える演出・パフォーマンス、参加型の盆踊りと、そこに集う人々・老若男女が楽しめるプログラムになったのではないかと思う。
  課題としては、パフォーマンスの更なる充実があげられる。開会式から盆踊りの終わりまで4時間あり、同じパフォーマンスが交互に上演されるため、最初から来た人はやや時間を持て余すことになる。むしろここは、すべてのパフォーマンスを見て回るのが不可能なくらい、数が多い方が良いのではないだろうか。
  毎年開催され、立川の夏の一つの風物詩になるくらいにまでこのイベントが成長してくれることを願っている。



劇に幻想が立ち上がる瞬間
藤原央登
劇評家

燐光群『くじらの墓標 2017』
2017年3月18日(土) ~ 31日(金) 会場 吉祥寺シアター

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  元は漁業倉庫だった何もない場所。薄暗くなったその空間を赤や青、オレンジの照明が斜めに切り取る。日常がにわかに変容し、切羽詰まった雰囲気が空間に漂う。その緊張感をぶち破るように、シャッターが半分開いた外から突如として幻想が雪崩を打って劇空間に押し寄せる。打ちつける幻想の力に現実が取り込まれ、壮大な虚構が一挙に立ち上がる。そんな、久しく経験していなかった瞬間を目にした私はくらくらとした。現実を食い破る幻想の渦が「動」であるならば、繊細でエロティックな「静」の描写も対比的に置かれる。これらが渾然一体となり、劇の細部までは理解できなくとも、身体感覚で何事かを知覚し感応するという、劇のダイナミズムを味わった。これこそ、演劇を観ることの醍醐味であると確信させられる思いだった。   本作は1993年に初演。翌年には関西、名古屋などのツアー公演を行い、その後はロンドン(97年)とニューヨーク(99年)で外国人キャストでも上演された。後に坂手洋二はくじらを題材にした作品を数多く生み出してゆく。その原点ともなる本作が坂手の代表作のひとつであることが、初演から24年の時を経ての上演で納得させられた。
 事故で入院していたイッカク(HiRO)は療養がてら、管理人のような立場でこの倉庫に住み込んでいる。イッカクは、倉庫を所有する漁業関連会社の課長・シュウゾウ(鴨川てんし)の姪・チサ(宗像祥子)と婚約している。そんなイッカクを訪ねて次男から6男までの5人の兄弟がやってくる。厳かでゆっくりとした足取りから、彼らは死者のようにも思える。イッカクと20年ぶりに再会した彼らは、自分たちの出自を語る。代々続く捕鯨の家系であること、捕鯨してはならないと伝えられてきた子持ちのセミクジラを殺してしまったこと。その際に悪天候に見舞われて船が転覆した。禁を犯した家は末っ子を恵比寿(くじら)様に捧げることで、神の怒りを沈めてもらう必要があった。しかし、漁に出ていなかったイッカクを差し出すことは忍びなくてできない。そこで彼らは村を去って全滅したことにし、残されたイッカクを末っ子ではなく一人っ子の長男と見なすことで、難が及ばないようにしたこと。そしてこの度、イッカクはチサと婚約をした。結婚は新たに家を形成することである。すなわち、イッカクは末っ子ではなく家長である。村の因習には縛られない。ようやく、兄弟たちは顔を合わせることができたのである。

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  虚構と現実をない交ぜにすることは演劇にし得る大きな魅力である。嘘の力があまりにも強く出来させることができれば、そこに立ち会った者の現実認識が根底から変更する。嘘に基いた「本当」が現実となり、世界や人間の見方への新たな発見が与えられるのだ。とはいえ、そのように劇をつらえることは簡単ではない。強大な嘘は荒唐無稽さと裏腹でもあるし、それを支える細かな嘘を丁寧に説得力を持って用意しなければならない。舞台上で提示される嘘が、演劇ならではの虚構を成立させるための構成要素なのか、はたまた単なる無茶なのか。観客は鋭く見抜いてしまう。演劇は虚構ではあるが、だからといって観客は全てを「虚構だから」で片付けてはくれない。虚構を起こそうとする空間とさまざまな事物は実在のものであり、目の前の俳優は観客と同じ時代を生きる人間であるこをは忘れてはいなのだ。虚構を成立させる全ての要素が、強固な現実原則に支配されているものから成っていること。そのことを頭の片隅に置きながらも、なおかつ現実原則を覆す虚構を目撃すべく、観客は舞台に対峙している。

©姫田蘭


  虚構を成立させるのはそれほどまでに困難なのだが、本作がそのための条件をクリアーして幻惑空間を作りえたのはなぜか。それは、くじらと人間を中心とする、2項関係の対比と同質性との絶妙なバランス感覚にある。くじら=人間と明確に記されているわけではない。両者の境界線は曖昧である。だが、代々捕鯨を生業とする家系に生まれ、くじらの種別から名付けられた7人の兄弟たちが、くじらの生を背負っていることは想像がつく。だから観客は、時々のシーンでくじらと人間どちらの立場が強いのか、両者の関係を巡らせる。そしてそこに、一個の生物が存在する意味を思索する。つまり、俳優たちの存在は単なる人間ではなく、その彼方にはるかに大きく、同じ哺乳類のくじらを見るのである。したがって本作は、大海原を回遊するくじらと、世界内存在である人間を同時に浮かび上がらせることに成功しているのである。そのことは、半ば閉ざされた倉庫に大自然を呼び込むことにもなる。そんな劇世界で主眼となるのは、イッカクの存在の不確かさについてである。
  さらにはくじらと人間との対比と同質的が、つかず離れずの緊張感をはらみながら他の2項関係にも波及し、劇全体が円環をなしている。どこまでも続く合わせ鏡の像のように、自己像を巡る想念が拡散しながら累乗的に膨れ上がることで、どちらが自己なのかが判然としない領域へと進み出る。くらくらとする幻惑効果は、周到に構築されたこのような劇構造がもたらすものだ。それは結局、自己対話的だと言えなくはない。しかし、膨れ上がりながら最終的には円環をなす自己対話の巨大な渦を出来させたことによって、自然と人間とが不即不離な関係にあるようなイメージを想起させられた。それによって、世界は自分であるという壮大さと、それを裏返しにした世界にぽつねんと置かれた人間の寂しさを感得したのである。

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  2項の対比と同質性がくじらと人間だけでなく、広がりを伴って舞台全体に及んでいると感じさせる大きな要素を具体的に見てみよう。鍵はチサとクニコ(都築香弥子)の存在である。劇後半、チサが妊娠していることが発覚する。かねてよりシュウゾウとチサのただならぬ関係を知っていたらしいクニコの口ぶりから、2人の間の子どもではないかと思わされる。そういえば舞台が始まってしばらくして、イッカクとチサを交えて会話をしていた際、シュウゾウはチサを「ちょっと相談だ。」「すぐすむ話だから。」と言って、舞台上手の事務所へと誘っていた。実際にそこで何が行われたのかは分からないが、クニコの言葉によって点と点がつながり、チサとシュウゾウの不義密通を想像してしまう。その後、クニコはシュウゾウに離婚届に押印するように告げて去る。チサとシュウゾウの関係をいよいよ確信的に想像した私は、シュウゾウが封筒の中の用紙を取り出したところでその思いが裏切られる。そこには、水道料金の振替口座の変更届が入っていた。シュウゾウは言う、「私とチサは本当に何もない……。だけど、あいつの思い込みに合わせないと、あいつは本当に、おかしくなってしまう……。」と。ではチサの子どもの父親は誰なのか。イッカクは事故に遭った関係でチサとセックスをしていなかった。イッカクは後にチサから「気にしないで。あなたの知らない人だから」と言われる。ますます不安が募るイッカクは、「……俺は、ここにいちゃ、いけない。」と自己肯定感をなくしてゆく。兄弟が久しぶりに訪ねてきて、血縁関係が強固な捕鯨一家であることが判明したイッカクと、両親がおらずしかも親戚との不貞が疑われるチサは対比をなす。だが、婚約者ではない男の子どもを身ごもっているらしいチサと、リハビリ中でかつチサとの関係性が不安定になって孤独を感じつつあるイッカクは、それぞれに位相が異なるかもしれないが闇を抱える者という意味では同質的でもある。
  舞台は、机につっぷして寝ているイッカクにチサが語りかける静かなシーンで始まり、同様のシチュエーションを役割を交代して会話をするシーンで終わる。また、6男のサチオ(山村秀勝)がクニコの膝に頭を乗せて耳かきされている様子を見て、次男のサトオ(川中健次郎)がクニコに死んだ母親の影を見て抱きつくシーンが2回挿入される。こういったことを併せて考えると、この舞台には人間とくじらに代表される対比と同質性を、どちらが正解かを確定させない曖昧な領域が保たれている。さらには答えを出さない曖昧さを、微妙にズラしつつ円環させる構造となっている。それゆえに、観る者に舞台の緻密な読解を誘発して止まないが、そう試みようとすると虚空を掴むような捉えどころがないもどかしい感覚に陥る。しかしその感覚が人間存在の不確かさへと通じていることは、身体的な実感として確実に感じられる。この辺の絶妙な加減が、本作の秀逸な点であり魅力となっている。

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  続いて冒頭に記した、劇的な幻惑を強烈に感じさせるシーンについて触れよう。かつて捕鯨をしていた際、見張り役だったサトオが東京湾の海面がかすみはじめたことを確認する。3男のゴンゾウ(杉山英之)は気のせいだと取り合わないが、シャッターの外からロープをひっぱってきた叔母のタツエ(中山マリ)がサチオを伴ってやってきて、倉庫内の机の脚にロープをくくりつける。ロープの先が引いていることを目の当たりにして、彼らは本腰を入れて捕鯨に取り掛かる。すっかり夜になった外は、突然の風雨。ロープの先に食らいついた獲物が引く力はかなり強い。ロープを必死に引っぱる兄弟たちも大きく左右に揺られる。くじら唄を歌い、祈りを捧げながら、あらん限りの力で引き続ける。その果てに登場したのは、これまで姿を見せなかった長男・ナガス(大西孝洋)である。ナガスとの会話の中で、彼はセミクジラの親子を殺しただけではないことが語られる。悪天候のためにくじらの追跡を止めるよう間に入った船に向って機関銃を撃ち、沈没させたのだ。そんなナガスを他の兄弟たちは海に沈め、乗っていた船を難破させて全滅を装ったのである。掟を破って強行したセミクジラ獲りに対する罪滅ぼしの意味だったのだろうか。そしてナガスに誘われるように、6兄弟はガレージの外へ消えてゆく。彼らはやはり死者であり、海に還ったのか。ここで対比と同質性は、生と死の要素をも含み始める。なお、イッカクが妊婦姿のチサを刺殺するという、イメージのようなシーンがこの後にある。これも、ナガスがくじらの親子を殺したこととの対比である。くじらと人間が別々に刺殺されることにより、くじら=人間の同質性と円環が観客の脳内で成立する。

©姫田蘭


  さて、兄弟たちが再びイッカクの前に姿を現すのは、兄弟たちが海に去り、チサとの関係性にも自信が持てなくなり、「……なぜ俺だけ、生きてる。」と陸に打ち上げられたくじらのようにたった一人きりで絶望の淵に立っているような状態の時である。自殺をするのは人間とくじらだけだという。くじらは陸上でも呼吸はできるが、自重で内臓がつぶれ、皮膚が炎症を起こしてやがて死んでしまう。陸にくじらが打ち上げられるのは事故という説もあるが、たとえ海に戻したとしても、また陸に上がってきてしまう。したがって、自殺ではないという科学的な証拠はまだないのだという。呆けたようにそのようにつぶやいて包丁を手にするイッカクは、死の念に取り憑かれている様子。陸に上がって死にそうなくじらのようにイッカクはボロボロだ。そんなイッカクの背後から、鞄を手にしコートを着込んで外出姿の兄弟たちがやってくる。陸には限りがあるが海は広い。その海はどこかでひとつにつながっている。我々は別々の人生を歩むが、またいつか出会う時がくるだろう。兄弟たちはそうイッカクに語りかける。イッカクはこのまま自殺するのか否かは分からない。ただ、ひ弱なイッカクが、身体の何倍もある瀕死のくじらのように寂しく見えた。
  ここまで自分なりに本作を読み解いてきたように、現実と虚構、どちらでもありどちらでもないような不思議な舞台である。そんな中で、死に行く一人の青年の身体感覚だけは確かなものとして感じられる。この世界でただ一人であることの不安感を、個人の狭い世界に閉じ込めるのではなく、文字通り大海に広げる手つきに、本作が射程に収める世界の広さがある。そこに、世界とのつながりを切実に求める意志を感じた。そこに私は端的に感動したのである。本作には、劇を生む詩の感覚が溢れている。
  くじらの生態や伝統的な捕鯨の説明が散りばめられているにもかかわらず、行間が豊穣な文体。劇中で実際に鯨肉を焼いて試食するシーンもある。鯨肉の独特の匂いを初めて体感した。そんな劇世界を成り立たせる俳優たちは全員健闘している。初演時の俳優が数人出演しているが、そこには継続した活動を続けてきた劇団にしかできない共同作業の底力を感じた。若手ではチサを演じた宗像祥子が目を惹いた。宗像は昨年の『カムアウト2016←→1989』(下北沢ザ・スズナリ)でも要となる役を演じた。子どもっぽさを残しながらも肉感的なエロスが、ロマンス溢れる坂手の幻想劇にぴったりで、たっぷりとした芝居が良く活きていた。イッカク役の客演・HiROは中世的な立ち振る舞い。始まってしばらくはナイーブすぎると思ったが、過剰な繊細さとでもいう演技がしだいに迫力を持ち、生と死の間でなんとか踏みとどまる青年の苦しみを体現した。テーブルの上で行われるイッカクとチサの情交は、陸に打ち上げられた鯨のように、苦しくもエロティックな情感が匂い立っていた。

戯曲引用︰坂手洋二『くじらの墓標』而立書房,1998年





一人語りに他者性を導入するための格闘
藤原央登
劇評家

女の子には内緒『ささやきの彼方』
2017年3月9日(木) ~ 14日(火) 会場 ONLY FREEPAPER ヒガコプレイス店(東小金井)


©朝岡英輔

  2016年度のせんだい短編戯曲賞を受賞した『ささやきの彼方』は、約45分の作品である。この中に、作・演出の柳生二千翔の魅力が十分に詰まっている。女の子には内緒は、2013年に柳生が設立した演劇ユニットである。柳生の作品を観るのは今回で3作目だ。初見は2015年11月、blanclassという横浜市の住宅街にあるアトリエで上演された『手のひらコロニー』。街中をチープなおもちゃや小物で見せる美術に、映像・照明を含めた演出にセンスの良さを感じた。中国や中東情勢といったアクチュアルな問題をも想起させる、境界線を巡る作品であった。2作目は今年1月、青年団とこまばアゴラ劇場が運営する演劇学校、無隣館の若手自主企画vol.15 柳生企画での『メゾンの泡』(アトリエ春風舎)。近未来の集合住宅を舞台に、階層で分断された人間を描いた内容だった。富裕層は上層階に、そうでない者は汚染された地上での生活を余儀なくされている状況を描くこの作品でも、境界線というテーマが浮上していた。それと共に今作を観て了解したのは、柳生の関心が街と人の関係性を巡ることにあるらしいということであった。都市の現代的な描写と、そこに住まう人間の生き様。そしてその交叉点を巡る思考。1993年生まれの若い作家の現時点でのこだわりが、今作では強く伝わってきた。


©朝岡英輔
  一人芝居である本作の魅力は、「私語り」という意味での一人語りから脱しようとする格闘が看て取れる点にある。たとえ第三者として語っても、そのような立場で語るのは舞台上に立つ俳優である。どれだけ一人語りではない様相をつくろっても、結局はその俳優が語る限りにおいて一人語りにしかならない。それが舞台上に表れることの事実である。その上で、別の人物の言葉や状況説明といったナレーションを、彼/彼女とは違う人物や位相にあるという体(てい)で、観客は受け止める。そもそも、俳優が役を演じること自体がそのような矛盾を抱えている。役を演じるとは、別の誰かを身体に憑依させるのでも、自らを役に献上するのでもない。役と俳優の内的な拮抗を行うことによってその都度、演じながら新しい自己を発見すること。絶えることのない自己創造の試みが、役を演じることである。それが60年代以降に登場した演技論の根幹である。一人語りという手法は、普段は等閑に付している演技にまつわる矛盾や本質が、露骨に顕れてしまう。
  そういう意味では本作も、複数の女性を語る女優・高山玲子の一人語りということになる。彼女が語るのは、ホームから飛び降り自殺をした女性と、この女性をホームの反対側から見た、中学生時代の友達。事故を起こした電車に乗っていた女性。彼氏の家からの帰路、事故のために踏み切りで足止めされた女性。反対側の踏み切りでは、同じく仕事帰りの女性が足止めされる。そして、それらの女性たちを俯瞰して見る視点もある。一人暮らしの部屋に帰ってきたような雰囲気で舞台に登場し、コンビニで買ってきたタラコスパを食べる侘しい一人の女性がそれだ。舞台は、孤独を抱えたようなこの女性=高山の妄想なのかもしれない。高山は声の大小を使い分けるとはいえ、澄ました表情で淡々と語って感情の起伏が少ない。だからあらゆる語りは、高山玲子として発せられたもののように聞こえる。そして観客は45分間、ふわふわとしてちょっと不思議な雰囲気が魅力の高山玲子という女優を見続けたのである。それはまさに、一人語りとしか言いようがないものだ。しかしそれでいながら、単なる一人語りに終始していない。なぜか。登場する女性たちを別々の他者としてそれらしく演じるのではなく、やがて一人の人間へと収斂するように戯曲があらかじめ書かれているからである。一人語りが陥る矛盾が折り込まれているのだ。この矛盾への自覚が、一人語りに他者性を導入するための格闘を促す。すなわち、他者が合一した一人の女性が、最後には観客を含めた都市に生きる人間に当てはまるようにも戯曲が設計されているのだ。別々の人物のモノローグを積み上げることが、劇を多角的に見せるという意味で公的なものであるとすれば、やはり私的な一人語りでしかないじゃないかと途中で思わせて私的な位相へと閉じながら、最後にはそれこそが現代人が共通して抱えている侘しさであることを了解させて再び公的な領域への回路を開く。例えるならば、ひょうたんを横から見た形状のように、この舞台の公私のレンジは激しい起伏を描きながら揺れ動いているのである。

©朝岡英輔


  この揺らぎは例えば、線路を挟んでホームから見詰め合った2人の女性が、互いに相手を理解するシーンで表現される。かつてのクラスメイト・女Eを発見した女Dは、「一瞬で、あ、こいつ絶対飛び込むんだなって思った。その一瞬でその子のこと全部分かったような気がしました。」と語る。視線を感じた女Eは、「あの子は、いつかの私と、同じ目をしていた。」と語る。死を決意した女Eは、彼岸へ行かんとする場所にいる。そこからみれば女Dはまだ此岸にいる。だが女Eもかつては此岸にいた。その時の自分と同じ目をしている女Dも、いずれは彼岸へと旅立とうとするのかもしれない。だから女Eは思う。「いったい、この街には、どのくらい、私のような女がいるのだろう。その中に、私にならない者はいるのだろうか。」と。茫漠とした不安心理をフックにして第三者が私へと同一化し、さらにそこに街に住まう者をも取り込んでゆく。
  また劇の後半には、いかに自殺は迷惑であるかを語って、この舞台で唯一、高山玲子が声を荒げるシーンもある。結局は独りよがりな独白じゃないかという、観客の思いを代弁するかのような、物語を相対化する視線である。そう語るのも高山玲子である以上、それすらも一人語りへと収斂せざるをえない。だが劇の全体を通して、様々な位相の語り口を用いて他者の視線を導入しようとし、一人語りからなんとか脱しようとする軌跡は感得できる。そういう意味で、今作にも自他についての境界線を巡るテーマが孕まれている。演技論へも通じる演劇的な語りの格闘が、都市を生きる人間の苦悩へもつながっているのだ。そう感じさせられるほど、淡々としながらも高山が語る「女性たち」には不思議と切迫感があった。


©朝岡英輔
  そんな女性たちが孤独感を抱いて住まう街は、『手のひらコロニー』でのようにチープに表現される。舞台空間に置かれた大きなテーブル。そこには、円形の線路を走るプラレールと、人間や動物の人形が置かれている。下手のプロジェクターには夕日や海、河川敷のような映像が投影される。大勢の人々が行き交う都市の中で、誰もが自分のように孤独感を感じている。同じ孤独ならば、いっそ誰もいない場所に行きたいと思うが、いつまでもぐるぐると巡るプラレールのように、街から出ることができない。そのような街を背景にした人間の姿を、少ない小道具を用いて最大限にイメージを喚起させるようにしつらえられている。
  それだけではない。この舞台が上演されたONLY FREE PAPERというフリーペーパー専門店は、東小金井駅から100メートルほど続く、ヒガコプレイスというコミュニティスペースのひとつである。飛び込み自殺する女性を描くという劇内容に相応しい場所として選ばれたことは明らかだ。そして、たびたび線路を走る中央線の電車の音が、劇の内容とシンクロして客席に流れてくる。聴覚刺激によって、常に上演空間の外に広がる街並みを想起させられながら、一人語りという極小の物語へと再び集中させられる。舞台が上演される場所自体が、公私の境界線上にあるのだ。
  自他の境界線の淡いを感じさせながら、テクスト、上演場所、演出がないまぜになって、外部の目線をなんとか導入しようとする試みが舞台全体に貫かれている。そこまで試みても、結局は一人語りに収斂するしかない。しかしそれは、外部や他者を導入することの自覚された困難の結果である。そこが興味深く、また真摯さを感じさせられた点である。そこまで踏み込んではじめて、一人語りは自分に酔うだけの閉じた私語りではなく、多用な意見を持つ者にも「私もそうなのかもしれない」と思わせる力を持つのだ。現代人の孤独さを切実かつ客観性を担保しながら描こうと格闘した本作は、柳生のセンスの良さを改めて示したのである。





虚空に根を生やす
北里義之
音楽・舞踊批評

菊地びよソロ『空の根~内奥からの光粒子とその動向』
2017年4月4日(木) & 2017年4月5日(金) 会場 THEATER BRATS




1 土塊と身体
  ステージ上手に黒々と盛られた土の塚。公演の開始とともに、冬籠りしていた虫が啓蟄の季節に土中から這い出てくるように、静かに動きはじめたそのものが、手足や腹を少しずつ露出させていくと、やがて観客にも、それが黒々とした土のうえに背中を向けて横臥した半裸の身体であることが見えてくる。背中を向けた身体が、尻の穴をすぼめるように全身で伸びをすると、土のうえに頭が乗った。土を枕にするように仰向きになった踊り手は、右手を動かしながら観客席に向きなおる。土まみれの身体は、観客席側に横転してうつぶせると、土を抱くような姿勢になった。上体を立て、尻をあげて四つんばいの格好になると、下手の床から照明の光がやってきて、身体が進むべき空間を素描する。踊り手は膝をつき、左脚を大きく横にまわすようにして土の外に足先を出した。意識しなければわからない、聞こえるか聞こえないかというくらいにかすかなグリッチ・サウンド(音像ははっきりとせず、もしかしたらラジオ・ノイズだったかもしれない)が鳴っている。
  土だらけになった身体が移動をはじめる。下手床からやってくる光に完全にとらえられた踊り手は、立ち歩きするでもなく、床上を膝行るでもなく、私ははじめてそのような形をして動く身体を見たのではあるが、あえていうなら床に手をつくことのない四つんばいの姿勢といったらいいだろうか、あるいは、足を前に出して深く床に腰を落とした姿勢のまま、前屈した上体を両脚の間に沈める格好といったらいいだろうか、そのようなものが、盛り土の外へ、ステージの床へと踏み出していくのである。どこか昆虫を思わせる奇妙な身体の形と歩行は、光のなかを蠢くという印象を与える。下手床ライトの前まで行きつくすと、そのものは両手を床につけ、あるいは目の前に伸ばしながら、尻をあげて遠くに見えるホリゾントの方向に後退をはじめた。身体に無理がかかるのか、骨がポキポキと音を立てるのが聞こえ、踊り手の身体はしばしとどまって波打つ動きを見せた。床のうえで乾いた土の跡に、歩行の痕跡が残されていく。照明がステージ前から奥へと空間を広げていき、踊り手はゆっくりと後退をつづける。

2 「空の根」の系譜
  公演冒頭にあらわれたこのショッキングな場面は、人間の身体が土塊と等価な物質であることを(「表現」するのではなく)提示するものといえるだろう。踊り手はここからはじめるという宣言をしているのだ。土から生まれて土に還るというのは、『聖書』でよく知られたキリスト教の人間観につながるが、ここではあくまでもダンスにつきまとうヒューマニズムの影を廃棄するために採用された戦略であり、それを誰にでも感覚可能にするような決定的な演出だった。菊地びよの公演歴をたどると、「空の根」(クウノネと読ませる)というタイトルのソロ公演は、中野スタジオサイプレスでの『空の根~浮遊の背景とその有り様』(2015年11月8日・9日)、惜しまれつつ閉業した明大前キッド・アイラック・アート・ホールでの『空の根~声の生まれるところ』(2016年9月9日・10日)と踏み重ねられてきたが、前回の公演を踏襲して盛り土を採用したのは、そこでやり残したことがあると感じられていたからであるらしい。ときどきのサブタイトルに明らかなように、「浮遊」「声」「光粒子」と、公演はそれぞれに身体探究のキーワードになるような言葉を(とりあえずは踊り手のために)提示している。
  土の使用がなかったサイプレス公演では、「浮遊」に重点が置かれ、菊地の踊りは、大海原の風を全身に受けてはためく帆船の帆のように、両手を大きく広げ、ときに大きく、ときに細かくウェーヴさせる動きを前面に押し出し、前後する上半身、上下する腰とあいまって、片時もとどまることのない微細な変容を重ねていった。このときも、今回の公演同様に、かすかな声や息、心臓の鼓動らしきくぐもったビート音がかすかに鳴っていた。彼女にとっては、生命的なるものを喚起する即物的サウンドといえるだろう。そうした生命的な環境をしつらえながら、床のように全身が平べったくなったり、水中の海藻のようになったりしてゆらめく菊地の身体は、場のエネルギーを全身で呼吸するスポンジのようだった。ここでの「浮遊」は、踊りの動きの特徴を言いあらわすものであると同時に、身体をエネルギー発生装置にするのではなく、身体の内外を透過させつづけることでエネルギーの開放状態を保つ作業のことといっていいだろう。「浮遊」「声」「光粒子」という要素は、どの公演にもあらわれてくる共通した身体のありようだが、パフォーマンスのたびごとに関係性を変化させ、踊る身体に多面性とときどきのテーマを与えるようである。
  土の使用については、さらにもっと前におこなわれた公演にヒントが見つけられる。それはダンサーの喜多尾浩代が主催するシリーズ公演「身体の知覚」の第2回に参加しておこなわれたソロ公演『vie-vibrate organs──波動態』(2014年1月12日、東中野RAFT)である。ダンス作品を踊るというのではなく、参加した踊り手がソロ・パフォーマンスによっておこなう「身体の知覚」(カラダノチカクと読ませる)の探究をおたがいに見あい、観客とも経験をシェアするという特別な趣旨を持ったシリーズ公演のなかで、薄暗い照明のなか、みずからの心音を録音で流しながらステージ中央で横になった菊地は、ほんの少し足をあげて中空に浮くような姿勢からスタートした。これは文字通り「浮遊」を身体の形によって表現したものといえるが、このときの空中浮遊まで「空の根」の系譜を伸ばしていくと、土塊のなかからの登場は、けっして突然に思いつかれたものなどではなく、あのとき空中浮遊していた身体が、実は「光粒子」のように浮かんでいたのだということを、観客にも感覚できるように、ある意味では、ストレートに過ぎるやりかたで可視化したものであることが、はっきりとするように思われる。

3 虚空に根を生やすために
  『空の根』の自己解釈を、特に土の使用の意図を、菊地は以下のようにプログラムに記している。

「いのちそのものになりたい」「この作品では土という粒子を感じ、粒子とからだが一体になることを試み、いわゆる布の衣装を纏わずに土の粒子を纏ってみる。そして皮膚が粒子となり外部と触れ一体になっていく方へ。とて、こうしたからだという形からは逃れられないけれど。」

  土まみれとなった身体は、物質と等価になることでヒューマニズムを廃棄し、土の粒子に感応して肉塊としての身体を消し去り、サブタイトルに示されたような「内奥からの光粒子」と化したであろうか。「動向」という言葉は、まさしくそれが観察者の目がとらえた物質の動きとしてイメージされていることを意味している。舞踏を観ることがひとつの行為になるのは、おそらくこうした目に見えない(光粒子の)身体すらも感受することのできる目を獲得するところにあるのだろう。私に見ることができたのは、土塊によって変容させられた物質としての身体、換言すれば廃墟化した身体であり、見たことのない形をした奇妙な生きものの歩行である。前回の公演では、くりかえし波打つ身体と声に意識が集中し、声を通して身体がエネルギー化していくさまを感得することができたが、その一方で、最前列で観たにもかかわらず、盛り土の横に同じくらいの床スペースがあっただけという会場の狭さのせいだろうか、踊り手の歩行が強く印象に残ることはなかった。今回はこの関係が逆転して、歩行によって生み出された生命的なるもの、特にそのいびつなありように深く魅了されたのである。
  奥行きのあるシアター・ブラッツの舞台をフルに使って、ステージを時計回りにゆっくりと歩いた踊り手は、動きをていねいにつなげながら盛り土のところまで戻ってくると、言葉や感情をもたない、これまた「物質的」と形容できるような声を使いはじめた。いうまでもなく、声も形のない身体として観客に届くものであり、菊地が希求する身体像を簡潔にあらわす媒体として探究が重ねられ、公演で頻繁に使われてきたものである。実際それは物質としての身体と光粒子の間に位置するものであり、スピードの遅い鈍重な身体をもった波動そのものである。公演によっては、声がいびつさを備えた身体のように発声されることもあるが、本公演では、過呼吸をしたり、反り身になるタイミングで自然に出てしまう声など、声は身体とダイレクトにかかわりあう分離不可能なものとして、それ自身が特別な意味を胚胎しない、即物的なありようを見せていた。
  現代物理学の知見を参照し、光、あるいは光粒子というものを、物質をもっとも高速で動かす波動というふうに考えるなら、菊地びよの『空の根』は、身体をそのようなものへと解放していく物語を埋めこんだ作品であることがわかる。ある瞬間にこの身体は消え、(目には見えないが、さらに上位にあると想像される)別の身体へと転生するというように。土塊からの登場は、この物語を視覚的に構成するのに大きく貢献した。しかしおそらく観客がそこに観たものは、(ダンスのヒューマニズムを廃棄したという意味での)物質化された身体の、彫刻的といってもいいような造形であり、そのような造形をもった身体と、光粒子としてエネルギー化していこうとする身体との相克であったように思われる。「からだという形からは逃れられない」という菊地の言葉には、どこか諦念めいたニュアンスが感じられるが、本公演に関するかぎり、両者の関係は、物質的身体の魅力が増せば増すほど、粒子化もより強く希求されるという相克関係にあったように思われる。

4 身体の探究と作品性
  ダンス作品のクリエーションを支えるテクニックを習得して、ダンサーがダンサーとして生きはじめるはるか以前から、つねにすでに存在してきた身体そのものに目を向け、「いま・ここ」の瞬間から、時空間を自由に越えていく(イマジネーションの)ための器にしていくという発想は、他のどんな舞踊ジャンルより、舞踏に特化してあらわれているように思われる。そこでは日々のワークそのものが身体探究の場であり、過程であり、くりかえされる深淵へのジャンプであり、人間の謎への接近である。そのような身体の探究においては、作品や(アンチも含んだ)ドラマツルギーを不可欠とする場の共有のしかたは、行為する身体であるダンスを内外にわける決定的な境界線とはならない。どれほどみごとに完結した演劇的構成を備えた作品でも、身体探究の一過程という側面を切り捨てることができないからである。公演に向けてのクリエーションは、小屋を借りたり情宣をしたりという制作面ではありえても、身体そのものに即しては存在しない。



  そうであるならば、つねにすでに身体探究の過程であるようなダンスにとって、観客を迎えておこなうダンス公演や作品とは、いったいどんな意味を持つものなのだろう。もしそれが本来一回限りの出来事として日々にダンサーの身体を訪れるダンスを、再現可能なものにすることで商品化を実現する手段であったり、個々のダンスを社会的に根づかせるために大小のコミュニティを形成するツールというだけならば、身すぎ世すぎのためのシステムに従うというだけのことにすぎないだろうが、そのことを前提としたうえで、そこにはただそれだけに終わらない積極的な意味もありそうである。
  もし『空の根』の作品性についていうことができるとしたら、土塊の使用によって、「浮遊」「声」「光粒子」という、過去の公演で深められてきた各要素が、そのときどきのテーマに従った気まぐれな前景化を脱して、ある配置をとった点に求められるように思われる。新しく持ちこまれた要素は、踊り手の求める身体像を可視化する演出装置として働くとともに、各要素に物語的な配置をとらせることで、曖昧だったそれらの関係を明瞭化したといえるだろう。この場合でも、踊り手自身にとって、作品はここまでの身体探究によって最終的に導き出された解答といったようなものではなく、探究のステージをワンステップ上昇(あるいは下降)させ、さらに深く身体へと潜行するために通過する駅のような意味合いを持っており、ダンサーが俳優のようにそこで何者かの役柄をこなし、公演のたびに光粒子への解放を演じるといったものではありえない。最近になって注目が集まっているダンス・アーカイヴの運動においても、作品概念はいの一番に問題となるところだろうが、古典としてのエスタブリッシュされた評価ではなく、そこを通過したことで私たちにどんなダンスや身体表現の領域が開かれたかを明らかにするものであってほしいものである。ステージをワンステップ進めた菊地びよがどのような踊りを見せるのか、これからも追っていくことにしたい。

(観劇:2017年4月5日、執筆:2017年6月7日)





貨幣の自己増殖に使役させられる人間の姿
藤原央登
劇評家

庭劇団ペニノ『ダークマスター』
2017年2月1日(水) ~ 2017年2月12日(日) 会場 こまばアゴラ劇場

1
  寂れた洋食屋を舞台に、寂寞とした人間の様態を描いた恐ろしいおとぎ話である。キッチン長島という洋食屋のマスター(緒方晋)は、料理の腕と味には絶大なる自信を持っているが、対人恐怖症のために接客を苦手としている。かつては執拗に会話をしてくる客とケンカをすることもあった。そういった性格のために客が店に寄り付かず、いつしか彼は夜な夜な大量の酒をあおるアル中となってしまった。加えて近隣の店は撤退し、シャッター通りとなっている。中国資本がこの一帯を買収し、巨大なビルを建設する話も進んでいる。マスター自身、キッチン長島もそろそろ店閉まいの時かなと考えつつも、今日も誰一人客が来ない店で酒を飲みながら、ナイター中継を見ている。関西で唯一だと自称する、ジャイアンツを応援するために……
  このような状況を、ハイパーリアリズムと言えるような、複雑精緻な舞台美術が具現化する。舞台中央にはカウンター。その裏の調理スペースには2台のコンロと油やコショウなどの調味料。さらにその奥にはフライパンや包丁がかけられており、流し台がある。その隣には冷蔵庫。その上に小さなテレビ。下手奥にはベルチャイム付きの入口ドア。下手手前にはトイレと洗面台。上手奥には2Fへ上がる階段があり、手前には給水器がある。狭いこまばアゴラ劇場によくこんなに建て込めたなと関心するくらいに、スペースを隅から隅まで使っている。客席の壁の途中まで、洋食屋のタイルが張られていて、頭上にはキッチンの様子を映したりイメージ映像を投影するためのスクリーンまでが備えられている。けだるいしぐさで酒を作ったマスターがカウンターの椅子に座り、ぼんやりとタバコをくゆらしながら巨人対阪神戦のナイター中継を眺める様子は、場末の洋食屋そのものとしか言いようがない。

  劇開始から数分間、マスターによる無言の行動と舞台空間の雰囲気をじっくりと見つめる。観客がその空気を十分感得したところで、リュック姿の男(FOペレイラ宏一郎)が訪れる。マスターと若者との偶然の出会いが、奇妙な劇空間への入り口である。30代半ばというこの男は、日本各地を訪れて人と交流し、自分探しをしている。社会の枠から外れた典型的な無職だ。人付き合いができない堅物のマスターだが、水くらいならと招き入れて青年の身の上話を聞くうちに、男の注文通りにオムライスを振る舞ってしまう。その後、何かを決意したようにコップをカウンターに打ちつけたマスターは、男に店を引き継げと伝える。男は話が唐突すぎることと料理経験がないことを伝え、冗談だと取り合わない。しかしマスターは、無理矢理超高性能のマイクロイヤホンを男の耳に仕込んでしまう。理由は、マスターが男に、2階から料理の作り方をその都度指示をするため。男の姿は、便所、キッチン、給水器の3ヵ所にある隠しカメラで随時見ているので、的確に指示が出せる。だからマスターの指示通りに動けば、男は調理を完璧にこなせる。あとは、自分にはできなかった客とのコミュニケーションを取れば良い。このようにマスターは男に告げる。それでも不安と不信しか抱いていない男に、マスターは毎月の給料として50万円を支払うこと、そして手付金として20万円を支払う。その上でマスターは、提案通りの仕事を試しに1週間やってみることを男に承諾させる。ひとまず物語りは、料理経験初心者の青年が、マスターの指示によってなんとか奮闘しつつ、一人前の料理人に成長してゆく様が描かれる。
  店の切り盛りを青年に任せて、マスターは2階に上がる。その言葉通り、最初の数十分間を除いて、マスターは以後一切、舞台上に姿を見せない。2階から指示を出す声がイヤホンを通して聞こえてくるだけだ。調理は実際に、俳優が火と食材を使って行う。半信半疑なまま、試しに男はマスターの指示に従ってポークソテーを調理する。他にも、マスターが男に振舞ったオムレツはもちろんのこと、実際に店を切り盛りする決意をした男は、客の注文を受けてコロッケ定食やナポリタン、野菜炒めを調理するのだ。その都度、フライパンで焼かれる肉やケチャップの匂いが客席まで届き、フランベで立ち上る火にはちょっと驚かされもする。視覚面だけでなく嗅覚をも刺激して、実際の洋食屋にいるような気分に観客を浸らせてしまう。それと共に、まだ調理に慣れていない男がマスターの指示が理解できず、うろたえる姿が笑える。指示通りに動けない男に、マスターはぶっきらぼうな関西弁で注意する。男は何とか軌道修正しようとするものの、あせって余計に手順を間違える。それは例えば、よく喋りかける客に気を取られて、マスターの指示が上の空になった男に表れている。マスターがオムライスに使う卵を3個割るように指示したところ、その言葉と重なるように客が喋った「5」につられて卵を5個取ってしまう。マスターは「なにしとんねん」「客の話止めさせろ」と指示をする。客の方は男をプロの料理人と思って接している。男はニセモノだとバレないように必死だ。客を上手にあしらいつつも、しっかりと調理もこなそうと努めようとすればするほど、どつぼにはまってゆく。その焦りが頂点に達し、男がフリーズした瞬間は爆笑ものだった。ここには、事情を知らない第三者が介在することで生まれる、人間関係のズレがもたらす笑いがある。大阪を舞台に関西の演劇人が出演した今作では、関西弁によるテンポの良さが手伝って、このような笑いが随所に差し挟まれていた。
  それだけではない。この舞台に仕掛けられた最大の趣向は、観客席にひとつずつ備え付けられたイヤホンである。観客は必要に応じて、イヤホンを装着して観劇する。そこから聞こえてくるマスターの指示は、男に向けられたものであると同時に、観客に対するものでもある。そのために、良く喋る客の声とマスターの指示、そしてそれに対応する青年という三つの情報を観客は同時に処理しなければならない。それはつまり、観客は青年と同じ状態に置かれることを意味する。こうしてイヤホンの趣向は、作品世界に観客を引き込む役割を有している。物語の進展と共に、イヤホンの役割は単なる趣向を越えて作品の本質に迫るアイテムへと変貌するのだが、そのことは後述する。とまれ、男を演じたFOペレイラ宏一郎は、マスターの指示を初めて聞くように聞き、反応しながら実際に調理も行った。なかなかハードな役割を上手く演じたことで、彼の「ボケ」がうまく活きていた。

2
  そんな男も舞台後半に至ると、調理の腕前はマスターの指示がなくても作れるまでに上達する。マスターにはできなかった、調理中の接客もそつなくこなしてゆく。そのためか、いつしか店は賑わいを取り戻す。野球に関心がなかった男は、マスターと同じくジャイアンツファンにもなった。その姿は、ジャイアンツのユニフォームにサングラス。さらに、ジャイアンツのマスコットキャラクター・ジャビットのロゴがプリントされたフライパンに料理を載せ、バットをスイングするように客前に出すという、自分なりのスタイルを確立するまでに至る。いわば名物マスターになったのだ。ここで重要なのは、なぜかジャイアンツファンになったように、男はマスターとシンクロし同一人物化してゆく点だ。他にも、男にトイレに行かせる、正露丸を飲ませる、デリヘルを呼んでの性交、飲酒といった指示をマスターは行う。別段そういった行為をしたくはない男がしぶしぶ実行すると、マスターは尿意や腹痛が治まり、性欲が満たされて酩酊する。観客はイヤホンを通して、マスターが安心したり快感を得ているらしい、生々しい吐息を耳にすることになる。
  マスター=男のシンクロで注目したいのは、中国人の男(野村眞人)と対峙した際である。ある日の閉店後、熊のように立派な体躯の中国人が訪れる。男が閉店していることをジェスチャーなどで伝えるものの、相手には伝わらない。中国人はカウンターに上げたイスを床に置き、勝手に席についてしまう。そしてオムライスを注文する。オムライスは男にとって、キッチン長島に初めて訪れた際にマスターから提供された大事な味だ。この時はまだ、男の調理技術は未熟であった。しかもよりによってオムライスの注文である。よく喋りかける客がオムライスを注文した際は、マスターの指示があったにもかかわらず、入店直後ということもあって、先述したような失態を演じていた。予期せぬ事態にあせった男は、2階のマスターを起こして調理方法を仰ごうとするが、寝ているのか応答がない。仕方なく、男は自分の腕だけでオムライスを調理することを決意する。あの頃とは違って場数を踏んでいたこともあって、なんとか男はオムライスを完成させることができた。肝心の味も特に問題はなかったようで、中国人は夢中で食す。そのお代として、彼は10万円を置いて店を出てゆく。中国人が帰った後に、起きたマスターに事の顛末を男は報告する。すると、マスターは頑張った褒美として10万円を男にあげ、デリヘルでも呼ぶように促す。


©堀川高志

  その日の出来事からずっと時が経ち、男がすっかり名物マスターへと成長してから、件の中国人がまた客として訪れる。そこで男は、中国人に10万円を返却しようとする。中国人がそれを受け取ろうとしないので、男は投げつける。中国資本による再開発によって、商店街がなくなることに対する怒りがそうさせたのだろう。マスターから男はその辺の事情を聞かされていたのかもしれないが、ここでの中国人への怒りを込めた態度は、単にマスターから聞かされていたことに起因する表面的なものには思えない。その姿は、何十年も細々と洋食屋を営んできた頑固親父の想いがこもったものとして、すなわちマスターの意志が男に憑依したかのような真剣さを感じさせる。この時、男とマスターは完全に一致した存在としてある。そんな男からの仕打ちに対して、中国人は動じない。逆に男をカウンター越しに掴んで床に倒す。調理場へと逃げ込む男を追いかけ、さらに何度も暴行を加える。そして挙句の果てに、中国人は札束をカバンから取り出して男に浴びせる。ここには、台頭著しい中国資本の強さに牛耳られた、かつての経済大国日本の縮図がある。それでなくても、中国人にボコボコにされる日本人を見るのはかなり嫌な気分だ。イヤホンの仕掛けによって、観客もまた男に同化するような気分になっていたために、余計にそのように感じてしまう。
  この日の出来事以後、男はすっかり酒に溺れてしまう。完全にマスターと同化したことを示すのか、マスターによる指示もすっかりなくなる。デリヘルを呼んでセックスをした後、翌日まで寝ていた男は、入口で開店を待つ常連客の声によってようやく起きる。だが、男は客に罵声を浴びせて追い返してしまう。ユニークで腕の良い、街の名物マスターの姿はもはやない。面倒くさそうに迎え酒の水割りを作る男。そこへ、バックパッカーが水を求めてやってくる。要求通りに水を与えて少し話をした後に、何かを決意したように男がコップをカウンターに打ちつけて幕となる。きっと男には、内なる声が聞こえていたに違いない。それは完全に同化したマスターのものなのか、それとも自らの意思に基づくものなのかは判然としないままに。

3
  おそらく新しくやって来た者も、イヤホン越しの男の指示によって店を切り盛りすることになるのだろう。そして、やがて男と同化して最後には破滅することも予感させる。そのようにして店は何とか維持されるものの、どんどん人は取って替わられる。終わりのないループを予想させる劇構造は、『ゴドーを待ちながら』と同じだ。このような劇構造を生きる人間は、転換時に流れる『ドナドナ』とあいまって、いつまでも満たされることなく寂しくさ迷う様態を印象付ける。その感覚を強調するのが、イヤホンの仕掛けである。中国人に男が暴行された後、デリヘル嬢のナルミ(坂井初音)が介抱する。耳の辺りのケガの手当てをするナルミは、超高性能マイクロイヤホンを発見し、「この前のお客さんの耳からも出てきたわ」と言う。破格の給料が支払われ店が繁盛するとはいえ、男はイヤホンによる声に指示命令され、隠しカメラで常時行動をチェックされている。これは監視と洗脳だ。そのことは、イヤホンを付けた観客にも同様の効果を与えるだろう。姿を見せず、ダイレクトに耳から頭脳に届くマスターの声は、さながら神による啓示のように聞こえてくるのである。実は、人はこのような声に動かされているのではないか。主体的に動いているように本人が思っていても、マイクロイヤホンのようなものが仕込まれていて、見えない神からそのように動くべく命令されているということである。あらかじめ決まっている未来に向かって、姿が見えない何者かの声が人間の無意識に働きかける強制力。それを運命と言い換えても良い。もしかすると、人知では分からないような力があるのではないか。観客の脳内へダイレクトに届くある種の暴力的な声の介入によって、私にそのような疑念を抱かせた。青年がやってきて嫌々ながらも店を引き継ぎ、危なっかしい手で料理を覚え、やがて一人前の料理人となって、最後には破綻する。その途端に次の犠牲者が現れるという一連の展開は、一人の人間の誕生から、青年、壮年・中年、老人期を経て死んでゆき、次の世代にバトンタッチをするという、あらかじめ人間に定められた営為のサイクルを描いているようにも思われるのである。イヤホンの趣向は単なる珍しさを狙ったものなのではなく、神の言葉を直接聞くということを介して、人間の主体性の揺らぎを自覚させることにまで至っている。イヤホンによって男と観客もまた同一化させられるために、声に翻弄される男の行く末は、我々を含む人間の様態そのものとして感得される。本作が恐いおとぎ話というのはそういう意味である。
  新たな来訪者が訪れたことは、神の啓示たる声を発するマスターの位置に男が収まることを意味しよう。ということは、来訪者はすでに神ということになる。少なくとも声に従う過程で、内なる神の資質が目覚めていくのかもしれない。ではここでの神とは何なのか。来訪者すなわち下位の者に、指示・命令する上位の存在であるマスター。管理者である彼は、店を維持する資金を生み出すために、来訪する者を労働者として使用する。的確な指示・命令をする者とそれに即応して効率良く動く労働者というマッチングがうまく機能し、それが金属疲労する前に次の世代へと引き継がせる。その理由は、資本を拡大しながら生み続けるため。こう考えれば、管理者と労働者双方を突き動かす、さらなる上位に位置する神とは、自己増殖せずにはいられない貨幣ということになろう。
  タニノ自身、狩撫麻礼の漫画原作に「資本主義社会の支配/被支配体系をユニークに表現した作品だと感じ」たことが、2003年の初演のきっかけだった本作のチラシに記している。私は初演と再演を観てはいないが、少なくとも再演と今回の三演目を比べると、受ける感触が異なると思われる。「しのぶの演劇レビュー」に書かれた再演時の記事(2006年01月15日更新 http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2006/0115174456.html)によると、舞台美術は2階建てになっている。2階部分 は1階と構造は同じであるが、「1階よりも少しきれいで豪華に見え」る。「1階は日本、2階はアメリカおよび西洋資本主義である」という見方を示した舞台空間はラストに至って、

「2階の床が右斜めに落ちるのです。すごい勢いでガタン!と。そしてゴーっという音とともに、2階のカウンターに沿って並べられていた4~5脚の丸イスが、1階の上手側に滑り落ちます。それらのイスが1階玄関のドアのガラスにぶつかって、ガラスは無論、ガチャーン!と割れます。・・・あっという間の出来事でした。実際に床が落ちて、イスが転がって、ガラスが割れたのです。イリュージョンではなく。」

  このように展開する。そこから高野は、「2階の床が落ちることはアメリカの崩壊を意味し、その崩壊が日本(=1階)にも壊滅的な打撃を与え」たとの見方を示す。そのような構図をもたらした2階部分が今回の上演でなくなったのはなぜか。アメリカ対日本という共依存構造によって世界を把握することがもはやできなくなったからではないか。再演から11年を経た今日、国境を越えて人・モノ・金が自由に行き来するグローバル化の結果として、格差の拡大が全世界的に顕となっている。それに対する諸国民の抱く不満が、既存の政治体制への否定となり、さらにそれへ迎合するポピュリズム的な政治を生み出した。昨年のイギリスのEU離脱決定、トランプ大統領の誕生は、自由と民主主義の空気が挫折する転換点として衝撃を与えた。このような、自国第一主義に基く欧米の動きは、「強さ」を回復させることであいまいな国境線を今一度明確にし、国としてのアイデンティティを取り戻そうとする極端な反動である。このような近視眼的に諸問題を解消しようとする動きは、その後のオーストラリア大統領選、オランダ下院選、フランス大統領選によって阻まれているとはいえ、いつまたポピュリズム政治が台頭するかは不透明だ。その一方で、新興の大国である中国はその力を誇示し、世界の覇権を虎視眈々と狙っている。このような多角化し非常に不安定な様相を呈する世界情勢の背景には、経済と軍事という国力を支える貨幣がある。このような地勢図においては、国力を巡る支配/非支配関係を、アメリカと日本という限定的な地点で象徴することはできない。全世界的に勃興している対立は、等しく国力の源となる貨幣によって支配されていることが前傾化したからだ。そのために、三演目では2階の美術が取り払われたのであろう。だからこそ、かつてはロックフェラー・センターを買収するまで経済成長した日本が、アメリカではなく中国にボコボコにされるシーンが示唆的に機能していたのである。
  貨幣とはそれこそ人種の垣根をあっさりと飛び越え、人類をあくなき資本増殖のループに従属させ続ける。最終的にどこの国が勝とうが関係はない。人間は、貨幣の運動力学を機能させる道具に過ぎないのだ。貨幣と人間の関係性をイヤホンの仕掛けによって抉り出した本作は、私をとんでもなくやるせない気持ちにさせた。





ルーツなき世界に新たなルーツを作るということ
藤原央登
劇評家

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ルーツ』
2016年12月17日(土) ~ 2016年12月26日(月) 会場 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

  久しぶりに松井周の作品を観劇した。松井周の劇世界といえば、サンプル『自慢の息子』(2010年初演/アトリエヘリコプター)や『女王の器』(2012年/川崎市アートセンター アルテリオ小劇場)で典型的に見られるような、変質狂的なエロティシズムをまぶしつつ、自他が互いに侵食し合って境界が相互嵌入するものである。それでも私はこれらの作品に、結局は狭い共同体に閉じこもる人々しか見受けられず不満を感じていた。その点で言えば、本作はその隘路から脱しようとする意志をひとつの方向性と共に感じさせた。私は初めて松井の作品に感心したのである。

  かつて鉱山の落盤事故で数多くの死者が出た村。土がウランで汚染されたという台詞が出て来ることから、福島第一原発事故に象徴される問題が投影されているのだろう。それ以来、過疎化が進んだこの村には、たびたび資本が開発をもちかけてきた。だが、そのための再調査で深刻な土壌汚染が発見されては開発は中止に。今年になってみれば、このことは築地市場の豊洲移転問題をも想起させられる。移転予定地の豊洲市場の地下に、汚染物質を防ぐための盛り土がなく空洞になっていた。そして、そこに溜まった地下水から有害物質が検出された。そのため、昨年の11月の移転が延期となった。施設の整備はすでに完了しているため、水産仲卸業者はその維持経費の負担を強いられている。行政に振り回される築地市場の業者のように、村にはこれまでにも外部から興味本位で多くの人間が訪れてきた。それにうんざりした村人は閉鎖的になり、ひっそりと共同生活を営むことを決めた。地図からも村の場所を消し、対外的には存在しないことになっているのだ。

  そこへ、研究所に勤務する古細菌学者・小野寺道雄(金子岳憲)がやってくる。目的は、閉山したこの村の炭鉱の調査。生物は、細胞核を持つ人間や植物のような多細胞生物と、核がないアメーバのような単細胞生物とに二分される。しかし、ここの炭鉱の鉱物から採取される細菌は、第三の可能性があるという。それは、多細胞生物と単細胞生物両方の側面を持った生物なのだという。それはおそらくノーベル賞級の発見になるだろう。そう感じた男は、この村に研究所を建設して生物の研究を進めることを希望する。その発見はひいては村を大きくアピールすることにもなる。これまで開発される対象として受身的だった村が、今度は積極的に自らの村の強みを外部に宣伝できるのだ。小野寺はそういった理由で、村人を説得する事に奔走する。閉鎖的な共同体にやってきた異物である男の登場によって、村とそこに住む人々にどのような変化をもたらすか。それがこの物語の核である。

  第三の道を示す古細菌の発見は、生物の概念や捉え方についての常識を覆すかもしれない。そのような想いによる小野寺の行動は、タイトルにもある「ルーツ」を巡る謎へと我々を誘う。とある物や歴史が、どのような経緯で現在、ここにそのように存在しているのか。それはルーツ、すなわち始原や起源、由来を探ることである。普通は、現在から過去に遡って順々に辿っていけば<そこ>に突き当たると考えがちだ。しかし、辿った末にたとえ何かがあったとしても、それは恣意的に捏造されいつしか「源流とされた」ものにすぎないのではないか。例えば、宗教に単を発する建国神話といったものである。本作には、そのような起源を巡る思索への批評性がある。

  件の村には、外部の者には理解できない不思議な因習がある。村の女を実力者の男が孕ませ、生まれた子どもを「神ちゃま」として村の守り神にするというものだ。その子供は神聖な領域に入ったものだから、村人からは見えない。というか見えないことになっている。そのように村人たちは決めたのだ。落盤事故という大きな不幸で死んだ村人を忘れずに記憶し、折に触れて思い出して死者を悼む事。そのこと自体は重要だ。死者からの目線を通して現在の生き方を問うことは、現に生きている者や未来の子孫が同じ轍を踏まないために必要なことである。それが事件・事故によって亡くなった者へのせめてもの供養になるのであり、


©清水俊洋

人類がより良く生きてゆくための知恵でもある。ただし悼みの感情を、村人たち全員が等しく同じレベルで思い続け共有しなければならない。そのように考えた村人たちは、神ちゃまという想いを託す象徴を生み出した。だがそれだけでは終わらない。人の気持ちは形となって表れるものではない。だから、信仰の対象としての偶像があってはならないのである。そのようなわけで、神ちゃまは見えないことになったのである。神ちゃまは折に触れて村人各人の心に強く事故と死者の記憶を訴えかける、まことに自分たちに都合の良い装置となった。神ちゃまを介して村人たちは結束を強くする。そしてそのような効果をもたらす神ちゃまを、村人は「感じる」ことで忘れず見守っている。こうして、村は安定した共同体を維持してきたのである。

  そのような安定した関係をもたらす神ちゃまは、男女の濃密な肉体関係の結果、産まれてきたものだ。異物者として、当初はあからさまに訝しがられてきた小野寺だが、マーケットの店番や農作業の手伝いなどを通して、しだいに村人に受け入れられてゆく。そして共同体に馴染んでゆく過程で、小野寺は安藤志乃(内田純子)に肉体関係を迫られ、自身の娘・百合子(成田亜佑美)との結婚を勧められる。この村では、強固な共同体を形成するために、言葉ではなく肉体的なつながり、すなわち実際的な行為が重視される。女性たちは神ちゃまを産む大切な身体であり、村の有力な男によっていわば「共有」されている。そのようにして、男女ともに肉体的に直截的なつながりを持ち、共同体に奉仕することを強いられているのだ。村の異常性に気付いた小野寺が逃亡しないように、重い足枷を付けられる。そんな彼に志乃が迫るシーンは、まさに松井周ならではの性が絡む異様な世界が前傾化した瞬間である。そして、何だかなまなましい。

  そんな異様な習慣が原因となって、劇後半に事件が起こる。村の実力者に孕まされた水野裕美(北川麗)の赤子が行方をくらますのだ。先述したように、崇められた神ちゃまは村人からは見えないことになっているだけだ。青年となって神ちゃまの資格がなくなった呉快人(日高啓介)に変わって、村は水野の赤子を新たな神ちゃまにしようとしていたのだ。小野寺は異様な因習を壊すために、村から家出をしようとする立花真希(長谷川洋子)に子供を託す。村には第三の起源を示す古細菌が眠っているかもしれない。それを研究する小野寺にとっては、若い真希に子供を託して村から脱出させることが、人間の別の生き方につながる希望に感じられたのだ。そのことは、カッパと熊の神から人間の神が生まれるという、神ちゃま信仰の起源となる村の言い伝えの否定となる。劇中、カッパ祭りなる、福男選びに似た神事で小野寺は一等賞になり、その年のカッパ男となる。小野寺に好意を寄せる百合子は、その言い伝えになぞらえて熊女になるべく、劇のラスト近くで熊のぬいぐるみを着て登場する。小野寺が村を出る真希に子どもを渡すことと、本当の熊に間違われて百合子が撃たれて死ぬことが対比的に描かれる。まさに死とともに因習がもろくも崩れ去り、真希と子供が共同体を出て、恋人の原田智明(中山求一郎)と新しい生を歩み始めるのだから。そして、これまで神ちゃまとして扱われていた快人は、「オレを見てくれ!」と舞台上空から叫んで幕となる。

  天皇制が近代国家と国民国家を形成するための擬制的で人工的なシステムであることは、様々な識者から指摘されている。万世一系の日本民族という伝統の基、国民は天皇の臣民として仕え働くことになった。均整の取れた軍隊システムを導入して国民を一律に管理し使役させ、国全体で富国強兵にまい進したのである。しかしそれは、古来より続く伝統的民族としての日本人という概念を、明治政府が明確に規定し利用した結果にすぎない。天皇の臣民として国民があるいう国民国家におけるヒエラルキーは、その縮図としての官僚制や家父長制となって広く定着し、日本の統治システムとなったのである。同様に、カッパと熊の神から人間の神が生まれるという村の因習も、外部から共同体を守り結束を高めるために作られたものでしかない。神ちゃまは神聖なものとはいえ、村人からは見えないものとされてパージされるし、それを産むために女性は犠牲となっている。ここには、自分たちの都合の良い理由を作り出し、そのために犠牲者を生んでしまう排他的な共同体の副作用が表れている。死者をいつまでも悼むためとうい理由付けはされているが、結局は落盤事故という痛ましい出来事に目をつむり、もしかしたらあったかもしれない自分たちの責任を回避するために、神ちゃまが生み出されただけなのかもしれない。だとしたら快人の叫びは、見えないことにされ隠蔽された事故をちゃんと直視しろという、死者からの悲痛な訴えに他ならない。人はその正視に堪えられないからこそ、因習や伝説という物語を形成し保身を図る。村の外部の男である智明と密通していた真希に、父親が誰か分からない子どもを託す小野寺の行為は、まさにその作られたルーツを壊すものだ。そこには、血筋という一見もっともらしいつながりではない、新しい家族や国家のあり方を託す希望が投影されている。

  肝心な問題を都合良く変換、あるいは見えないものとして葬り去り、今あるシステムの維持のために使う。それは豊洲と原発事故だけでなく、沖縄の基地問題や台頭している内向きのナショナリズムなど、現在の世界の広範囲に渡っている。特に、自国のルーツを辿ってアイデンティティを再確認することは、負の歴史を忘却し偽史を作ることにも直結しよう。ある極端なイデオロギーを持つ歴史観は、限られた支持層との閉鎖的な共同体を作ることにしかならない。

  本作は、意識・無意識的に蓋をし、見えないものとされていた物事があることを、独自の因習の秘密が暴露される過程において明らかにする。それらは共同体の結束を固めるために都合良く持ち出され疑いなく伝承された時、自然にそうなったように定着する。このような構造は社会的な問題だけではなく、国家を成り立たせる基盤そのものに孕まれている。そのような根本的な起源への疑いの目差しがあるため、本作は寓話としての広い間口の広さを持った作品に仕上がっている。

  またそれだけでなく、新たなルーツを神話しようとする、創世神話劇にもなっている。本当はルーツなどないはずなのに、捏造された歴史観に依拠してアイデンティティを保ち、それに捉われて自他を区別することから、紛争や人種差別といった様々な問題が混迷を深める原因となっている。まったくの他人で構成された家族が閉鎖的な村から出ることは、旧来のルーツに捉われない、第三の生き方を示唆する。難民問題なども、自国民意識を支える思考を堅持している限り、排他的になるだけで解決は難しい。まったく新しいルーツを作ることは、新たな建国神話の捏造でしかないかもしれない。だが、現在信じられているものが絶対的なものであると言い切れないのだから、より多くの存在を包摂しより良い人の生き方や国を作ろうとすることは、否定できないはずだ。

  演出と美術を担当したの杉原邦生によれば、本作のインスピレーションは2003公開のニコールキッドマン主演の映画『ドッグヴィル』にあったという(ステージナタリーの杉原邦生と松井周の対談 http://natalie.mu/stage/pp/roots)。言い訳がましい理由をつけては自己正当化する村人たちと、慈悲と寛容、信頼の精神でどんなに辛い目に遭っても絶えるグレース(ニコールキッドマン)。村人からグレースへの陰湿な暴力が反転し、グレース側からの正義の行使として、凄惨な村人の皆殺しへと至るラスト。人間の倫理や道徳の基準の正しさはどこにあるのか。その不確かさを抉り出す映画である。人間の内面の奥深くへと迫って善悪の決め難さを描いた『ドッグヴィル』を、松井は世界を成り立たせてきた根拠の真偽にまで踏み込んで展開した。その結果、世界の恣意性と新たな建国神話というひとつの答えに辿り付いた。様々な境界が溶解する劇作を踏まえつつも、松井は小さな共同体に閉じこもることなく外部を志向したのだ。そこが大いに感心した点である。

  『ドッグヴィル』は床に場所や説明を記し、最小限の美術だけで村の全体を描いた、極めて演劇的な見せ方で創られている。同じく杉原の舞台美術も、黒を基調にした空間に金属の骨組みを組み、各所にスーパーや住居を配した。様々な場所を橋渡しする金属の通路を行き来することで、村の中での移動がうまく表現されていた。まるで、蟻の巣穴の断面を見るかのようだ。そして、内田純子や銀粉長といったクセモノの俳優が演じる村人が、奇妙な劇空間を作る。そんな村に飛び込んだ、小野寺を演じた金子岳憲が劇の真実味を担保する。ハイバイに所属していた頃から非常に上手い役者として認識していたが、今回も、村人の言動に戸惑う芝居に見られるように、相手役を受けるリアクションの演技はさすがであった。村の異常性を際立たせるとともに、それと対峙する男の変化が身体のそれとしてうまく表出されていた。





世界とステージのつながり
宮川麻理子
ダンス研究者

ティツィアナ・ロンゴ ソロ舞踏『MUT』
2017年2月14日(火) 会場 シアターX



  舞台の批評を書く際にその最も大きな動機となるのは、パフォーマンスがもたらすある種の「書かせる衝動」である。それは、非常に感動的なものであったり、ショックを与えるものであったり、問題含みのものであったりするが、いずれにせよ何かしら、こちらがリアクションとして言葉を紡ぎ出すという行為をせざるを得ないような、そんな衝動である。それを起こさせるパフォーマンスに出会うことは、ごく稀にしかない。
  この連載は不定期での投稿になるかと思われるが、ここではそうした鮮烈なパフォーマンスを、生で体感した一観客である筆者がどのように捉え、何を感じ考えたのか、それを共有する場として機能させていきたいと思っている。
  さて、2月の舞台芸術シーズン(TPAM in Yokohamaという舞台芸術の見本市に合わせて、数多くのパフォーマンスが横浜や東京近郊で開催された)のなかで、最も印象に残っているのがティツィアナ・ロンゴのソロ公演である。はて、聞き慣れない名前かもしれない。彼女はイタリア出身で、ボローニャ大学にあるアーカイヴで大野一雄の映像を見たことがきっかけとなり来日、大野慶人と上杉満代に舞踏を学んだ。その後日本やアジア各地の伝統舞踊などのフィールドワークリサーチも行い、2010年からは近藤基弥とともにMotimaru Dance Companyとしてベルリンを拠点に活動している。そんな彼女の舞踏ソロ公演『MUT』は、2月14日にシアターXで上演された。

  シアターXの客席に入ると、まず舞台美術に圧倒される。新聞紙をつなげて作られた巨大な幕が、舞台奥から上手下手の袖、客席部分の天井に至るまで覆っている。ところどころ引っ張ったり弛ませたりすることで陰影がつけられ、まるで巨大な新聞紙の洞窟の中にいるような心持ちにさせられる。鐘の音のような低い音が鳴り響き、暗転して開幕となる。うっすらとした明かりの中、テレビの音声とおぼしきノイズが聞こえてくる。英語、日本語を初めさまざまな言語で語られるニュースは、現在進行形の世界の出来事を物語っており、例えば断片的にトランプ大統領の「メキシコ人は出ていけ」という発言であったり、「原子力」という単語であったりを聞くことができる。そんな中、こうしたニュースを媒介する新聞の塊が舞台上に浮かび上がり、ガサガサと不気味に動き回る。新聞の塊の形態の変化に合わせ、天井に吊られている新聞もうねり、うごめいていく。客席とステージが地続きとなり、現実のニュースと舞台空間がつながる、見事な舞台美術である。新聞の塊は徐々に激しく動き、後ろの壁を覆うように吊られた新聞の幕に突っ込むように走っていき、一体化して止まる。
  ある程度の形を保っていたその新聞が崩れ落ちると、黒いドレスにコートとニカブのように目元だけが開いたベール、大きな黒いバラを模した帽子をかぶり黒い手袋をした黒ずくめの女性が現れる。新聞紙に足を引っかけつつ中央まで前進し、ゆっくりと両手を広げる。そして突如、クッと肘や手首を曲げ、自分の体の中心へと引き寄せる(テクニック的にはこの辺にもう少し、自分の肉のうちへ食い込むような強さや、より意外なリズムがほしい)。その後、天を仰ぐように両手をかかげて走り回り、ジャンプをしつつ、手の届く高さの新聞紙をつかんでみたり、まるでとらわれつつもその空間のなかで精一杯の抵抗を示すように舞台上を移動する。やがて何かに気がついたように客席まで降りてきて、じっと観客を見つめたり、最前列の一人の観客(ティツィアナの師である大野慶人だったのは偶然か)を抱きしめたり、あるいは別の客の目をじっと見据えてから舞台上に戻る。体が完全に覆われたこのシーンでは、イタリア人としての彼女のアイデンティティは当然退き、むしろ観客のイメージの中にはイスラム教の女性が浮かび上がってきたのではないか。ここでティツィアナが体現していたのは、無言で私たちに何かを訴えかける女性であり、それはある種の畏怖をも同時に感じさせ、非言語的な手段による人間同士の交流を生じさせるような、そんな力強さを秘めていた。

  そうしてゆっくりと舞台上に戻り、下手に作られた新聞紙の山へとくずおれる。その体勢から差し出された腕には、今度は赤い手袋がはめられていた。その手が背中を抱きかかえ、黒い衣裳との鮮烈なコントラストが浮かぶ。この赤は途中から、服の内側から引っ張り出される、血のような赤い毛糸に引き継がれる。やがてコートを脱ぎオレンジ色のワンピースを着た女性となって現れ、帽子を頭からそっと外し、一度抱き寄せたかと思うと、突如床へと落とす。そして走り回ったり、天井まで続く新聞をくしゃくしゃと動かしていく。まるで彼女の動きに呼応するように動く天井は、胎動のようでもあり、なんだか胸騒ぎを起こさせる。ヒールの高いミュールでガニ股になったり後ろに反り返ったりといった動きは、先ほどの禁欲的な衣裳から解放された女性の衝動だろうか。
  だがここで終わりかと思ったこの変身には、まだ先があった。ワンピースを脱ぎ出すと、膝辺りから胸元まで黒い毛で覆われた皮膚が露出される。わざとファッションショーのようにポージングしつつ前進したかと思うと、観客を威嚇するように「ハーッ」とうなり口を開く。ドレスの下から女性の裸体が現れるという期待は、この異様なケモノによって裏切られるのだ。片足だけにミュールを引っ掛け、コントロールが利かなくなったように体を硬直させて、ロボットのような動きを見せる。日常想定しうる動きから逸脱していく身体をここで見せるのは、やはり舞踏の影響であろう。やがて加速していた動きが崩れていき、下手の新聞の山の上に背中を持たせかける。長い長い間を取った後、ティツィアナは自分の体にくっついている毛をペリペリとはがしていき、白い肌が徐々に浮かび上がる。やがて素肌になり、まるで妊婦のように腹をさわる。そして笑っているかのような、泣いているかのような顔をしつつ、体の周囲の新聞を叩き付けるが、その動きは徐々に激しくなっていく。髪を振り乱し上半身をエネルギッシュに前後させて、たまった怒りを解き放つような動きが続き、ジャンプして地面から体が離れる。やがてエネルギーを放出しきったようにしゃがみ込み、暗転していく中で「私の/子供/待っている」というような囁きが聞こえて幕となる。
  カーテンコールで再登場したティツィアナは手に箱を抱えており、観客のひとりひとりにバレンタインのプレゼントとして小さな包みが配られた。包装に使われていたのは新聞紙、そこには「あなたを最も傷つけた人より」と書かれたメモが挟まれ、上演のなかで登場したのと同じような赤い毛糸で結ばれていた。



  舞台を見終わった直後に抱いた感想は、彼女が提示した世界感に圧倒されつつも、なんだか腑に落ちない心持ちであった。その一因は、最後の台詞にある。これは蛇足だと思った。その台詞がなくとも、途中の女性性が強調される演出や、裸体で横たわりお腹を触るような動作で、女性=母という属性は十分に浮かび上がってきたからだ。むしろこの最後の演出は、女性=子を産む性へとあまりにも短絡的に集約してしまい、新聞→ニカブ→ワンピース→ケモノと時間を追った変容が表象した女性の持つ多面性を、そいでしまったようにも思われた。ああ、結局女性は「産む性」へと還元され称賛されるのか、と正直なところがっかりしたのだ。

  だがこうして書きながら公演を振り返っていくと、そもそもこの劇場空間全体が、新聞で囲われた子宮のような空間になっていたことを思い出した。ニュースのあふれるその空間の中は、まさに今私たちの世界で起こっているような出来事が、日々繰り返される場である。幸福も、戦争も、差別も貧困も、あらゆるものがここには詰まっている。新聞が象徴しているように、人間が生み出すものは実に多種多様で、人間同士の関係が生み出す温かい瞬間もあれば、暴力もあるのだ。女性=子を産む性であるならば、このような世界を作り出すのも女性から生み出された人間なのである。それは単に命の誕生を祝福するだけでなく、また命を生み出す女性を称賛するだけでなく、この世界を丸ごと引き受ける覚悟を突きつける。暴力の瞬間もまた、私たちから生まれたのだ。ひとりひとりが、このような現実、ニュースのあふれる世界に向き合わなければならないのであろう。ティツィアナの最後の台詞は、昏迷の時代に取り残された私たちを表象しているのではないだろうか。

  それは捉え方によっては絶望的だ。だが最後に配られた包みを開けると、「美しい人よ ゆるして下さい」と書かれたメッセージとともに、赤い小さなハートが現れた。ハートが戻ってくるようにという意味だろうか、かわいらしい家を模した新聞の切り紙のなかに赤いハートがおかれていた。「ゆるし」。それは簡単なことではないだろう。だがこうした状況にあっても、心をなくさないように、そうしてなお、この世界に立ち続けなければならない。





皇室と王家を想う  
藤原央登 劇評家

劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』 
2016年10月27日(木) ~ 11月6日(日) 会場 シアタートラム

温泉ドラゴン『或る王女の物語~徳恵翁主~』
2016年11月2日(水) ~ 6日(日) 会場 SPACE雑遊

    空気のような存在


昨年2016年を振り返るにあたって、トピックのひとつとなるのが今上天皇の譲位を巡る問題である。発端は8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」と題されたビデオメッセージ。即位後28年を振り返り、国政の権利を有せず国民統合の象徴としてある、日本国憲法下における天皇像を不断に模索し実行してきたと総括なされた。それと共に、高齢化に伴ってその任が十分に果たせなくなる時がやってくることへの危惧を表明なされた。そのことが国民と共に歩む皇室の伝統を維持し、未来へと引き継ぐにあたって障害となることへの懸念をお示しになり、言下に譲位を滲ませる御意向を表明するものであった。

天皇のお気持ちを受け、政府は対応を検討。11月から首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設け、有識者16人からのヒアリングなどを実施した。今年1月23日に有識者会議は、計9回の会議をまとめた中間報告を論点整理として公表。これを踏まえて、政府は一代限りの譲位を可能とする特例法を今国会に提出する予定である。一部の新聞では、平成31年1月1日に皇太子が天皇に即位し新元号を発表する見込みとの報道もなされた。

ビデオメッセージによって我々は改めて、東日本大震災の被災地をお見舞いされたり、沖縄・硫黄島・サイパン・パラオといった太平洋戦争の戦地を訪れて戦没者を慰霊された天皇皇后両陛下の姿を思い浮かべる。そのように過去の歴史を重く受け止め、時に国民と直に接し寄り添いながら、天皇は日本の行く末の安寧を願ってこられた。天皇の負担軽減は、皇室制度改革の形で何度もその必要性が議論されてきた。しかしその都度、頓挫して抜本的な解決がされなかった。今回、天皇からの直接のメッセージというイレギュラーな方法によって、ついに国民は皇室制度の問題のひとつに現実的に直面させられたのである。それは、天皇とは何かについて、今一度目を向けさせる契機ともなったはずだ。

年長世代を中心になおも天皇の戦争責任を問い、天皇制の廃止を主張していることを承知してはいるが、もの心ついたときより平成の世しか知らない私にとっては、天皇とは良いか悪いかを度外視した位相で存在していた。それは別段、神格化された特別なものではなく、空気のように自然にこの国にあるというくらいの意味である。だから天皇についてあれやこれやと思索を巡らすこともなかったし、家庭や学校生活でも話題に上った記憶はほとんどない。そのことは裏返して言えば、敗戦で危機的状況を迎えた天皇制を、うまく戦後に定着させた証左とも言えなくもない。天皇を空気のように思っていた国民が、何かの節目で初めてと言って良いくらいの感覚で天皇について考えた経験は、どうやら近過去にもあった。

それは80年代の終わりに昭和天皇が病で倒れた際である。全国で行われたお見舞い記帳に数多くの10代の少女が訪れたことに着目し、彼女たちは天皇に無垢で傷つきやすい弱さを重ねていると分析し、「かわいい天皇」と評したのは評論家の大塚英志であった(『少女たちの「かわいい」天皇―サブカルチャー天皇論』)。昭和天皇は戦前、現人神の国家元首として第二次大戦には否定的でありながらも、軍部に押し切られて大戦の諮勅を発したとも言われている。人間宣言後の戦後は、日本各地を巡幸して国民を見舞い、その後の経済発展と平和主義の象徴となった。日本史においてもかつてないくらい激動の時代と共にあった昭和天皇は、聖と俗、幅の広い天皇像を一身に引き受けた。戦争責任の問題については、GHQが天皇の責任を反故にすることで、占領政策を効率良く行ったと言われている。結果、昭和天皇は東京裁判でも裁かれることなく、戦後の経済発展と平和主義の時代においても自らがそのことについて言及することは少なかった。戦後史における最も重要な要素である、天皇の戦争責任が曖昧にされ、そして当の昭和天皇が亡くなったことで、今日においても天皇に戦争責任があるのかないのかを巡って、当事者を欠いた議論がなされている。この問題に決着が着くことは恐らくないだろう。そしていつの間にか、戦後の天皇像として国民に強く残ったのは、平和を愛する奥ゆかしい老人の姿になった。かつての女子高生が愛したのはこの姿なのであり、その頃から、天皇が空気のような存在としてただ在るようになったのである。それを引き継いだ今上天皇の時代に生きる者にその感が強まるのは当然であろう。しかし、核心的な問題を宙に浮かせたまま、ただ天皇制を未来永劫受け継いでいこうとするこの国の姿勢は、多神教である日本の風土としての中心の不在、あるいはかつて丸山真男が主張したような主体性なき個人による無責任体制としての日本そのものを示すように思われる。先に挙げた著書で大塚は、昭和天皇を「東京の中心に位置する森」の「聖老人」と称していた。森に囲まれた皇居は都市との大きな落差を生む。そこに本当に居るのか。当然居るのだろうが、何だか秘匿されているような感じを抱かせる皇居のイメージからして、天皇は不在ではなく非在といった方が良いような感じがする。まさに空気という言葉がしっくりくる天皇の存在は、我々国民を含めた日本そのものの性質を上手く表した「象徴」である。


    国民と共にある天皇の原点




ここからは、我々国民には良くは見えない、皇室と王家の人物を扱った2つの舞台について触れよう。演劇ならではの想像力によってそれらを描きつつ、今の世の中を見つめようとする興味深い歴史劇である。ひとつは、大正天皇を描いた劇団チョコレートケーキの『治天ノ君』(作=古川健、演出=日澤雄介/2016年10月30日ソワレ、シアタートラムほか)。もうひとつは、李氏朝鮮第26代国王・高宗の娘であり、朝鮮王朝最後の女王である徳恵翁主(トッケオンジュ)を描いた温泉ドラゴン『或る王女の物語~徳恵翁主~』(作・演出=シライケイタ/2016年11月2日ソワレ、SPACE雑遊だ。

『治天ノ君』は2014年、下北沢駅前劇場で初演された。今回の再演では、三軒茶屋にあるシアタートラムという、広い空間での上演となった。劇団チョコレートケーキの代表作のひとつである本作は、大正天皇の生涯に焦点を置きながら、明治と昭和前期までを串刺しにする物語である。明治から昭和までの、父・子・孫の世代を描く皇室の家族劇であると共に、その動きが近代日本の黎明期から激動の時代へのとば口と通体している点で、まさに日本そのものを描いた舞台である。そのことがまた、舞台では描かれないものの、昭和中期以降から現在までをも見据えた視座ももたらす。皇后・貞明皇后節子(松本紀保)と天皇にかつて仕えた侍従武官・四竈孝輔(岡本篤)による、大正天皇の回想という形で、本作は進行する。彼らによって最も印象深く、そして本来の姿として回想される大正天皇は、明るくて国民に親しみのある天皇像を模索し苦心した姿である。そのような大正天皇は、列強に伍するために富国強兵・殖産興業の政策を推し進めた近代日本のまさに元首として、強くて畏怖の念を国民に与えた明治天皇、そして明治天皇が現人神の資質を認め、自身も明治帝を目指し再現しようとする昭和天皇との大きなコントラストを成す。

この舞台を観ながら、やはり天皇の姿は、その時々の時代そのものであることを改めて実感させられた。日清日露戦争の明治、満州事変から泥沼の第二次大戦へと突入した昭和の間に位置する、たった15年間しかなかった大正。大正デモクラシーが起こりモダンな都市生活者が生まれ、束の間の民主主義の時代が生まれた大正という時代は、乗馬を愛した気さくで明るい大正天皇に相応しい。側室を廃してして一夫一妻を採った家庭的な天皇家を目指したのも大正天皇が初めてである。そんな快活で国民目線の人間性であるが故に、大正天皇は明治天皇にたびたび叱責され、天皇としての権威に乏しい「具物」と扱われてしまう。それでも、第一次大戦勃発時、独断で参戦を決定した政治家・大隈重信(佐藤弘幸)や牧野伸顕(吉田テツタ)とは違い、外交による平和的解決を大正天皇は模索した。劇中、大正天皇を「生まれる時代が早すぎた」と評す台詞がある。もし大正天皇の理念が早すぎたのだとすれば、それは直接的な戦争への介入がこれまでなかった平成の世の今上天皇に、その理念は隔世遺伝しているのだと言えよう。

その後、脳膜炎によって言語障害と歩行障害になりながらも、摂政を置こうと動く政治家に対してたどたどしい言葉使いでありながらも語気を荒げて叱責し、断固として断る大正天皇が強く印象に残る。演じた西尾友樹は、『熱狂』で演じたヒトラー役も見事であった。西尾の演技は、役が憑依したかのようにその役柄を生きる。そして役にのめり込んだ果ての感情が頂点に達した際のパワーは、観客をぐいと引き込む魅力がある。自身の身体がどうなろうとも天皇としての務めを果たそうとし、激昂する大正天皇の姿もまたそうであった。そこからはまた、吐血・下血後の病床にあっても稲の出来を心配したとされる昭和天皇、そして摂政を置いて名ばかりの天皇となり、象徴天皇の務めが自身でできなくなることを忌避する今上天皇を想起させられる。しかし大正天皇の願いは叶わず、政治家は後の昭和天皇となる裕仁親王を摂政に置く。天皇制に関して大隈が語った台詞が印象的だ。明治維新では、大名や将軍に代わって政治家や国民が拝跪する対象が必要であった。そこで天皇を担いで、日本国民を統合しようとした。つまり、近代天皇の威信とは、政治利用によって人工的に作られた側面が多分にあるのだ。それに関わった大隈はそのことをわきまえている。しかし、その経緯を知らない後代の政治家が、天皇を神として本気で崇めた時は危険だと述べる。明らかにこれは、第二次大戦時、天皇を傘にして聖戦の名の下に泥沼の戦争に突き進んだ昭和期の政治家を意識した台詞である。

天皇に即位した昭和天皇は劇中、大正天皇崩御から間をおかずに明治60周年を祝う行事を進めるよう側近に指示する。明治の威信を復活させ、昭和がそれを引き継ぐことを国民に示すことが重要だという、側近の助言に従ったものであるのだが、政治家による政治利用は、昭和天皇の即位直後から始まっていた。その極地は、「天皇陛下万歳」の言葉の中、下手奥の玉座から上手手前に敷かれたレッドカーペットを進み出る昭和天皇の姿である。特に初演では、私は歩み出る昭和天皇のすぐ傍の席に座っていた。そのため、その後の激動の昭和が自分に迫ってくるような印象を覚えて戦慄した。この幕切れによってこの舞台が、描かれることのない昭和以降から戦後の日本までをも射程に収めていることが十分に伝わった。見事な幕切れであった。

とはいえ本作は、大正天皇を持ち上げ、明治・昭和天皇を貶める舞台では決してない。明治も昭和の天皇も、日本国家を想い、懸命に天皇の役割を立派に務めようとしていた。明治・昭和天皇も、即位中の時代に起こった戦争を回避するよう、折に触れて内閣に助言していたことは、数々の歴史の資料によって知られていることである。それでも、かつての戦争は起こってしまった。皇居の奥に鎮座して天皇たる威厳を保たなければならなかった明治憲法下の元首としての天皇、そして「国政に関する権能を有しない」日本国憲法下、公的行事に積極的に参加され、国民に寄り添ってきた象徴としての天皇。2つの天皇像は大きく異なっているようだが、その時々で天皇たる役割と存在を常に思考されてきた。そしてその意思を、婉曲的に抑制した言葉として発するしかない制約の中で生きてこられた点で共通している。大隈の台詞にあったように、時々に発せられるお言葉をどのように受け止めるのか。それを曲解し、都合よく政治利用したりすることはないか。それはいつの時代においても、政治家や国民が留意しなければならないことであろう。時代や位置付けは違えども、天皇はその時代を象徴する。もちろん、時代は天皇だけが作るのではない。国民が天皇とどのような時代を切り結ぶかが問われている。そういった意味でも天皇は、いつの時代でも国民と共にあるのだ。

    想像を重ねて王女へと近づく




秘匿され、断片的にしか伝わってこない皇室の事実。自然、我々がそこから何かを読み取る際には、想像力を働かせて推察する他ない。芸術家によるそういったアプローチは、為政者による政治利用とは姿勢が異なる。対象を理解し、より良い関係を切り結ぼうとする意思に基づいているからだ。『治天ノ君』はそのような作品であった。これは天皇だけでなく、例えば他国との係わり合いといった問題にもつながっている。

温泉ドラゴンの『或る女王の物語』は、当日パンフレットに記載されているように、一次資料に乏しい徳恵翁主を描いている。そのため、「伝聞や憶測を多分に含む二次資料」を頼るしかなく、しかもそこから浮かび上がる徳恵翁主は、幼年時より患った統合失調症によってほとんど自らが喋っていないのだという。日韓併合時、最後の皇帝の娘であった徳恵翁主は、12歳で単身日本に渡って来た。それは日本の同化政策の象徴として、大人たちによる政治的な思惑によるものであった。だからチマチョゴリを着ることも許されなかった。宗武志(筑波竜一)と結婚し長女が誕生するが、病状の悪化によって16年間入院し離婚。さらに娘との死別も経験した。1962年に晴れて帰国を果たした後は、兄・李根(イウン)の妻と生活を共にして1989年、76歳で死去。この数奇な人生を歩んだ女王のことは、私はもちろん知らなかった。シライケイタもそうだったようだ。

対馬の海岸で宗武志は、『浦島太郎』の基となっている日本神話「山幸彦と海幸彦」を徳恵翁主に語る。山の猟が得意な山幸彦と海底の宮殿に住む娘・豊玉姫という本来相反する者が結婚したように、日本人である武志は徳恵翁主を、朝鮮海峡から鳥居をくぐってやって来た豊玉姫のように迎えることを伝えてプロポーズする。国境を越えた純愛とその後の徳恵翁主の悲運を、長女の正恵(中村美貴)が語る形で舞台は進む。徳恵翁主が帰国した後、武志が正恵に徳恵翁主を重ねて「山幸彦と海幸彦」を再度語るシーンは切ない。「山幸彦と海幸彦」の物語を再現する際には、山彦(いわいのふ健)、海彦(阪本篤)、山彦を海へと誘うシオツチノカミ(小嶋尚樹)によって、コミカルで笑いを誘う寸劇調で再現されるが、劇の基調は非常に幻想的でロマンティックに仕上がっている。『治天ノ君』と同じく回想の形を採ってはいるが、異なるのは証言者である正恵が、史実では失踪している点である。したがって、正恵は徳恵翁主の生涯を知るはずがない。徳恵翁主へのアプローチには一・二資料共に乏しいという2重の障害があった。それと同じように、正恵が想像した徳恵翁主という物語を、さらにシライが想像して創作するという、想像力の2重化がこの舞台の構造になっている。そしてこれこそが、本作の最大の趣向であり、核である。

資料に乏しく自身の発言も少ない徳恵翁主をシライはなぜ描こうとしたのか。分からないからこそ、人はそこから何かを読み取ろうとする。その際、分かっているものよりも、より積極的にこちらから対象へと接近しなければならない。分かろうと近づいて生まれた物語がたとえフィクションだとしても、歴史に埋もれた人や事柄を取り上げて我々に気づかせること。そのことで、観客の中には悲運な歴史を歩んだ女王がかつていたことを知って鎮魂する気持ちが生まれるだろうし、日本がアジア諸国に行った非道に改めて思いを致すこともあるだろう。物語は武志と徳恵翁主そして正恵を、たとえ史実に反したとしても結び合わせようとする。それが単に綺麗事として片付けてはならないのは、日韓の和解を模索しようとする作家の姿勢や覚悟が熱く込められているからだし、そのように想像を駆使することが演劇という表現ジャンルの根本に触れるものであるからだ。温泉ドラゴンは韓国での上演を試みている。そういった活動の中から誘発されて生まれた作品なのかもしれない。近年は、日韓の作品が互いに上演され合うといった、文化面での交流が盛んだ。相互上演の積み重ねを経て、交流はついに隣国を題材にした創作劇が生まれた段階に入った。そのように考えると、本作がたとえささやかな試みだったとしても、日韓の交流はゆっくりだが確かな手ごたえと共に深化していると感じさせられる。

2015年12月28日の慰安婦問題の日韓合意によって、日本は「心からのおわびと反省の気持ちを表明」し、韓国政府が設立した元慰安婦を支援するための財団に10億円を拠出した。一方、韓国側は在大韓民国日本国大使館前にある慰安婦像を撤去・移転を含めて「適切に解決されるよう努力する」ことを確認した。慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的」な解決での一致である。2012年の李明博大統領による竹島上陸以降冷え込んでいた日韓関係に、修復の兆しが訪れた時であった。しかし昨年12月に、新たに釜山の日本総領事館前に少女像が設置されたことを受けて、今年1月には日本政府が駐韓大使、釜山総領事の帰国などの抗議措置を採った。再び日韓関係に暗雲が立ち込めている。韓国の野党側からは、10億円の返還や条約破棄といったさらなる対抗措置を促す主張もなされ始めている。天皇の戦争責任と同じく、歴史問題を巡る問題についても、自国の思惑や利益を優先するがゆえに政治利用に走りがちだ。それに勝つために、自国に有利な事実関係をただ主張し合うばかりで、互いの意見を擦り合わせようという動きがない。対して、フィクションを生み出す演劇を始めとする文化・芸術は、相手の立場を慮ったり未来の人類に思いを馳せて交流を重ねている。アーティストは政治家とは違い、かつての人々がどのような生き方をしてきたのか、その声を真摯に受け止め現在への警句とすることで、未来を射程に収めた活動を行っているのだ。排外的な気分が世界的に蔓延する中、立場の違う自国民や隣国と関わろうとする個人や民間団体があること。それが現在におけるささやかな希望である。