コンセプチュアルな『マクベス』読解と、
小ネタによる笑いがもたらす幅

藤原央登
劇評家

開幕ペナントレース『あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]』
2017年8月16日(水) ~ 27日(日) 会場 小劇場 楽園

  本作は『マクベス』を自らのフィールドに引き寄せて遊びながらも、実質60分ほどの上演時間であらすじをしっかりと観客に理解させる。その上で、権力と名誉に突き動かされた人間のあくなき欲望を浮かび上がらせた。
  シェイクスピア劇の新演出や本歌取りした作品は星の数ほどあり、今後も産まれ続けることだろう。それによってシェイクスピア劇の上演史は厚みを増し、古典としての権威が高まってゆく。一方で、ハイペースで作品が創られるあまり、個々の上演は上演史の突端に一過的に位置しては、すぐさま埋もれるという憂き目にあう。本作もその流れには抗せないかもしれない。だが、2月の初演から半年経って早くも再演されたことで、この作品の構造とユニークさに改めて感心した。私にとっては、『マクベス』の「特異な名作」として、記憶に刻まれたのである。
  スコットランドのコーダーの領主になり、やがては王になると3人の魔女から予言されたマクベス。予言を実行するべく、マクベスは妻と共謀してダンカン王を殺害して国王になる。さらに、魔女がマクベスの親友・バンクォーの子孫が王になるとも予言していたことから、バンクォー親子の暗殺も計画する。言葉の魔力に突き動かされたマクベスによる、飽くなき権力への志向。そのことを、タイトルマッチに挑むボクサーになぞらえること。これが、開幕ペナントレースによる『マクベス』読解の最大の趣向である。負けられない戦いがそこにはあるというやつだ。

  ボクサーにはリングが必要である。リングを表現した舞台美術が、とりわけこの作品の秀逸さを伝える。舞台空間を2方向からL字型に挟むように設置された客席。その前方にはロープが張られている。ロープで四角に仕切られた演技エリアの中に、白いリングが設置されている。リングの上面は開閉式になっており、フタのように開かれると、その裏にセリフの英語字幕やパフォーマーが演じる魔女の予言、鯉の映像などが映される。また容器のようになったリング下部からは、殺害されたバンクォーの亡霊が出現する。「桜の森の満開の下」のごとく、リングの下には戦いに敗れてマットに沈んだ、数多くの死者が埋まっていることを連想させる。
  リングには当然、コーナーポストがある。インターバルで使用する椅子と共にミニチュアで作られているが、それは1セットだけである。これに対応するもう1セット、すなわちマクベス用のコーナーポストと椅子がリングにない。それらはリングの外に用意されている。劇場内にある太い柱をコーナーポストに見立て、その前にパイプ椅子が置かれているのだ。ここを中心にして、パフォーマー(高崎拓郎)はマクベスを演じる。その様が、タイトルを賭けた試合に望むボクサーの重圧や苦悩と、それでも王座を勝ち取ろうとするボクサーの心情に重ね合わされている。
  ミニチュアのコーナーポストと柱のコーナーポストの関係性は、正方形のリングをさらなる正方形の舞台空間が内包するような、入れ子の構造を成している。数学でいえば、辺と角の比が等しい相似形を成すような格好である。この舞台美術と舞台空間が織り成す関係が、創り手が『マクベス』をいかに読んだのかを余すところなく伝える。数多くの為政者による権力奪取の物語は、権力欲に取り憑かれているという意味で同類であり、それはすなわち自己鏡像の連鎖でしかないということだ。そのことを、相似形の舞台空間そのものが語っている。相手選手がいないミニチュアのコーナーポストに対峙するボクサー=マクベスは、一体誰と戦おうとしているのか。見えない敵と虚しい空中戦を行っているようにしか見えないのだ。権力と名誉欲に突き動かされて空虚な戦いを強いられ、自己破壊した者たち。それがリング下に埋まった死体なのだ。
  ラストシーン。ダンシネンの森の枝を頭につけて攻めてきたマクダフを前にして、本作でのマクベスは自らリングを降りる選択をする。だが、たとえこのマクベスが降りたとしても、次に王座を狙って新たなマクベスがやってくるだろう。マットの下に潜ったパフォーマーたちが、タイツ生地になった上面に顔を押し付けながら「マクベスくる時、マットが動く」と述べる。マットをうごめく死者たちの言葉は、権力を志向する者を誘惑し、戦わずにはいられなくさせる魔法をかけ続けているのだ。
  以上が、創り手が解釈した『マクベス』の骨子である。短い時間で『マクベス』を理解させる構成力にも表れているように、劇の核心の提示は非常に明解だ。それを、舞台美術と共振させてコンセプチュアルに提示しているために、より説得力がある。本作の最大の魅力はそこにあることは間違いない。だが、それらを担うパフォーマーと様々に仕組まれた笑いを生み出すネタの数々もまた見所である。スタイリッシュな劇構造と、それに反するような各種の遊び。両極端の要素が詰まっている点が、開幕ペナントレースの作風の特徴である。代表作『ROMEO and TOILET』(2009年ニューヨーク初演)にもその様は読み取れる(ウェブサイト『シアターアーツ』の拙稿「「奇跡のうんこ」をひねり出すために」参照。→Link)。


©池村隆司
  一見して了解できるように、開幕ペナントレースのパフォーマーたちは一見したところ奇異な風貌だ。パフォーマーは頭まですっぽりと覆い、顔だけ出した白の全身タイツを着用する。露わになった身体のラインは、決して鍛え上げられたスマートなものではない。どっしりとした重量級、悪く言えばだらしのない中年の体つきである。とはいえ原色の照明が良く映える白の全身タイツは、パフォーマーをコミカルで愛すべきキャラクターにさせる。オヤジのむさくるしさを中和して愛くるしさへと変換する効果があるのだ。そんなオヤジたちが汗をかきながら舞台空間を駆け回り、高いテンションでがなり立てながら繰り出す小ネタの連続は、この集団を語る上で欠かせない要素である。
  目に付いた小ネタを挙げよう。第2幕、マクベス婦人(森田祐吏)と共にダンカンの殺害を計画するシーン。上面が開けられたリングの傍に2人のパフォーマーが座る。投影された映像が示す通り、リングはここでは、大量の鯉が泳ぐ池のようだ。パフォーマーはそこにエサをやりながら、妻の成すべき役割について語らう。鯉=恋ともかかっているのだろう。そこで、妻は夫が将軍になるために尽くすべきだとの結論が出される。登竜門の語源にもあるように―黄河上流の竜門を登りきった鯉は龍になるという言い伝え―、鯉が龍になることを手助けすべきだというのだ。ここでの語らいで、マクベス婦人はダンカンの殺害を決意する。
  王の座を手に入れたマクベスが酒宴を開く第3幕。マクベスがバンクォーの亡霊を見て錯乱するシーン。ここでは、鯉のタイツを全身に着用したG.K.Masayukiがリング下から現れる。全身タイツによって手足が拘束されているためリングをジャンプで飛び越えなければならない。そしてテンション高くわめいてマクベスを責め立てる。彼は龍になれず鯉のままで死んだバンクォー。マクベスが正気を取り戻すと鯉はリング下に戻る。だが、マクベスが再び幻聴を聞くと再び、鯉になったバンクォーの亡霊が飛び出してわめきたてる。何度も執拗にこれを繰り返す内にしだい疲れ、よたよたとしてくるG.K.Masayukiが可笑しい。8人の王とバンクォーの亡霊を幻視する第4幕では、G.K.Masayukiが公演のオリジナルTシャツを吊り下げて登場する。王に見立てられた8枚のTシャツは、漫画家・しりあがり寿によるデザイン。『マクベス』のシーンを利用して、Tシャツの宣伝を行う趣向だ。他、マクベスがバンクォーと共に魔女の予言を聞いた後、コーナーポストにも使われる柱で、高崎とG.K.Masayukiがツッパリの練習を行うシーンも印象深い。ここでの彼らは、北の湖と千代の富士。ささいなシーンではあるが、王座を求めるのは為政者だけでなく、ボクサー、力士、戦国武将等々、勝ち負けの世界で生きる古今東西の多くの人間に共通した心性であることが示唆される。このように、わずか60分ほどの『マクベス』劇の中に、種々の遊びが散りばめられている。
  最大のネタは、ヘルメットを被った高崎と森田が胡坐で向かい合い、手にした英語版の戯曲を読むシーンだ。その後のシーン展開から、マクダフに関する部分の朗読だと思われる。件のシーンの前段で、「マンモスウエスト」なる人物が率いるパラシュート部隊が、マクベスに戦いを挑んでくる、と高崎から説明される。『あしたのジョー』には、主人公・ジョーが送られた少年鑑別所で、ボスとして君臨していた巨漢の男・西寛一がいた。新入りのジョーにリンチを加えるなど当初は敵役であったが、少年院を退院して「マンモス西」のリングネームでデビューした後は、ジョーの親友として、そしてセコンドとして支え続けた人物だ。「マンモスウエスト」とは「マンモス西」のことであり、さらにマクダフに重ねられているわけだが、記憶ではここまで丁寧な説明は初演にはなかったように思う。このような解説が入ったことで、本作がボクシングを大枠にしていることと、タイトルが『あしたの魔ジョー』である理由がより明確となった。また、マンモス西が後にジョーの親友になるということは、敵の自己同一化と、それによる相手の見えなさという本作のコンセプトにも通じる。バトル系のビルドゥングスロマン(成長物語)は、次々に強敵と対峙しながら成長する主人公を描く。だが多くの少年漫画がそうであるように、無用に引き伸ばされる物語は、主人公に果てしのない戦いを強いる。本当の敵は一体どこにいて、どれだけ倒せば戦い=物語は終わるのかが分からなくなってくる。『マクベス』の骨格が、身近に溢れるサブカルチャーと親和性があることを示しているようだ。
  さて件のシーンである。2人のパフォーマーが戯曲を朗読している最中に、高崎の頭上に設置されたパイプから小石が大量に降り注ぐ。この小石が、パラシュート部隊による攻撃に見立てられている。ヘルメットに当たった小石の跳ね返り方によっては、森田の顔をたびたび直撃。朗読どころではなくなる。大量の小石は、パイプの入口にスタンバイしたスタッフによって、2Lのペットボトルから間断なく投入されていたのである。投入するタイミングが良ければ、小石の流れは加速度を増し、パイプの中をものすごい音を立てて流れ、一気に高崎の頭に降り注がれる。当然、森田は小石による猛攻撃を受けることになる。このシーンもしつこく続けられるのだが、多少のハラハラ感と共に、くだらなさの極地を見せつけられて、笑うしかない。ここに、開幕ペナントレースのエンターテイメント性の集約点がある。

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140年目の『白鳥の湖』によせて ――「ダンスがみたい!19」評
呉宮百合香
ダンス研究

「ダンスがみたい!」実行委員会『ダンスがみたい!19』
2017年7月18日(火) ~ 30日(日) 会場 d-倉庫


出演:tantan / 黒須育海【co.ブッシュマン】 / 白井愛咲
上杉満代 / C/Ompany / 江原朋子 / ケダゴロ|大塚郁実
三東瑠璃 / 川村美紀子 / ケイタケイ’s ムービングアース・ オリエントスフィア / 笠井叡

舞台監督... 井草佑一,田中新一(東京メザマシ団),久保田智也
音響...許斐祐,高橋真衣,佐々木敦
照明...三枝淳,久津美太地,金原知輝
記録...Vitek,船橋貞信
協力...WORKOM,die pratze,OM-2,磯部豊子,
相良ゆみ,高松章子,福岡克彦,山口ゆりあ,吉村二郎,楽園王
宣伝美術...林慶一
監修...真壁茂夫
制作...林慶一,金原知輝,村岡尚子

  「歴史」といかに対峙し、いかなる距離を取るか――第19回目を迎えるd-倉庫主催のダンスフェスティバル「ダンスがみたい!」が、一昨年のストラヴィンスキー『春の祭典』、昨年のエリック・サティに続くお題として掲げたのは、クラシック・バレエの名曲、ピョートル・チャイコフスキーの『白鳥の湖』(1877)であった。

  白鳥の湖と聞けば、その音楽のみならず、衣装や振付まですぐに思い浮かぶ人も少なくないだろう。一般に共有されているイメージがとりわけ強固で、楽曲の訴求力も強い古典作品であるだけに、対峙するには自らのスタンスの相対化と相応の戦略が求められる。今回上演された10作品のうち、私が鑑賞できたのは4作品――黒須育海【co.ブッシュマン】(7/19)、白井愛咲『名称未設定』(7/20)、C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』(7/23)、川村美紀子(7/28)――のみだが、4者4様『白鳥の湖』の全く異なる側面に着目していた点が、非常に興味深かった。




黒須育海【co.ブッシュマン】――音楽の解釈

  まず黒須育海【co.ブッシュマン】は、音楽を身体に落とし込むという直球勝負に挑んだ。楽曲のリズムを身体の律動として取り込み、時に2足、時に4足で跳ね回りぶつかり合う男性6名の肉弾系群舞は、人間や白鳥といった形態を超えて、生物が持つ獰猛さを表出させる。男性による荒々しい白鳥像といえば、黒須自身も言及しているとおり、マシュー・ボーン版(1995)が思い浮かぶが、ブッシュマン版白鳥は、具体的な物語を語るのではなく、1対複数/1対1/ユニゾンと様々に変化するダンサー間の構図のみから詩的な情景を立ち上げていたことに、その特徴がある。また、描き出されるのは同種の群れの内でのドラマであり、そこに王子という「異種」は不在だ。

  作品中、「白鳥の湖」のモチーフは常にずらされた形で登場する。たとえば、闇の中にバサッバサッと大鳥の羽ばたきを思わせる音が響いたと思えば、ひとりの男が舞台上で大きな白旗を振っていることが判明する冒頭場面。宮廷舞踏会に集まる人々を描く第3幕の華やかな序曲が、躍動感あふれる野生的な群舞へと変換される中盤の場面。いずれの場合も、ユーモラスである以上に、実直さが生み出すロマンティックさに満ちている点が魅力である。中でも印象的だったのは、バレエのチュチュを連想させる襞襟の見え方の変化だ。この襞襟を頭にかぶって項垂れる場面では、照明効果と相まって、それまでのエリマキトカゲのような笑いを誘う姿からは一転、非常に静謐で美しい画が立ち現れる。

  体当たりで向かっていくタフさと、美的な形象に対する繊細なこだわり――横浜ダンスコレクション2017での受賞作『FLESH CUB』でも発揮されていたブッシュマンの身体性と美学をもって『白鳥の湖』を解釈した作品であったと言えるだろう。




白井愛咲『名称未設定』――形式の分析

  第4幕の終曲からいきなり始まる白井愛咲『名称未設定』は、「形式」自体を問題化する。壮大でドラマチックな音楽に反して、淡々と舞台上を歩き回る4人のダンサー。以降もこの低温テンションを保ったまま、振付のクリシェを俎上にあげ、「こう来たなら次はこう続くだろう」という流れをことごとく断ち切っていく。そして観客の方も、次第にその「裏切り」の法則へと引き込まれていく。

  この作品が批評的に取り上げる要素は、2つある。第1に、特定のダンス・スタイルが持つ常套表現である。たとえば作品中盤、ドラマトゥルク兼任の宮川麻理子による第1幕パ・ド・トロワの解説に続いて、音楽にのせた実演が行われるが、堂々と正面を切って踊る男性(加藤律)に対し、2人の女性(白井愛咲、熊谷理沙)はひたすらその後をついてまわり、彼が両肩に背負っているトイレット・ペーパーを巻き取り続ける。この他にも、踊り出す前のポーズやプレパラシオンの強調、「手をつなぐ」という象徴的身振りに還元された「4羽の白鳥」等、形式性に着目したクラシック・バレエの読み直しが随所に登場する。

  一方で、ポスト・モダン・ダンスの以降の現代ダンスに見られるコンセプチュアル性にも、その分析は及ぶ。ミニマルな身振りや日常的仕草、メタ的な発言を挿入することで、舞台のイリュージョンを破壊すること。あるいは、拍手の使用、誰もいない空の舞台の提示、舞台転換の開示、照明変化によるスペクタクル性の誇張など、劇場の約束事を逆手に取ること。いまや手垢にまみれてしまったこれらの手法をひとつひとつ舞台に乗せていく様は、さながらクリシェの展覧会である。

  第2に、振付の生成・伝達過程である。この点を問う作品は、多田淳之介『Choreograph』、田村興一郎『大きな看板の下で』等、近頃頻繁に見受けられるが、白井の特徴は、冷静な分析的態度を徹底して貫いたことにあるだろう。作品終盤、①ダンサーが軽くおさらいをする光景、②手書きのイラストを用いた振付解説ビデオ、③架空の「踊り手たち」を誘導し踊らせる「先生たち」の後ろ姿、という3種の周縁的な情報をもとに、観客は1曲分の振付を頭の中で想像するよう仕向けられる。しかしその「答え合わせ」がなされること――つまりダンサーによってその振付が実際に踊られること――はない。なぜなら、実演が始まろうとするまさにその瞬間に照明がカットアウトし、次に明転した時には舞台上は無人となっているからだ。

  舞踊史上最も有名な作品のひとつである『白鳥の湖』を出発点に、コンテンポラリー・ダンスに至るまでの流れを視野に収めながら展開したこの分析の最終的な到達点が、当のダンスの「不可視化」であるという点は示唆的だ。リアルなダンスが消え、ヴァーチャルなダンス体験のみがそこに残されるのである。





C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』――構造への解体

  原作を抽象的な構造のレベルにまで解体したのが、C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』である。他の3組がチャイコフスキーの音楽や「白鳥」のモチーフを随所で使用しているのに対し、大植真太郎と児玉北斗はそのような具体的要素は一切用いない。レヴィ=ストロースが個々の神話が内包するより普遍的な構造を明らかにしたように、彼らが『白鳥の湖』の中から抽出したのは、白と黒、善と悪の対比に代表される二項対立構造だ。

  大植と児玉のいずれも、若い頃から海外のバレエ団でキャリアを積んできた踊れるダンサーだが、両者とも最近の主たる関心は「言葉」にあり、この作品でもいわゆるダンスらしいダンスは少なく、もっぱら語りが中心的な役割を果たしている。中でも彼らが意識的に用いているのは、言葉の非在性と行為遂行性だ。目の前に存在しない事物について語り、ある現実を作り出していける言葉――その特性を活かしながら、舞台上の児玉は抽象的な概念について流暢に語ってゆくのだが、言葉を重ねれば重ねるほど、却って言説的に構築されたものの不確かさが露わになるという逆転現象が生じる。とりわけ「ある/ない」をめぐる話は、途中から堂々めぐりになり、言葉の上だけで展開する空論と化してゆく。

  そもそも、強い光に照らされ、空調も切られたホール内は汗ばむほどに暑く、観客の集中力は著しく削がれる。このように身体的に負荷のかかる環境下で、哲学的な引用を含む長台詞の全てを解するのはなかなかに困難で、また作り手側がそれを期待しているとも考え難い。その中で意識化されるのは、発言の意味内容よりもむしろ、話し/聞く身体の生理的感覚それ自体であろう。水で喉を潤しながら、身振り手振りを交えて語るダンサーと、同じく事前配布されたペットボトルの水を飲みつつ、目と耳に飛び込んでくる情報の意味を思考する観客。ダンスの喚起する運動感覚的共感以上に「身近」な身体の交感と同調が、両者の間には生まれている。

  ここで二項対立の話に立ち返ると、『白鳥の湖』にはひとつ面白い特徴がある。それは、白鳥オデットと黒鳥オディールという正反対の特徴を示す2役をひとりのダンサーが踊る伝統が、プティパ&イワーノフ版(1895)以来定着していることである。言説上相対する二項が、ひとつの身体のうちに共存すること――この発想を適用すると、大植と児玉が本作品において言葉に比重を置いた意図が見えてくるように思われる。すなわち、バレエが自律した1ジャンルとなってから西洋舞踊の歴史の中では長らく対立関係にあったこの二項を、いま再び身体を介して結びあわせる――『白鳥の湖』からの着想(インスピレーション)、あるいは妄想(デリュージョン)として、そのような心身二元論を超えた両義的なあり方の実現が志向されていたのではないだろうか。





川村美紀子――主題の変奏

  形式・構造といった外枠に注目した上述の2作品とは対照的に、川村美紀子は『白鳥の湖』の内容面に真っ向から対峙する。主題、楽曲、特徴的振付といった諸要素を自らの世界観に組み込みながら、王子様の到来を夢見ていた無垢な少女が、恋愛に翻弄された挙句、猟奇的狂気へと陥ってゆく物語へと大胆に書き換えたのである。

  自作自演のソロ作品、とりわけプライベートな主題を扱う私小説的な作品は、ともすると独り善がりな印象を観客に与えてしまう危険性を有する。しかし川村は、そこかしこに「醒めた目」を入れ込むことで、個人的な物語を描きながらもこの陥穽にはまることを巧みに防いだように思われる。たとえば、各場面を分割するインタータイトル。‪「王子来たる」‪「白鳥のソロ・コーダ」‬といった‬場面タイトル(と思しきもの)と使用楽曲情報がスクリーンに映写されるが、これらは時間進行を強制的に断ち切るのみならず、しばしばメタ的に作用する。丸めたティッシュ3つと共に踊る‪「4羽の小さな白鳥の踊り」や、黙々と膝で回り続ける「黒鳥の75回転」などがその例である。‬‬‬‬‬‬

  また、一見物語から浮いて見えるダンスも、同様の役割を担っているだろう。王子との出会い、求愛など、心情を表す情緒的なダンスを踊ることが予想される場面で、川村はストリートダンス由来の技術を駆使しながら――踊っていない時の内気な挙動からは想像がつかないほど――パンチの効いたダンスを踊りまくる。様式性の高いその動きの迫力によって、甘いムードは打ち砕かれ、物語は一時的に宙づりになる。

  そして何より、憧れの王子様は、「王子」と書かれた紙を頭に張り付け、赤褌のみをまとった男性マネキンなのだ。笑いには一種の対象化の作用があるが、このように作品のあちこちに散りばめられた「突っ込みどころ」が、“ダンサーとしての川村”が演じる物語を突き放して見ている“振付家としての川村”の存在を示唆し、単なる「私語り」とみなされることを回避している。

  とはいえ、クールなまま終わるわけではない。非常に緻密な構成力と破壊的なエネルギーの共存によって、カオスとコスモスが入り乱れた境地にまで達するのが、川村の怪物たるゆえんである。作品が進むにつれ、観客は舞台上の川村の情念の渦へと巻き込まれていく。床中を水びたしにしながら、絶叫し、転げまわり、マネキンの王子をバラバラに解体していく最終場面には、ただただ圧倒されるほかにない。王子と王女の純愛悲劇として語られるおとぎ話を、ゴシップ誌がかき立てるような現実的で卑俗な男女の恋愛譚へと変奏し、女性の側から見たこの物語の理不尽さを前景化する。その試みは、古典の主題に対して「そんなの美しくなんてない!」と正面から殴りかかっていくような、痛々しいまでのパワーに満ちていた。


共有財産としてのダンス

  ダンスはそのメディアとしての性質上、上演と同時に消失し、演劇における戯曲、あるいは音楽における楽譜のような、作品の同一性を担保する誰もが参照可能な物質的手がかりがほとんど残らない。それゆえ、何を作品同定の根拠とするかは、――C/Ompanyの作品の最後に語られる「これまで見た『白鳥の湖』を想像してください」という言葉が示唆するとおり――もっぱら個人の主観的経験に根ざすしかない。その点において、この『白鳥の湖』連続上演は、観客としての自らのまなざしのバイアスを殊更に省みさせられるものであった。

  『白鳥の湖』というよく知られた古典作品ひとつの中にも、限りなく広がる読みの可能性がある――上に挙げた4つの多彩な挑戦は、私たちの足元に広がるダンスの歴史の豊饒さを実証している。大概の目新しいことはすでにやり尽くされている今必要なのは、その大地を耕して新たな実りを得るとともに、未来に向けた「土作り」を行っていくことではないだろうか。東京で舞台を見ていると、文脈化の試みがなされないまま、ただただ作品が消費され、忘却されていく危機感を覚えることが時折ある。だが――『白鳥の湖』を例に語るなら――後世の多くの演出のもととなったプティパ&イワーノフ版の白鳥と同様、2017年版の白鳥もまた、将来の『白鳥の湖』の礎となるべきものだ。痩せた地では、作物は育たない。未来のダンスの発展のためにも、今のダンスを歴史のうちに組み込んでいくことは急務なのである。

  ダンスをどのように記録にとどめ、共有財産として蓄積し、さらに活用していくか――より視点を広げれば、これはアーカイヴの問題にもつながってくるだろう。だが何よりもまず欠かせないのは、「今目の前のダンス」と「歴史」の関係を絶えず問い直していく個々人の姿勢である。その中で、重厚な名作をお題として提示することで、過去の遺産と主体的に向き合う機会を作り手と観客の双方に提供する「ダンスがみたい!」の試みの意義は大きい。春の祭典、サティ、白鳥の湖……さて、来年は何が待ち受けているだろうか。

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劇内容と形式が幸福な一致を見せた告白劇
藤原央登
劇評家

劇団あおきりみかん『つぐない』
2017年6月24日(土) & 25日(日) 会場 アイホール(伊丹市立演劇ホール)

2017年7月6日(木) ~ 17日(月・祝) 会場 G/PIT
2017年8月4日(金) ~ 6日(日) 会場 池袋シアターグリーンBOX in BOX THEATER

©佐々大助


  名古屋を中心に活動する劇団あおきりみかん(1998年旗揚げ)の作品は、2012年に『湖の白鳥』(池袋シアターグリーンBOX in BOX THEATER)を一度観ただけなので、劇団の作風や変遷は知らない。ただ、本作で5年ぶりにこの劇団を観て、その内容の厚さにちょっと驚いてしまった。他者に過去を告白することで自己が開放され、無意識に抑圧していたトラウマと向き合う。そのことが自身に対する「つぐない」となって生まれ変わる女(みちこ)。女の告白を聞くことが自らの過去を逆照射することになり、殺人を踏みとどまることができた男(松井真人)。共に肉親への悔悟の念に捉われた男女の告白劇は、他者を発見することで互いが互いを癒すカウンセリングのような効果をもたらす。彼らが癒される過程を追うことで、最後には観る者も心が洗われるような気持ちにさせられた。作・演出の鹿目由紀はキリスト教系の学校へ通っていたという。決してキレイ事ではない、内容的な強度を持たせることができたのは、鹿目に備わった活きた宗教観念が込められていたからだろう。
  とある教会の礼拝堂。長年の問いを解決するためにやってきた女が男にした告白は、これまでただの一度も罪悪感を抱いたことがないというものであった。女は過去に遡って、いかにそのような人生を送ってきたかを具体例を挙げて男に説明する(回想時の女は平林ももこが演じる)。小学校5年生の頃、自分の悪いところを書き出す授業で「ありませんと」記して先生に怒られたこと。万引きの現場を彼氏に見つかった高校時代。社会人になってからは妹・咲菜(川本麻里那)の彼氏と浮気し、不倫も経験した。犯罪を含む行為を働いても、彼女は罪悪感を抱くことはなかった。そのことをとがめられる度に、形だけの「ごめんなさい」で切り抜けてきたのだった。罪の意識に苛まれて懺悔に来ている男は、自分とは対照的な女の話にしだいに引き込まれてゆく。そして男は女のケースと比較検討するように、自身が罪悪感を抱くきっかけとなった妹との出来事を想起する。女と男の告白が進むにつれて、咲菜が起こした殺人未遂事件が判明する。女は咲菜の弁護士(花村広大)から依頼されて、事件についての証言を明日行うことになっているのだという。女は罪の意識がないため、かえって相手に罪悪感を強く植えつけてしまい、「無自覚に人を傷つけ」てきた。これが弁護士の見立てによる女の大きな罪である。咲菜を救うためにも女はその点を自覚し償わなければならない。そのように弁護士に諭されて、女は教会にやってきたのだ。


©佐々大助
  女と男の過去、弁護士が女に放った言葉、咲菜の裁判。4つの出来事が想起されるたびに、礼拝堂でその様子が再現される。なお、女と男は自身の心情や、相手・場の雰囲気を過去形で説明する。劇全体が告白の様相を呈している構成が巧みだ。過去の出来事は単に思い出すことから、次第にフラッシュバックするような切羽詰まったものへと変化する。インサートされる過去がテンポとリズムを作り出し、しだいに劇にうねりと切迫さをもたらしてゆくのだ。その過程で、女の抱える心の闇が暴かれる。罪悪感のなさによるこれまでの様々な行動が、実は咲菜のためを思ってのものであったこと。エスカレートする行動は、そうするように咲菜が仕向けたこと。さらに深層心理へと入り込むことで、父親を巡る咲菜とのトラウマが根本的な原因であったことが判明する。小学校4年生の時に離婚した両親の内、父親と暮らしたいばかりに、女は咲菜が母親と暮らしたいと言っていたと嘘をついた。女は父親と暮らし始めたが、1年後に父が急死。再び母元で暮らすことになった。嘘をついたことを悔いていた女は、咲菜に謝罪しようとする。しかし、咲菜は女のしたことを全て知っていた。その上で、今後は一切、その話をもちださないでほしいと咲菜は女に告げる。謝罪する機会を先回りして封じられたショックのあまり、女はそれらの出来事を潜在意識下に押し殺してしまった。それ以来、女は無意識の欲求に従うままに、罪悪感がないという言い訳を作って咲菜に許されるための贖罪を続けてきた。一切を知る咲菜は、女が自らの意に添うように巧みにそそのかして利用してきた。その「つぐない」の一環が、咲菜が起こした殺人未遂を自分がやったと裁判で「自白」することなのであった。女は罪悪感を抱かない人間なのではなく、その人生は罪の意識を感じないように自己を抑圧してきたことが浮かび上がる。当初は、女がいかに特異な人間であるかがコメディタッチで描かれる。だが、全てを了解した後に同じ回想シーンが繰り返されると、水を打ったように笑いが消え、見え方が180℃変わる。罪の意識がなく他者を欠いた自己本位な人生だったのではなく、咲菜に対する子どもの頃の後悔を抱えたまま、卑屈に生きてきた女の苦しさが滲み出てくるのだ。
  舞台の構成だけでなく、女と男のやりとりをはじめ個々の場面のやりとりが非常に丁寧で、不自然で唐突な会話がほぼない点も目を見張った。その台詞の積み重ねが巧みな劇構造を作り、人間の深層心理を暴露してゆく。配置された伏線が回収されてゆく手つきは、ミステリーのような感触を与える。だから、舞台が進んで謎が解かれてゆくほどに観客は作品に引き込まれてゆく。例えば父親の存在が次第にクローズアップされてゆく過程にそれは顕著だ。赤の他人の男に告白をしようと思った理由は、彼とすれ違い様に父親が吸っていたタバコの匂いがしたから。女が咲菜の元彼・飛影(ギャバ、近藤彰吾のWキャスト)とセックスした後に、彼から泣いていると指摘された時、最後に泣いたのは父親が他界した時だと回想する。弁護士から執拗に「つぐない」を要求されても従順なのは、彼が父親に似ていたからだ。女が咲菜の罪を被って救うことができれば、彼女に恋愛感情を抱いている弁護士=父の幸福にもなる。2人が幸せになることが、愛する父と咲菜への最良の「つぐない」だと女は考えたのかもしれない。実際には、女が罪を被らざるを得ないよう咲菜と弁護士が洗脳するように仕向けたのであったが。


©佐々大助
  そんな女が、無意識に深く潜水したことで行き着いた答えは、「わたしは明日の裁判について考えていた。先生(弁護士)がどう思うかは分からない。ただ、わたしはわたしの思ったとおりにつぐなってみよう。今は、そう思っている。」である。咲菜の罪を被ることなく、事件の一切を正直に述べることを決意する。女の決意は、法廷で証言する際の宣誓文-良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない-と二重写しとなる。懺悔の効用は個人を生まれ変わらせるだけでなく、その者が公共の場において良い影響力を与えうることにある。そのことを観る者に説得力を持って伝える見事な場面であった。このように、自己を抑圧してきた原因を見つめる女の過程が、サスペンスフルに仕立てられた巧みな劇構造に落とし込まれている。内容と形式の幸福な一致が、本作の高い水準を支えているのだ。
  女にそのような変化を促したのは、自己を見つめる告白を赤の他人に行ったからである。そのことが、妹への謝罪を封じられて以来、自己の殻に閉じこもっていた女を開放する契機となっている。実は、女自身は気付いてはいないが、すでに彼女の人生には常に一人の他者がいた。高校時代の元カレであり、女と別れた後は咲菜と交際していた貴大(カズ祥)である。貴大は女と別れた後もずっと彼女を心配し、人一倍罪悪感を抱いて生きてきたことを見抜いていた人物である。咲菜と付き合ったのは、貴大との交際を願う咲菜のために女が動いたからである。交際したものの貴大にフラれた咲菜は、彼に復縁を迫る。それを貴大に拒否されたことで、咲菜は彼を包丁で刺してしまったのであった。これが事件の真相である。女が咲菜の罪を被ろうとしていることを知った貴大が、教会にやって来て馬鹿なことをするなと忠告するシーンがある。女はこれまでと同じく「ごめんなさい」と謝るが、貴大は「…それホントっぽいな。」とつぶやく。自分のことは自分では把握できない。他者がどのように自らを受け止めているか、他者の視線を介した自己像を自らに差し返すことで、自分の存在がぼんやりと浮かび上がってくる。それを知ることはまた、自分が社会のどの位置にいるかの指標ともなろう。すなわち他者の存在が、自己を公的な場へと開く契機になるのだ。ずっと女を見守ってきた貴大とのやり取りには、そのことが提示されている。このような効果は、女の話を聞いて自らを相対化してゆく男にも訪れる。彼の妹・聡香(山口眞梨)は男の反対を押し切って洗礼を受け、シスターになった。その理由は神父への恋心のためであった。聡香は神父との恋に破れて自殺してしまう。それ以来、男はもっと強く反対すべきだったという強い後悔と罪悪感を抱いてきた。そして当の相手がこの教会の神父であることを知った男は、3回目の懺悔の今日、それを終えた後に刺殺する計画を持っていた。だが、女の告白を受けて自己を相対化することにより、男は犯行をすんでのところで踏みとどまる。

©佐々大助


  抑圧していた自己を見つめて癒し、最終的に事実を捻じ曲げずに主張しようとする女と、すんでのところで自制した男。本作は彼らの変化の過程を、多くの葛藤を盛り込みながら丁寧に描いた。女にとって事実に基く真実を述べ主張することは、咲菜の恨みを買ってしまうかもしれない。だが咲菜との関係を築き直すためには、彼女への卑屈な思いを断ち切ることが第一歩となる。そのためには、多少の痛みを覚悟の上で真正面から咲菜と正対しなければならない。女が到達した決意にはそのような強い意志がある。これが、隣人愛に代表されるキリスト教の、鹿目ならではの描き方なのだと思う。現在、自らが信じる事柄だけが真実であり、それ以外はフェイクニュースと決め付けるトランプ大統領がいる。日本では森友、加計、自衛隊の日報問題において、「記憶にない記録がない」を連発して、一方通行の不毛なやり取りが国会でなされた。見方や立場によって異なる物事を、軌道修正して補完し、ひとつの真実に近づけようと努める。それが開かれた公の場における議論のあり方にもかかわらず、自身の正当性だけを強調する為政者の姿を我々は見てきた。女と共に観客も心が洗われる気がしたのは、本作がこのような対話なき世界への批評になっているからである。そういう意味でも、本作は2017年の新作公演の中で群を抜く出来であった。
  俳優陣は、屈折したトラウマを吐露する女と男を演じたみちこ、松井をはじめ皆水準が高い。涼しい顔をして姉を利用する川本が演じた咲菜の小悪魔ぶりも印象深い。花村は、ナルシスティックでオーバーな仕草を取り入れて、アクの強い弁護士を造形。強烈な個性で笑い取った。改めて、良い俳優がたくさんいることを感得させられた。冴えていた演出にも触れておきたい。強い風が吹き込んで吊り下げられた電灯が激しく揺れたり、聖歌が流れてミサの雰囲気が訪れる礼拝堂は、様々な貌を見せて変化する。それが、女と男の刻一刻と変わる心理の視覚化として機能していた。

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