演劇都市ベルリン―舞台表現の新しい姿
著者:新野守広
破局の後の壊れた日常
新野守広
(立教大学教授 ドイツ演劇研究者)  

OM-2『Opus No.10』
2019年2月22日(金)〜24日(日) 会場 下北沢ザ・スズナリ


 OM-2の最新作『OPUS(作品)No.10-アノ時のこと、そしてソノ後のこと…-』を見た(2019年2月23日、ザ・スズナリ)。入場すると、まず目に飛び込んだのは、舞台を床から天井まで覆うほど積み上がった段ボール箱の壁である。開演後しばらく経つと、この壁は大きな音とともに崩れ落ちた。破局であろうか。壁が崩れた後には、事務所のセットが見える。事務机やロッカーが置かれ、「アベ政治を許さない」のビラが貼ってあった。こうした日常的なセットが組まれることは、OM-2の公演では珍しい。
 パフォーマンスの力強さは以前と変わらない。今回はさらに、現在の反動的な政治状況をあらためて浮き彫りにしてみせた。日本国憲法の条文が投影され、国会前デモを思わせるシーンもある。個人の存在に徹底的にこだわり、生の深い所で政治をとらえてきたOM-2だが、今回は安倍政権への抗議を舞台に取り入れたのが印象に残った。2008年の『作品No.5』だったと思うが、「プラカードを持って平和運動を行っても、人は被害者であると同時に加害者であることを避けられない」という意味の、具体的な政治行動に慎重な言葉を目にしたことを思い出した。閉塞する状況に覚える危機感は、当時とは比べ物にならないほど強い。 やや長くなるが、公演を振り返る。

 1.崩れる壁
 開場後、客席に入ると、客席最前列に沿って床から天井まで積み上げられた多数の段ボール箱が舞台へ向かう観客の視線をさえぎる。開演後、破局を暗示するかのように、この壁が崩れ落ちたことは、今述べた通りである。
 壁が崩れるまでの間、時間はゆっくりと流れた。一人の男性が壁の前に現れて、中央の椅子に座り、静かに本を読み始める。すると、壁のあちこちの隙間などから、小さな筒が何本も出てくる。客席からは見えない壁の向こう側にいるパフォーマーたちが、筒を通して客を見つめたり、客に声を掛けたりする。段ボール箱の蓋を開けて顔だけを出し、じっと客席を見つめる者もいる。大きな段ボール箱の蓋が空くと、白い下着姿の女性が座っているのが見える。中央の椅子に腰かけて本を読んでいた男性も下着姿になり、観客に背中を見せると、手のひらを背中にまわして、自分の肩甲骨を揉み始めた。
 こうしてパフォーマーたちが、観客の視線を意識しながら静かに動く中、突然、壁が崩れる。大きな音が鳴り響き、彼らの上げる悲鳴が響く。
 
©山口真由子
 静止していた時間が動き始める。どこにでもある事務所のセットが見える。事務机やロッカーが並んでいる。事務所の壁には「アベ政治を許さない」のビラが貼ってある。
 このような日常的なセットを背景にして、複数のパフォーマーたちが、ある時は単独で、ある時は同時並行的に、パフォーマンスを繰り広げる。過去の公演と似たシーンもある。破局の後の壊れた日常を痛烈に示す行為が多い。
 清潔な白い服を着た、やや小太りの男性が姿を現し、中央の椅子に座る。下手奥の壁に、日本国憲法の条文を思わせる語句が投影される中、男性は静かに語り出す-「1949年東西ドイツ成立、1961年ベルリンの壁建設、…私はサラリーマンだった…」。そして彼は頭からバケツをかぶる。内側には小型カメラがセットされているのだろう、バケツの中の彼の顔が事務所の壁にアップで投影される。奇妙に大きなネクタイをしめ、不必要に大きな襟のついた白シャツを着、黒ズボンをはいた4人の男性が現れ、やはり頭からバケツをかぶる。先の小太りの男性はロッカーを開けて中に入る。再びロッカーの扉が開くと、ロッカーの中には彼の等身大の映像が映っており、生身の彼と同じ動作をしたり、別の動きをしたり、さらにはロッカーの扉がいくつも開いて、それぞれの中に彼の等身大の映像が動いていたりする。
 一方、生身の彼は、昨年死んだ父親について語り始める。幼い時に父親から受けた虐待について、身体に受けた暴行について、宮古へのドライブの帰りに蟇目という土地で父親に置いてきぼりにされたことなどについて語るうちに、彼の口調は熱を帯びてくる。上手奥に「憲法改正No!」などのスローガンを掲げた人々が現れ、事務所の外周をデモする。キング牧師の演説などの音声が流れる中、舞台中央の床が小さく開き、白塗りの顔に上半身裸で奇妙に大きなネクタイをした女性が2人、姿を見せる。
 こうして多数のパフォーマンスが同時進行するうちに、小太りの男性は暴れ出し、机の上に飛び乗ったり、机を壊そうとしたりする。クライマックスが近いことが感じられ、熱気が最高潮に達すると思われた瞬間、赤い液体が彼に向けて上から一気に降る。これが合図なのだろうか、舞台上の人々は去り、静寂が訪れる。
 黄色い放射線防護服をつけたパフォーマーが入って来る。防護服を脱ぐと、黒い下着姿の女性が現れるが、冒頭の白い下着姿と同じ女性であろう。日本国憲法第12条の条文が左手奥の壁に投影される。彼女は季節の移り変わりや1本だけ残った銀杏の木などについて語り、聞こえてくる民謡風のメロディーに合わせて、ゆっくり踊ると、静かに立ち去る。作品の副題である「アノ時のこと、そしてソノ後のこと…」とは、東日本大震災とその後の状況であることが暗示されていた。
 最後に冒頭の男性がふたたび現れ、中央に置かれた椅子に座る。破局の後を生きている感触に心を揺すぶられて、終演を告げるアナウンスを聞いた。


©山口真由子
2.OM-2の理念
 同じシーンでも観客に応じて受け止め方はさまざまだろう。この文章も、公演に立ち会った私が自分の受け止め方を振り返った限りで記述である。
 壁が崩れる前、本を読んだり、観客を静かに観察していたりしたパフォーマーたちが、段ボール箱の壁が崩壊する瞬間を境に生じたズレを引き受けて、観客の前で自らを晒しながら共有の可能性をめざしたというのが、私の感じ方である。  彼らの舞台には、たとえば「震災後の日常を表現する」といったテーマがあるわけではない。構成・演出の真壁茂夫は、2010年2月に公刊された著書のなかで、次のように書いたことがある。

(多くの演劇人は)テーマやイデオロギーを作品の根底に潜ませれば、それが借り物であったとしても作品が重層化し、成立する、と考えているのであろう。人間の「核」というものを持たないそんな人たちが創るものなど、どうして金を払って見る必要があるのだろうか。(真壁茂夫『「核」からの視点』p.29より)

 真壁によれば、観客の前に立つ<根拠>は、自分自身の生き方を問うことの中に求められる。たとえ身体と社会のズレを意識しても、これをテーマに掲げて表現活動を行う限り、生き方を問うことにはならない。現代社会の矛盾を個人の人格の乖離から描く優れた戯曲があったとしても、その役柄を演じるだけでは足りないのだ。与えられた役柄を生きることは、作家や演出家を頂点とする権力機構のコマになることを意味する。虚構としての現実という逸脱的な特性をもつ演劇に生の可能性を感じる者が、どうして他人のコマになることで満足しなければならないのか。舞台でこそ、人は資本主義の価値観や欲望をすべて捨てて、個としての存在に立てるのだ。演劇人は、人間の生きていく<根拠>を晒すことを中心として共存し生きていく社会、つまり<「核」を中心に据える社会>の可能性を追求すべきではないか。
 こうした魅力的であると同時に困難でもある理念を実践している集団がOM-2である。その魅力と困難は、誰もが共有できるモデルや規範がありえないところにもうかがえる。

 すべてを捨てていこうとする身体とは、どういったものなのか。(…)その最終的な答えは「分からない」としかいえないし、マニュアルや定型というものは存在しない。もしかしたら「無」や「悟り」の境地のイメージのような穏やかな姿になるかもしれないし、まったく逆の狂ったような姿や凶暴な姿になるかもしれない。それは各々の個人の奥深くを探ることで辛くも表出し続けるものであって、その個人によって全く違う様相を見せるだろうからであり、また、到達地点や最終形がどうあるのかさえも分からないので、「型」やイメージ像を思い描くことはできない。(同書p.97)


©山口真由子
 「型」やイメージ像を「思い描くことはできない」。まして身体技法を作り出すのは難しい。この点で彼らは、白石加代子を生み出し、スズキメソッドを創出した早稲田小劇場とは異なっている。『作品No.10』の後半、机を壊そうと暴れ、赤い液体を浴びる小太りの男性、佐々木敦の姿が印象的だ。孤立した内面に沈潜していたかと思うと、突然「狂ったような姿や凶暴な姿」に振り切れる彼の行為は、「作品シリーズ」が始まった頃からOM-2の舞台の質を決める重要な役割を果たして来た。しかし彼の行為は、白石加代子が体現しているような、独自の身体技法を駆使しているようには思われない。むしろ、毎回のパフォーマンスが危うい均衡のもと、辛くも表出されているという感覚が客席に伝わってくる。極端に言えば、「核」を中心に据える社会が実現しない限り、彼の行為は社会化されないかもしれない。こうした危うさを抱えたまま、舞台上の行為は続いている。
 OM-2は、社会から孤絶した場所に立てこもらない。すでに立てこもった人間の内面を外に向けて開くことが、『「核」からの視点』の構想なのだ。彼らの演劇は、来るべき共存の実現に向けて自らを開く、息の長い活動でもあるだろう。このように社会における芸術活動の矛盾と魅力を一身に引き受けながら、個人と集団の関係をどのように実践しているのか。彼らにとって政治はどういう意味を持っているのだろう。

3.個人のイニシアティブと集団創作
 今回の公演では当日配布のチラシに、パフォーマーでもある制作の金原知輝が下記の文章を載せていた。

 (……)それまでは演出の真壁が、テキストらしきものを持ってきて、それに沿ったかたちで煮詰めて創っていくという一般的な創作スタイルでした。ですが、(2003年に始まる)「OPUSシリーズ」は、テーマなどを事前に決めずに、表現者(俳優)が自分でシーンを創り(セリフや振り、道具や明かりなども)、発表し、参加メンバー同士でそれについて討論します。参加者全員の発言を受けて発表者は、そのシーンを創り直す、あるいは全く別の新しいシーンを創るということを何度も繰り返します。そうするうちにその皆の創るものの中に様々な問題が浮かび上がり、方向性やテーマといったものが徐々に見えてくるのです。その頃に薄っすらと題名らしきものが表れてきます。そして、そのシーンからいくつかのシーンを選び出しそれらを再構成することで公演となっていきます。(……)。(制作 金原知輝)

 参加メンバーがそれぞれ自分でシーンを作って持ち寄り、発表し、討論を行う。他のメンバーの意見や批評を受けて作り直す。この繰り返しを重ねるうちに、はじめて「方向性」や「テーマ」が見えてくるという。
 こうした共同創作の例としては、ピナ・バウシュのタンツテアターがよく知られている。バウシュの場合、まずコレオグラファーである彼女がダンサー一人ひとりにキーワードにもとづく質問を投げかける。ダンサーは質問に言葉や振りで答える。バウシュはダンサーとともに振りを直したり、別の質問を出したりして、対話を重ね、共にシーンを作る。出来上がったシーンが作り直されたり、シークエンスが入れ替えられたり、削除されたりする過程が続く。初日を迎えるまで舞台がどうなるか、バウシュにも誰にもわからない。こうした緊張が公演当日まで続く。あらかじめ公演の題名を決めることは難しいため、新作は『ピナ・バウシュの世界』としか名付けられない。一人ひとりのダンサーのイニシアティブは欠かすことができないが、最終的な創作上の責任者がコレオグラファーであるバウシュであることを疑うものはいない。
 
©山口真由子
 OM-2の場合も、創作過程では同じことが起こっているはずだ。作りながら「方向性」を見つけたり、テーマを示す題名を最初からはつけられなかったりといった、両者共通の特徴のみならず、創作上の責任者が構成・演出家であるという事情も変わらないだろう。
 ところが、真壁の著書も金原も、演出家が突出しないことを強調している。あたかも民主主義の手続きにのっとり、創作の責任は全員にあると言おうとしているようだ。集団内での権力関係を極小に抑えることに、細心の注意を払っている印象がある。彼らにとって政治は、個の存在に徹底してこだわり、メンバー間の対等を強調する姿勢と同義になっているようだ。OM-2の理念を考えれば、こうした主張は当然とは思うが、創作の最終的な責任と決断の所在は、やはり演出に帰せられるのではないだろうか。

4.アベ政治を許さない
 今回の公演で政治的な言葉を取り入れたのは、先の金原の文章の続きによれば、稽古中にメンバーの2人が、偶然、日本国憲法を使ったシーンを作ったからだという。彼らは話し合い、権力者の横暴が生み出す「閉塞感」を認め、舞台に活かす方向に決めた。ここにも彼らの一見民主主義的な創作過程が読み取れて興味深い。
 実際の舞台では、安倍政権の体現する政治によってOM-2の理念が侵害される危機感も表れていたと思う。社会の一人ひとりから発するイニシアティブを根絶やしにする権威主義は、表現活動にとってきわめて危険だ。安倍政権を支える保守派が立法権と行政権を手中に収めた今、権威の名のもとに社会を管理し、逸脱する者を排除する傾向が強くなった。こうしたなかでの『作品No.10』のメッセージは、政治における一党派への反対を表明しただけにとどまるのものとは思えなかった。
 『「核」からの視点』で真壁は、資本主義にせよ、戦争にせよ、社会の価値観と欲望を捨てて個の存在に徹しない限り、貧富の格差も殺戮もなくならないと主張していた。現実の社会生活では、こうした理念的な生き方は難しい。しかし、社会から逸脱した現実である演劇では、困難な道も可能であろう。他者へ向けて開かれようとする信念が、OM-2の実践を支えていると思う。
 演劇は、社会の中で疎外された人々に光を当て、その孤立や病むことのつらさや悲しみを観客と共有する可能性を持つ。そのためには、各自のイニシアティブから生まれて来たものを創作の源泉にしなければならない。こうしたOM-2の集団創作は、個人と社会の関係を捉え直すことを観客一人ひとりにあらためて問いかけている。


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SNS社会へ出立する卒業生への贈り物
藤原央登
(劇評家)  

座・高円寺 劇場創造アカデミー 9期生修了公演『犬と少女』
2019年2月22日(金)&23日(土) 会場 座・高円寺1

  なんとなくつながる社会。それが21世紀の我々が生きる社会である。TwitterやFacebookといったネットメディアを通して、その感を強く抱かされる。そこは誰が何を考え何をしているのかが、日々報告される空間だ。フォロー数や友達が増えると、こちらがフォローしてもいない第三者の動向までもが「お知らせ」されてくる。そういった一切が煩わしくなると、膨大なツイートや書き込みが暴力的に感じるようになる。一方、つながりの内部へと積極的に踏み込めば、SNSのネタのために出かけて写真をアップしたり、他者の膨大な言葉の洪水を受け止めるべく、脅迫的なまでに常にチェックする必要性に迫られる。SNSという見えないシステムに日々の生活が促され、知らず知らずの内に行動が制限されてしまうかのような感覚にすら陥ることだろう。
 日々上演される舞台では、しばしば開演前と上演後の舞台撮影がOKであることがあらかじめアナウンスされる。カーテンコール時には、それらを感想と共にSNSで発信し、宣伝することも推奨される。ある人はその通りに写真や感想を発信する。また発信しないまでも、他の人がどのように舞台を観たのか、該当の作品を検索して確認をする。そして、感想に共感すればリツイートや「いいね」をすることもある。当然、創り手はそれらの感想を積極的に「拡散」することを通じて、自身の作品がいかに盛り上がっているのかをアピールする。このようにしてつながりの共同体が広がってゆく。その輪は一見ユルく見えるのだが、つながっていること自体を公共にアピールするために、そこに参画していない者を排除する内輪意識の強さを感じたりもする。そのことを痛烈に感じるのは、例えば共感とは真逆の、ある舞台についての罵り合いに出くわすといった時だ。ユルくつながることが魅力だったはずのSNSが、つながりの内部だけでどんどん凝固的になる。この時ほど、参加しなくて良かったと思うことはない。とまれ、かつて演劇はその場で消え、限られた人数だけで楽しむ蜃気楼のような芸術だった。しかしネットのデジタル空間を通して、広く容易につながりの共同体に組み込まれるようになったのである。
 重要なのは、劇場で何を観て何を感じたのか。たとえそのように思ってSNSで舞台を検索したり極力タイムラインを開かないように努めてはみても、頭の片隅ではどのような発信が行われているのかが気になる時はやはりある。SNSに積極的に参加するにせよ忌避するにせよ、一度知ってしまえばどのような身の処し方をしても、結局はSNSに捉われてしまうということだ。SNSはゆるやかなつながりを生むのではなく、ゆるやかな監視意識を個々に植え付けると言えようか。とはいえ、こういった状況を今さら監視社会と断罪したところで始まらない。便益と拘束を同時に与えるSNS社会に、我々はどっぷりと身を置いているという現状があるだけだ。そのことを前提にして、身を処していくしかない。


©宮内勝
 座・高円寺の演劇研修所である劇場創造アカデミー。その9期生修了公演は、まさにゆるやかなつながりとそれ故の監視にさらされた人間の現状を劇化した作品であった。劇場創造アカデミーでは長らく、エドワード・ボンド『戦争戯曲集 三部作』を修了公演の演目にしてきた。今回は劇場創造アカデミーのカリキュラム・ディレクター、生田萬の「ほぼ30年ぶりの書下ろし新作」である。
 父親を事故で亡くし、母親は会社の上司と浮気中。自身を取り巻く環境ゆえか、いらだちを抱えながら生きているアキラ(大谷莉々)。それを社会に示すようにケバいメイクと服装をまとった彼女は、ひょんなことで出会った犬(牧凌平)を唯一の友としている。アキラはある日、一組の夫婦から失踪したウニオという息子を捜索してほしいと依頼を受ける。ミッションは、息子が会いに来るはずだという女の家を監視すること。そこから展開される劇世界は、生きる実感を抱けないアキラに見合っている。すなわち、虚実の境界線が揺らぎ、内と外がどこまでも入れ子となる世界である。そしてそれらが、最後には混然一体となる不思議な世界でもある。
 監視対象者とは、母親がおらず父親と暮らしているアリカ(河原舞)。赤いワンピースを着用したアリカは、落ち着いて清楚な雰囲気だ。家族構成と見た目がアキラと正反対である。それだけではない。下手側のアリカの家は、畳敷きにちゃぶ台のある和室という、典型的な昭和の家。生活感があるアリカの家に対して、アキラが張り込む上手側のアパートの部屋は、何もない素舞台。アキラとアリカの対比は、人物造形だけでなく空間構成にまで及んでいる。さらにこの対照性が、彼女たちの関係だけでなく劇世界全体にまで及んでいる。最も印象的なのは、重要なモチーフとなっている犬であろう。アキラに付き従う犬に対応するのは、アリカにとっての父親(竹田茂生)である。当初、アキラは父親の世話をかいがいしく行う善良な娘として描かれる。母親代わりの役割を娘が担う昭和の家庭として、主人=父親、奴隷=アリカの会話が展開される。しかし劇後半、彼らは年の差夫妻であり、父娘ごっこを演じていたことが判明する。穏やかながら威厳を感じさせる父親が、アキラに首輪をつながれてSMプレイに興じる。主人と奴隷の関係がひっくり返るこのシーンは、どちらが主で従であるかが変則的であることを示す。


©宮内勝
 主人と奴隷の可変性が、最終的にアキラとアリカの関係に差し戻される。つまり二人の女が、同一性と差異を内包した一人の人物であることが示唆されるのである。ラストシーン。アリカの家を訪ねたアキラが、赤いワンピースを着る。そこにネクタイを締めた男が帰ってくるが、その人物はアリカの父親ではない。なんと、それまでアキラに付き従う犬であったウニオ(牧凌平)である。何の違和感もなくアキラが彼を迎えるあたり、彼らは夫妻なのだろう。その姿から平凡な妻を想像させられるアキラを、スマホを手にした俳優たちが近づく。そんなアキラの姿がスクリーンに大写しになって幕となる。
 演劇との対比を示すように、家を出て高円寺の町を歩くアリカを尾行するアキラの映像を、舞台上に椅子を用意した俳優と共に観るシーン。あるいは鬱々とした想いを爆発させるように、ダンスをしながらアキラとアリカと犬とがなんとなくつながるシーン。入れ子になった世界で自分探しの旅をするアキラが、最終的に現実的なつましい生活へと収斂する。それなりに幸せな生活を送っているが、それ故に、退屈さを抱いて外の世界を夢想する貞淑な若妻。舞台で起こったすべては、そんな女性が想像力を羽ばたかせて見たひと時の夢であったのだろうか。いやそうではなく、スマホで撮影される幕切れが示すように、それとは真逆の状況に置かれた人間を描いている。
 あらゆる物事がネットでつながるIoT社会の波は、今後ますます日常生活の中に進駐してくることだろう。それに伴って我々の興味関心や行動が、大手ネット企業によってビッグデータとして収集される。それを基にネット企業は、ユーザーの興味関心に沿った広告や商品を的確に「おすすめ」してくる。個人のプライバシーが知らず知らずの内に利用され、その上、次なる行動が誘導されてしまう。卑近な例で言えば、身内だけの悪ふざけとしてSNSにアップした動画が「バイトテロ」として拡散され、民事訴訟を負わされるニュースが定期的に報道されている。たいていの者は、身近な仲間とつながることからSNSを始める。何かを発信することが即、自らに跳ね返る刃となる事態を招いてしまうのは、いつまでも限られた知り合いしか見ていないという、閉鎖空間にいるような錯覚を起こさせるためだろうか。この辺に、誰が見ているのかが不可視なユルくつながるSNSの罠がある。いずれにせよ、平穏な生活であるが故の自分探しという牧歌的な事態はとうに去り、四畳半的な昭和空間であっても、デジタルによるつながりと監視からは逃れられないこと。本作のラストは、まさに昨今のネットと人間を巡る状況が描かれている。なんとなくつながる物語、アキラとアリカ/犬とウニオが同一人物のように仕掛けられているのも、我々がSNSに代表されるつながりと監視にさらされた社会に生きていることの謂いなのである。観る者を煙に巻くような相対化と幻惑性を貫く作品だが、それでいて確かな実感を私が抱くのは、それが理由なのである。


©宮内勝
 その実感を最も確かにさせたのは、先に触れたアキラの変身である。黒い口紅が印象的なケバケバしいメイクをアキラが落とした時、それまでの攻撃的な印象から、誰か分からないほど地味な顔つきへと変貌する。アキラとアリカが一体であることを、最も劇的に表現した瞬間であった。2人はどちらも主であり、恣意的に入れ替わることが可能な関係なのだ。複数のアカウントをSNSで使い分けるように。もちろんアキラの変身に、虚構を設える演劇の核心があることは言うまでもない。アキラとアリカ、そして俳優自身の人格。3すくみの関係を体験した俳優は、役を演じることがどういうことなのかが突き返されたに違いない。アキラの変貌が見所だったのは、役を伴って舞台に立つ俳優の生理とSNS社会を生きる人間の生態が重なって見えたからであった。
 パンフレットによると、9期生で最後まで残ったのはアキラを演じた演技コースの大谷と、映像を担当した舞台演出コースの久世直樹の2人だけだったという。全てがアキラへと収斂する物語が示すように、本作は彼らのために創られたことが了解される作品であった。アカデミーを卒業して社会に出る2人にとって、今がどういう時代なのかを身を持って体感させる本作は糧になるに違いない。他の役は卒業生によって担われた。父親を演じた2期生・竹田茂生の、アリカに虐げられて悦ぶ犬っぷり、サ行がうまく言えない外国人ウェイターを演じた3期生・石橋和也のおかしなキャラクターも光っていた。


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