前衛劇もしくは前衛演劇とは、今ではあまり使われなくなった言葉かもしれない。この言葉が誕生したのは、政治的前衛と芸術的前衛が合致したロシア=ソビエトだった。次に前衛劇が注目を集めたのは1960年代後半の欧米である。これを新しい前衛=ネオ・アヴァンギャルドと呼ぶこともある。
 日本では、1920年代に登場した村山知義らが美術やダンスの側から演劇を越境するかたちで、アヴァンギャルド運動が展開された。だが1930年代になると、この種の傾向は衰退し、日本で復活するのは1960年代のアングラ・小劇場運動の登場を待たねばならなかった。つまり近代リアリズム批判を共通項とした世界的な演劇の革新運動が、1960年代後半という歴史的土壌の中で全面的に開花したのだ。
 「アングラ演劇」の中でも前衛劇を率いたのは、寺山修司、鈴木忠志、太田省吾の3人だろう。この3者が揃った画期的な演劇祭が開催されたことがある。1982年に利賀村で開催された第一回利賀フェスティバルである。富山県の秘境地に広がる空間や時間を利用した同フェスは、まさに前衛劇の饗宴と呼ぶにふさわしかった。寺山の『奴婢訓』、鈴木の『トロイアの女』、太田の『小町風伝』はいずれも彼らの代表作だが、これらが一堂に会すことで、前衛劇の幅と多様性をアピールすることに成功したのだ。のみならず、このフェスに参加したロバート・ウィルソン、タデウシュ・カントール、メレディス・モンクらと競演することで、日本の先端的な舞台は世界と伍して十分闘えることを立証した。これが「前衛劇の饗宴=競演」たる利賀フェスティバルであり、前衛劇が語られた最盛期だといっても過言ではない。
 それから30年代経って、状況は一変した。80年代は小劇場がブーム的活況を見せたが、実験的な演劇は次第に遠のいていった。代わって、「エンターテインメント」という言葉が重用され、消費社会が色濃く投影されるようになった。90年代にはダムタイプや解体社などを除くと、小劇場は「静か」になって冒険せず、保守化していく傾向を強めた。ゼロ年代以後、現代演劇はサブカル(チャー)化し、小さな箱庭の中の実験にとどまり、社会への挑発性を失っていった。これは演劇だけの現象ではなく、芸術や文化全般の傾向であろう。総じて現実や社会を批判する力を持ち得なくなったのである。
 前衛劇は、一般的に考えられるように、難解で実験のための実験といったものではない。あくまで演劇とは何かを問うた「演劇論を内包した演劇」であり、現実と踵を接した表現の革命なのである。したがって狭義の20世紀演劇とは、前衛劇を軸に展開されてきたのであり、その大きな山が20年代と60年代にあったと言えるだろう。その非連続の中に、現在の可能性が探られているのである。
ではその火種はどこにあるのか。
 2000年代になって、前衛劇が集結した競演が開催されたことがある。2002年に端を発する「ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド」がそれだ。このフェスティバルでは、ドイツの20世紀最後の劇作家と呼ばれたハイナー・ミュラーの戯曲作品が多くの演出家によって実験上演された。同じテクストを使っても、演出次第で上演の形態はまったく異なる。そこからテクストと上演、身体と演技、劇場と社会の関係が探られていった。
こうした本質的な演劇を問う活動は、当然のことながら同伴する観客が必要であり、批評もまたこのアクティヴィティと共犯関係にあるのだ。90年代後半から開始されたフィジカルシアター・フェスティバルやアジアとの共同創作を行なう「アジア・ミーツ・アジア」などもまた重要であり、ある意味でそれらの延長上に、前衛劇のムーブメントはあるのだろう。そう考えてみると、消えてしまった線を歴史的に再発見していくことが、今後の大きな課題になるに違いない。
 前衛劇とは、今ある現実をつねに批判し、現在の演劇を自明なものとせず、解体=創造することから始まるものなのである。