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三宅昭良 アメリカ文学   
超サイボーグ・フェミニズム宣言――小池博史の《新・三人姉妹》

小池博史ブリッジプロジェクト『新・三人姉妹』
2019年5月16日(木)&17日(金)@三鷹市芸術文化センター 星のホール

  2019年5月17日、小池博史・作《新・三人姉妹》を観た。2012年5月にパパ・タラフマラを解散すると、小池は「小池博史ブリッジプロジェクト」を立ち上げた。宮沢賢治シリーズと《マハーバーラタ》の制作を大きな柱とし、最近ではこれに《世界会議》が加わっている。これもシリーズ化するのだろう。そうした雄大な活動を見渡すと、今作は二義的位置づけの小品とみなされるかもしれないが、それは間違っている。《新・三人姉妹》は、MeToo運動に見られるごとく、いかなる女性観をもつのかという今日もっともアクチュアルな問題のひとつに対する彼の回答だからである。

 《新・三人姉妹》はチェーホフの有名な作品を現代日本に置き換えた翻案である。チェーホフ劇は19世紀末ロシアの貴族社会の崩壊期に、零落する家族の希望と絶望を舞台化した群像劇だが、小池版は21世紀初頭の日本を舞台にした中流階級の三姉妹の夢と現実、愛と反発、希望と失意を交錯させた悲喜劇である。といってもチェーホフ劇の筋や登場人物のほとんどは排除されている。焦点は三姉妹に絞られ、彼女たちの大まかな設定だけが原作と対応している。一女は婚期を過ぎても独身のまじめな女性教師であり、二女は奔放なところのある性格で、三女は恋にあこがれる、姉たちに対抗意識をもつ少女、いや、少女というには彼女を含め、三姉妹とも原作より年長に見える。彼女たちは地方都市に住み、モスクワならぬパリにあこがれを抱いている。

 舞台はしかし猥雑で、ユーモラスで、ときに挑発的でさえある。何もない空間に椅子が三つおかれている。その中を三人の役者/ダンサーが文字通り縦横無尽に踊って歌って、叫び、笑い、喜び、嫉妬し、そして踊って踊って踊りまくる。その踊りは、バレエを基本にしているが、バレエのように天上を目指して軽やかに重力を超えようとするそれではない。三人とも見事なダンサーでありながら、むしろ重力という名の現実に引き戻されて床に倒れこむかのように、踊る。いうなれば、バレエの脱構築、パリ・オペラ座の脱構築である。


©Hiroshi Koike
 何体かのフランス人形が舞台に持ち込まれ、椅子や床に座らされるのだが、あか抜けない服装の姉妹たちが旋回するたび、床を転げまわるたびにスカートがめくれ上がり、大きく長いズロースが丸見えになる。その様子は幼女のようでもあり幼女の遊ぶ人形のようでもある。彼女たちは現実と夢の交錯した世界を生きているのだ。

 音楽と歌もダンスと同様である。シャンソンが流れたり、現代音楽が流れたりするなか、ときにはア・カペラで、三人は自在に歌う。とりわけ三女の福島梓の歌が圧巻であった。しかしそれらは商業ベースのショーの音楽や歌とは違い、聴衆をメローな甘美さに引き込む体のものではない。舞台に流れる音楽の底にはかすかに哀切感が感じられ、歌にも、元気な合いの手からもうっすらと寂寥感がただよう。舞台後半で彼女たちが衣服を脱ぎすて黒い下着姿になるときも、その姿態は男性客の眼を楽しませる種類のエロティシズムではなく、レスリングのコスチュームを思わせさえする。だから男の欲望を誘うような仕草をしても、キャバレーのレヴューのような妖艶さをともなわない。そして闇のなかで三つの電球を身体に這わせたり、振り回しながら観客を見つめたりするダンサーたちは実存としての深淵を観客に突きつけて挑戦的である。それは男性の視線をうつす鏡としての肢体を擬態するにもかかわらず、その対極にある。いうなれば、ムーラン・ルージュの脱構築である。


©Hiroshi Koike
 舞台を乱舞する三姉妹は仕事のためか理想の男性を検索してか、盛んにパソコンのキーボードをたたいた挙句、何度も倒れこむ。その反復的瓦解を観ながら思い起こしていたのは、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」である。ハラウェイは電子工学とバイオテクノロジーがもたらすフェミニズムの理想をサイボーグのイメージに仮託して現代社会の価値観脱構築の夢を語った。しかし役者/ダンサーたちはすでにして強靭なサイボーグである。アスリートに比肩する身体的な強靭さもさることながら、表現力の幅と深さにおいてサイボーグ的に強靭である。小池が「宣言」を読んだかどうか知らないが、彼ならきっとこういうだろう。すなわち、電脳空間や遺伝子工学と結託する前に女性は身体の強靭さの可能性に満ちている。その開発こそがまず重要である。身体感覚を研ぎ澄ましてこそ、サイボーグへの道は開ける。

 そうかもしれないと思う。そうだと思う。ただしそれを訴えるのに《三人姉妹》が適切であるのかどうか。舞台を疾走する強靭なダンサーたちの身体をもってしても、現状は何も変わらないと示唆しているかに見えてしまうからだ。