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テント芝居・野外劇の現在形
劇場という“箱”の中での上演が当たり前になりつつある現代において、今なお劇場から離れてテント芝居・野外劇を行う試みが続けられています。元々、演劇の発祥は野外劇から始まったと言われ、テント芝居・野外劇を省みることで画一化されつつある現代演劇を突破する鍵が見出だせるかもしれません。今回、演劇研究者の梅山いつきさんにこれまでのテント芝居・野外劇について振り返って頂き、現在も精力的に野外劇を継続している「椿組」の外波山文明さんにご自身の活動について語って頂きました。ほか、同じく野外劇などの活動を行っている「演劇集団風煉ダンス」の劇評も掲載しました。

【劇評】『まつろわぬ民』風煉ダンス2017
東北百鬼夜行絵巻を 大江戸先住民が観る
平井玄 批評家

1952年、東京新宿2丁目生まれ。1968年を高校生として体験した。音楽をはじめ文学、思想、政治、映画ほか、無作為に書き乱す「非正規批評家」。映画『山谷やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、アンダークラスの運動をサポートするなど、社会と表現の界面で動いてきた。著作に『ぐにゃり東京』(現代書館)、『愛と憎しみの新宿』(ちくま新書)、『彗星的思考』(平凡社)などがある。

©添田康平

 私はほとんど「まつろっちゃっている」。
 なんだか変な言い方だが、「まつろわぬ」の反対語としてここは許してもらおう。このオカシナな変化形の古語は「まつろふ」だ。これは「服ふ、順ふ」。服従であり従順。だから「まつろっちゃってる」私は、社内や校内の規則に、社会や世間の常識におとなしく従っていることになる。さらその起源は「奉る」に遡る。古くは「はふむしも大君に奉(まつら)ふ」と日本書紀の雄略紀にあるらしい。つまり「這う虫」たちが雄略天皇を奉る(たてまつる)ことだ。およそ5世紀後半、「大悪」と呼ばれたミカドは朝鮮半島に攻め上り、半島に内通する近畿の豪族を征圧する。それから1500年余り、ある朝目覚めると私は「這う虫」になっていた!?
 「まつろってないよ」と言う人もいるだろう。怒り、叫ぶ。その感情は自分のもの。国会前広場でラップし、ステップを踏むことだってできるぜ。誰かと共に酒場の暗がりで謀(はかりごと)さえしなければねー。そうやって私の感情にはオートストップがかかる。千代田の杜を背にした議事堂前の歩道で、私たちはみんな「AI自動安全車」なのである。
 この『まつろわぬ民』はたぶん、木村友祐の小説『イサの氾濫』を読んで飲み屋で涙にむせた白崎映美が酔いにまかせて「まづろわぬ民」を歌い上げ、それを聴いていた林周一がこれまたバーのカウンターで風煉ダンス一党と「演るしかないぜ」と謀った結果ではないか?

 この舞台の主人公は「ゴミ屋敷」である。白崎映美はじめ魅力的な役者たちには礼を失するが、このことは彼女/彼ら自身が舞台の上で感じていたことだろう。人間たちは黒い山塊から生えた手や足なのである。大道具や衣裳が生きて動くモノの演劇だ。
 小山のように積まれた大量の黒い布袋にツタが這い回り、間道や洞穴が縦横に抜け、頂きには小屋が載る。放射性廃棄物を詰め込んだフレコンバッグと、ステージを見つめる誰もが気づく。その漆黒のマッスに脳を抉られる。感じやすい心じゃない。福島の浜通りに延々と連なる黒い袋の映像を、私たちは頭蓋骨の奥深く凍結してしまい込んできたからだ。
 あの黒い山が毎日毎日ひたすら増殖し、袋が破れて臓物が飛び出して動くように、廃棄物が関東平野を這いながら近づいてくる。海岸を埋める膨大な袋をドローンで撮った映像を視てしまった眼は、そういう妄想を抑えられない。黒い塊は生きている。現地では低濃度のそれを圧縮処理するプラントが試作されているが、いずれ気化し、粉塵となり、液状になっても、魑魅魍魎として跋扈する。高濃度の廃棄物はどうすることもできない。植物の細胞に沁み透り、動物の遺伝子を誤配線するだけではない。メルトダウンした原子炉の底を進むロボットを操るICチップスを錯乱させてしまうのである。
 百鬼夜行である。この物語を生きる東北の民が「鬼」と呼ばれる由縁だ。この一族の城となったゴミ屋敷を攻めるのが、1200年前の坂上田村麻呂が率いる5万の軍勢であり、今の福島で土木工事に駆り出されたクレーンとトラックの大集団である。「復興」と名づけられた封じ込めの攻撃なのである。真っ黒い袋に閉じ込められた長い時間が逆巻いて、それを阻もうとする。行政に撤去されるゴミ屋敷の主である老婆の名は「胆沢スエ」。坂上田村麻呂が攻めた蝦夷の砦が陸奥国の「胆沢城」。全編を通して「東北弁」で語られるミュージカル劇というのは初めてではないか。ほんとうは「東北弁」なんてないのだろう。これは架空の共通語。アフリカのスワヒリ語に近い。各地の山間や谷沢、盆地や港の言葉遣いを合成して創られた人工言語みたいものだ。あらゆるところにモノとコトバの仕掛けがある。時空の巣窟を飛び交う東北百鬼夜行絵巻を充分に愉しんだ。

 想像された古代とリアルタイムの現代を貫通させる物語はじつは危ないのである。ハーケンクロイツの神話もアマテラスとミカドの信仰も皆そういう欲望が生んだ兇悪なスペクタクルだ。多くの知者がそんな幻影に惑わされる今、ステージに積まれた「黒い袋」の物質感がそれを許さない。「まつろっちゃってる」自分に黒い鬼たちがムズムズと這いよるのである。私はイシュマエル・リードの綺想小説『マンボ・ジャンボ』を想う。そこでは踊る肉体のリズムが読む者を震動させて、古代アフリカ幻想への没入をブロックするのである。
 「前衛」への渇望を喪って20年。大江戸先住民を装って新宿2丁目の暗がりからローカルなテーマばかりを掘ってきたが、前衛はテクノロジーの界面やピュアな抽象空間だけにあるわけではない。台湾の「海筆子」などにも含めて、ローカルなアヴァンギャルドが生まれる予感を感じる。


次回公演
演劇集団 風煉ダンス『まつろわぬ民 2018』
2018年11月15日(木)&16日(金)
場所:三鷹市公会堂・光のホール
作・演出:林周一 共同演出:笠原真志
出演:白崎映美 伊藤ヨタロウ 反町鬼郎 リアルマッスル泉 ほか