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今求められる「ハムレットマシーン」
今、ハイナー・ミュラー代表作の「ハムレットマシーン」の機運が高まりつつある。演劇史上最も上演困難な作品の一つと言われた本作は当時の演劇界に多大な影響を与えたが、それはどのようなものであったのか?そして、閉塞を続ける現在の演劇界において「ハムレットマシーン」は改めてどのような意味を持つのか?「ハムレットマシーン」研究者・批評家・翻訳家を含め4名の方に語って頂いた。


過去/未来からやってくる亡霊HM?
谷川道子 東京外国語大学名誉教授 ドイツ文学者

ブレヒトやハイナー・ミュラー、ピナ・バウシュを中心としたドイツ現代演劇が専門。著書に『娼婦と聖母を越えて----ブレヒトと女たちの共生』、『演劇の未来形』など。訳書に『三文オペラ』(ブレヒト)、『汝、気にすることなかれ』(イェリネク)、『指令』(ハイナー・ミュラー)、『ピナ・バウシュ----怖がらずに踊ってごらん』(シュミット)他多数。

OM-2:「ハムレットマシーン」©OTTO


 来春3-4月に「ハムレットマシーン・フェスティバル」があるということで、本誌でも応援したいから翻訳者として何か書いてもらえないかという執筆依頼をartissue編集部さんからいただいた。そのこともほとんど初めて耳にしたので、私としてはどういう立ち位置に立てばいいのかと戸惑っている。この『ハムレットマシーン』(HM)の亡霊はどこからやってくるのだろうと…。

 一九九三年に書かれた自伝『闘いなき戦い』を故ハイナー・ミュラー(H・M)は、お気に入りのブレヒトの『ファッツアー』の台詞「亡霊はかつては過去からやってきた/今では未来からやってくる」でしめくくったが、今や過去と未来は混然一体なのかもしれない。H・MとHMは、私にとっては大事な存在なので、素知らぬ顔もできないが、お呼びでもないのにお呼びでしょうかとしゃしゃり出る訳にもいかない。今の若い世代にはどういう存在なのかと気になりつつ、そうか来春に「ハムレットマシーン・フェステイバル」があるのかと感無量でもある。そんなこんなの揺れる思いを、おさらいもかねて、それなら少しだけ書かせて頂こうかと・・・

 ブレヒトの逝去(一九五六年はスターリン批判の年である)に入れ替わるように東ドイツ演劇界に登場したハイナー・ミュラー(H・M)だったから、ドイツ演劇研究者としては気になってフォローはしていた。「ブレヒトを批判することなく継承することは、ブレヒトに対する裏切りである」と公言しつつ、ブレヒトの精神で東ドイツの生産現場を描きつつけていたH・Mは、60年代には党や国家上層部の批判や軋轢、上演禁止処分、作家同盟からの除名を受けるようになり、それでも翻訳者、台本製作者、改作者として上演の場との接点を探り続け、70年代からは東西の国境を越えて受容され、80年代後半からは世界の演劇シーンでも触媒や台風の目のような役割を果たしてきた。そのことがまさに自在に壁を越える、壊す人、「越境者」「境界居住者」とでもいうべき眼差しとスタンスを創ってきたのだろう。その象徴が、たしかにHM=『ハムレットマシーン』であった。

 一九七七年に西ドイツの演劇雑誌「テアター・ホイテ」誌十二月号に、ベケットとアルトーの特集に挟まれるように掲載されたわずか三頁弱の極小のテクストHMは、象徴的かつ鮮烈な‹事件〉で、一体これは何なのだと驚かせるに十分だった。私もその謎にはまった一人で、とりあえず試訳/私訳してみたものだ。聞くと、東ドイツフォルクスビューネでのベンノ・ベッソン演出のため『ハムレット』の翻訳改作上演台本を依頼され、それは一九七七年に初演され、『H・Mテクスト集』にも納められている。それと並行して「鬼っ子」のように生まれたのが『ハムレットマシーン』だったという。「三〇年間、『ハムレット』は私にとってオブセッションだった。だから『ハムレット』を破壊しようとして短いテクスト『ハムレットマシーン』を書いたのだ」と。

      折しも一九七六・七七年にはシンガーソングライターのヴォルフ・ビアマンが市民権を剥奪され、ミュラーも加わった抗議声明が無視されるという事件が起こり、東ドイツからの作家や知識人の西ドイツへの亡命移住もあいつぎ、このHMにもH・M自身の東ドイツで置かれていた状況も色濃く反映していた。

 HMは東ドイツでは上演どころか出版もされなかったが、西側ではいわば〈謎の塊〉として独り歩きしていった。1978年西ドイツケルンでの初演計画が挫折して、なぜ挫折したかが一冊の本になった。一九七九年にはパリでジャン・ジュルドイユ演出で初演された後、一九八六年にはアメリカの「ポストモダン演劇」の騎手ともいうべきロバート・ウイルソン演出によるニューヨークでのHMは、パリ版、ハンブルク版と続いてHM上演伝説の頂きをつくりつつ、他にもあまたの世界の演劇人たちを挑発していった。

 そして、HMからH・Mへ―一九八八年には西ベルリンで市制七五〇年祝いで二二日間の「H・M作品ショー」、八九年には東ベルリンのドイツ座でH・M還暦祝いの集い。そして一九八九~九〇年はまさにドイツ政変の時だった。このとき東デルリンのドイツ座で、H・Mはシェイクスピアのミュラー台本『ハムレット』と自作の『ハムレットマシーン』を合体させた『ハムレット/マシーン=H/M』の演出稽古中だった。劇団員こぞって東ドイツ民主化のうねりに加担しつつ、八九年十一月にはホーネッカー国家主席退陣と「壁」の崩壊をもたらしたが、一九九〇年三月一八日は東ドイツ初の自由選挙の日で、H/Mの初日でもあった。選挙は西ドイツ政府と結託したCDUの勝利で一挙にドイツ統一=東ドイツ消滅へと向かっていった。

 H/Mのメイキング映画を創ろうとしていたクリストフ・リューター監督の映画は、「関節のはずれた時代」というH/Mとドイツ政変のドキュメント映画ともなった。H+HM=H/M…?そういう状況の中で、五~六月には、には西ドイツフランクフルトで一五年ぶりに再開された「エクスぺリメンタ6」はH・M一人を一七日間にわたって特集、九一年夏のアヴィニヨン演劇祭では「H・Mの事件」という特集が、九三年にはバイロイトでH・Mが『トリスタンとイゾルデ』を演出して話題になった。そして劇団ベルリーナー・アンサンブルBEの劇場監督まで引き受けることになったH・Mは、自作とブレヒトのコラージュ『決闘 トラクター ファッツアー』演出の後、九四年秋に喉頭癌の手術を受け、九五年戦後五〇周年を期してブレヒトの『アルトゥロ・ウイの抑えることもできた興隆』を演出、大喝采と大成功で「BEの抑えることもできない興隆」の合図かとまで絶賛されつつ、一九九五年暮れの十二月三十日、H・M逝去。


OM-2:「ハムレットマシーン」©田中英世
 さて、日本でのHMにも触れておこう。一九八五年の「ユリイカ」誌に掲載されたHMに触発された演劇批評家の西堂行人が、演出家鈴木絢士や劇作家岸田理生に、アメリカ演劇研究者の内野儀とドイツ演劇の私の四人に呼び掛けて一九九〇年初頭に始まったのが、「ハムレットマシーン・プロジェクト」、後に「ハイナー・ミュラー・プロジェクト」のHMP。折しもH・Mが「時の人」になっていく過程と重なったが、演劇実践と研究の場を連携させつつ、世界演劇との接点を探ろうという気概や良し、ながら、H・Mは日本ではほぼ無名、ドイツ語ができるのは私だけ、という勝手無謀な企て。内野氏の英語版情報にも助けられながら、岸田さん宅で毎月研究会を重ね、秋には国際ゲルマニスト会議IVGでH・Mその人が初来日し、HMPの何人かで帝国ホテルまでインタビューに行ったり、岸田理生さん宅で夜明けまで皆でパーティしたり、千田是也師に、岩淵+越部両先生とも交えて、六本木の桝ずしでH・M歓迎会をしてもらったり・・・九〇年秋にはイタリアの劇団イ・マガジーニがHMを来日公演、一二月には池袋スタジオ200で太田省吾氏を招いて、「HMは可能か」というHMP主催の〈トーク、ビデオ、パフォーマンスによる実験劇場〉を開催。H・Mその人に頼んで送ってもらった映画やビデオがやっと間に合って届いたり、薄氷の思いの一年だった。

 それからも、幾多のシンポジウムにミュラー作品の翻訳、上演、随時HMPの機関紙「HMは可能か」を刊行しつつ、H・M文献としても、七〇年代までのH・M作品を収めた早稲田大学出版会の『ゲルマーニア ベルリンの死』の後を引き継ぐ作品集を、未来社から三巻本による『ハイナー・ミュラー・テクスト集』として出すことになり、私は幸いにしてというべきか、一九九三年秋から二年間、ウイーン大学客員教授派遣が決まっていて、教えつつも大学業務などからは解放されるので、ウイーンに居ながらH・M三昧ができることとなった。H・Mの舞台がかかればベルリンに飛んでいけたし、上演台本や劇評が欲しいというとH・Mさんは、いつも何とか手配してくれた。HMPの面々もH・M観劇旅行に来独したり・・・

 H・Mさんの訃報は一九九五年の帰国後に知ったのだが、再会のたびの満面の笑みや篤い握手に暖かい抱擁を思い出して、しばし涙にくれた。でもHMPはそれで終わったわけではなかった。九六年春には「ユリイカ」誌で大部な特集が組まれ、つづいて清水信臣、岡本章、鈴木絢士等々の日本の気鋭の演劇人たちによる「テクスト・パフォーマンスとH・Mの対話」シリーズ、九七年には黒テントの佐藤信演出HMのアヴィニヨン演劇祭に同行、九八年には岡本章が「現代の夢幻能」としてのHM、等々。二〇〇〇年春にはパリでのHMシンポジウムに参加、九九年の静岡での第二回シアターオリンピックには、開催委員の一人だった故H・M関連の行事がドイツの演劇人レーマンやシュトリヒによるH・Mゆかりのシンポジウムや舞台写真展、ビデオ映画祭等々。実はこれらはもう殆どHMPを離れた活動であったのだが、H・Mの支援者でもあった演劇研究家ハンス=テイース・レーマンは1999年に『ポストドラマ演劇』という現代演劇の変容をより大きな関連とスケールでとらえようとする話題の大著を上梓し、世界的な反響を巻き起こしていた。H・M現象もその中でとらえるべきかと思った私は、若い研究仲間とその共訳作業に2002年の同学社からの刊行まで没頭、刊行時にはレーマン氏を学振で招待して、各地で世界の現代演劇の変容についてのシンポジウムなどを展開していくこととなっていった。

 その後のHMPとしての活動について付言すれば、2002年に金沢市民芸術村で「国際演劇祭ハイナー・ミュラー・フェステイバル」。2003年には、「ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド」という国際演劇祭が18劇団によるそれぞれのさまざまなH・M作品競演として開催された。半月余で18公演というのは、原理的にもすべて見るのはほぼ不可能な日程で、このときに、d倉庫やdie platze などが会場となって、韓国や中国の劇団も加わって、準備やアフタートーク設定などの中心となって活躍してくださったのが、OⅯ-2の真壁茂夫さんであられたのだと思う。この演劇祭の総括論集なども出そうという話もでていたが、そのうち立ち消えになってしまって、HMPは代表の西堂氏おひとりがひきついでおられるのか。真壁氏は、この十余年、世界各地でOⅯ-2のHMを上演し続けてこられたのだという。そして年齢体力的にもそろそろ限界なので、来春三月で最終公演になさると。その後を新たな10劇団を募って、日本の前衛演劇の核を創ってくださるのだろうか。

 私自身は、H・Mその人をはじめ、太田さんや岩淵・越部さんなどゆかりの方たちの多くが故人となられ、先述のように「ポストドラマ演劇」関連の研究に次第にシフトチェンジし、あまりに曖昧雑多に大きくなったHMPの活動にはついていきがたく、H・Mはどこにいったのかという思いもあって、むしろ2003年に他界した岸田理生さんの「偲ぶ会」が「リオ・アバンギャルドフェスティバル」を毎年開催するようになり、H・Mの刻印をも遺す岸田理生のテクストや仕事を相手にそれぞれがクリエイティブ・コモンズのような共同作業を展開しているようで、運動論としてはそこにHMPの理念がひきつがれているような気がしていた。

 そういうなかで突然に聞いた、来春に「ハムレットマシーン・フェスティバル」が開催されるという話。H・MではないHMなら、ハムレットHが共通項の下敷きとなっているから、10劇団グループによるHM競演フェスが生起するだろう。H・MのHMについてもここで語ろうと思ったが、それはそれぞれの参加団体で考察・工夫してくださるだろうことだ。過去/未来のいずれからHMのどんな亡霊が立ち現れてくるのかは、私の方が楽しみにさせて貰おうと思う。