Special Interview Vol.002 

Q 演劇をやろうと思ったきっかけは何ですか?

僕は、「何かの舞台に感化された」とかいった理由はなくて、あえて言えば「身近に演劇があったから」です。
演劇を始める前から「何かを表現したい」と思ってはいたけれど何から手をつけていいかわからなかった。そんな中、いつの間にか「表現したい」が「表現しなければ!」っという強迫観念みたいなものに変わってきたんです。何かしないと自分の存在価値がないように思ったんでしょうね。
ただ、僕はその強迫観念のような、欲求のようなものが、演劇を始めたきっかけになったんだと思います。
多分、自分を誰かに認めてほしかったのかもしれませんね。

Q 「とりととらは玉邑浩二の戯曲を上演するために作られた」と説明されていますが、玉邑さんにとって戯曲とは何ですか?

A その説明は、訂正しなければならないんです。
 
“とりととら”で上演するのは「僕の戯曲」というより「僕の言葉」と言ったほうがいいのかもしれません。
 
当初は、戯曲をやろうと思っていました。もちろん今でも戯曲をやりたいとは思いはありますが、僕自身、戯曲というものよりも今は、もっと広い意味の言葉自体に関心があるような気がします。
 
なので説明を訂正しなければならないんですが、ってそんなことはどうでもいいですね。

Q 「玉邑さんの言葉を上演する」とは?

A 簡単にいえば、戯曲という形式に囚われないということです。
 
そもそも戯曲という形式があるのかもよくわからないんですが、僕は特に、台詞劇などをやりたいと思っているわけではなく、詩や小説、散文など、形式はなんでもいいんです。
 
ただ、僕の口から出てくる言葉や、僕が書く文字を上演したいと思っています。

Q では、玉邑さんにとって言葉とはなんでしょうか?

A あくまでも作家としての立場で言います。
 
言葉を言葉で表すのは難しいのですが、あえていうなら“安心”と“不安”です。
 
説明すると長くなるので要約しますが、言葉は自分で話した瞬間に自分の言葉ではなくなると思うんです。相手によって言葉の受け取り方が違うように、です。
 
もちろん相手がいなくて、独りでも、言葉を言った瞬間に自分に返ってきます。
 
簡単に言ってしまうと言葉を言った後、その言った言葉を言った自分が客観的に見てるような気がします。
 
自分の言葉なのに口から出した瞬間に他人の言葉のように感じるのは不思議です。
 
そこに自分はいるのか、いないのか、わからない感じです。
 
不安だけど安心するような。そういうところに引かれて、言葉を使って何か表現できればと思っています。

Q 最後に今後どうしていきたいか、教えてください。

A 今後、とりととらは、“演劇”ではなく“パフォーマンス”になっていく気がします。
 
実際、どうなるかわかりませんが、現時点では演劇だけをやるつもりはないです。
 
ただ一緒にやりたいと思う俳優やダンサーの方とずっと公演ができれば本望だと思っています。
 
あと、死にたくないので長生きしたい。
 
その他は特にないです。
 
野望もありません。

本日はありがとうございました。今後の活躍も楽しみにしております。



とりととら『風景』
M.S.A.Collection 2009 参加作品
5月3日(日)&4日(月・祝)15:30&19:30
作/演出|玉邑浩二 出演|木引優子(青年団)・芝博文・飛田美紀・百花亜希 照明|taki 音響|齋藤瑠美子 音響オペレーター|楠瀬ゆず子 舞台美術|森聖一郎 舞台監督|吉村二郎
「私」とは何なのか。人は日常で色々なものを見て常に何か考える。それは止まることがない。その中で「答え」といわれるものを探し見つけ出そうとする。人によってその答えは「わからない」と言い切ることかもしれない。もしくは「考えない」ようにすることかもしれない。しかし「答え」とは一体何か。「考える」を軸に、「答えを出す」ということを否定し続ける作品を創る。
www.geocities.jp/toritotorahp/
問|toritotora212@yahoo.co.jp