新人シリーズ7受賞者

新人賞/柴田恵美
オーディエンス賞/
GUELL

●新人賞審査委員:
志賀信夫・西田留美可・坂口勝彦・竹重伸一
Katja Centonze・田中信壽・加納星也

2009年度1月にdie pratzeで行われた新人シリーズ6の受賞者は上の2団体となりました。


新人シリーズ7講評


総評

加納|■審査にあたっては次の点に留意した。既存の新人ダンスの作品評価としては、まず作品総体の良し悪しより、ダンサー自身が踊れるか、何処の出身・流派であるかが加味される傾向がある。今回の基準としては、そうしたダンスの本質にはあまり関係ない事柄を全く無視する事も考えたが、ひとまず既成のコンクールや観客に認知されている要素を考慮にいれた上で再整理し、できるだけ作品総体の評価を浮かび上がらせる方法を考案した。まず①ダンス(だが決して舞踏でも、バレエでもない)作品として成立させられる作家的な能力。次に②ダンサー自体の実力(魅力)。そして独自に今回、一等賞の特典がもう一度単独公演演という事なので、 ③以上の2つの基準におさまらなくても、再度舞台で見たい、今は未知数でも、是非次はやってくれそうだという新人賞ならではの期待度、を選考するにあたり大きな重点を置いた。
それは、審査の最終目的が賞を取ること、すなわち舞台のチャンスをつかむ事により、今は隠された才能が、に大いに飛躍するであろう新人を発見することにあると考えたからだ。審査にあたりかつて違う舞台でみたりした自称“新人”でも全く過去の経歴・作品の印象や評価を持ち込まないよう心がけた。ただ、目前にある舞台で起きたこと以外、何ものの関与も極力排除し、できるだけ新鮮な目を毎回、観客席の定点に備えて、出来うる限り公正な審査をしたつもりだ。
■結果として、新人賞・オーディエンス賞とも、おそらく見ていただいた観客の皆さんの反応と審査員の総意も概ね落ち着くこころに落ち着いたと思う。最近のダンスの傾向として個々のダンサーの技術レベルも平均的に上がり、ダンス以外の舞台効果も含めた総合的芸術としてのダンス作品を志向する作品も多くなった。このシリーズにおいても、その傾向はかわらず、舞台美術・映像・衣装・音楽・演劇的構成など、多くの舞台効果を狙ったもののも多かった。        
その中にあって、新人賞をとった柴田恵美の作品はソロでほとんど無音・素舞台で踊るというコンセプトで貫かれた非常に困難だが、身体表現の本道をいくものだと誰もが納得できるものだろう。もちろん、作者は、それを底支する的確な技術をも持っていることは言うまでもない。それに対して多くの目撃者は心を動かされたのは当然であろう。
総じて、作品レベルも平均的に上がったと言いたいところだが、それ以外の作品には、この時、この場でしか見られない“新生”のキラメキを感じらとれる作品は希少だった。その中でも特筆すべきは、オリジナルな振りで観客を幻惑した原田有里子。予測不能な二足歩行クララの存在感、前納依里子のゆるぎないパへの挑戦。るるる♪ホームずの脱力系“ダンスのコンビネーション。寺田未来のエンターテインメントぶり、終止ミニマムな動きで構成されたcode20xx、の作品であった。
無論こうした意見と全く違う印象を持つ方もいるだろう。それは当然、多くののダンス作品が提示されれば、それに対して個々の審査員の意見があるのは当然だし、多くの観客の皆さんもそれぞれが独自な視点を持つ。当然、参加者の皆さんも、評価を待ち、それを確認する自由もあれば、それを全く否定し無視する自由もある。そうした自由を踏まえたうえで以上の評を提示したい。
また、このシリーズが「自称・新人」と標榜し、これからもその発掘を模索していくなら、現在の評価、経歴やダンスのカテゴライズに関係なく、常に新しい才能を持って、既成のダンス概念を覆すほどの挑戦的な参加者を待とう。それまでは、こちらも挑戦的な観客代表としての目を研ぎ澄まし、これからも実践していく事を宣言して、このシリーズの挑戦的な新人審査員としての総評の結びとしたい。

●A;1月7日(水) 「舞踏に短し。ダンスに長し」
   前半の発表会的ダンス時間のものたりなさと、後半の舞踏イベント時間の飽和感に落差を感じた。これを制したのは、意外にも照明・音楽に無頓着なシンプルでユニークな身体であった。
●B;1月8日(木)「日常的身体という落とし穴」
   モダンは日常的身体と切り離せないが、これが舞台上で、何世代にも渡って反復、継承、上演されると、もういい加減21世紀。そろそろ旧世代と違ったアプローチをするクレバーな新人の登場が望まれる。
●C;1月10日(土) 「好きな伴奏音楽に得意な振りという甘えの構造」
   踊りやすい音に、踊りやすい振り付けに踊りやすいスタッフ。しかし表現において、こうした身内の安心さは、時として緊張のない後ろ姿を身内でない観客に露呈することになる。そこで際立ったのは、的確な技術とキャリアをもちながら自身を無音と無謀な空間に投機した存在であった。
●D;1月11日(日)『ドラマや科白の中に自分さがしのダンスは見つけられたのか?』
   奇しくも3組が実際にせりふやドラマがあるもの。残り1組も実際に科白や言葉がないもののドラマ性を強く内在させる作品だった。そのどれもが、ドラマ的な部分では評価は確かに可能だが、果たしてダンスという観点からはどうであろう。しかも自分だけの身体表現行為というところから遠く離れた、ありふれた自分探しの弁明ではないだろうか?
●E;1月13日(火)『ポストモダンは蘇るか?その落とし所は何処に?』
   一時期、現代ダンスの救世主ともてはやされたポストモダン。昨今この信仰もやぶれ、評価も曖昧なまま、時代は流れ、早や21世紀も1ディケード近くも経て。その落とし所はお笑いからパフォーマンスまでバライティに富む。この辺できちんと見直す目と口と振りが必要になるだろう。ポスト・モダン再評価!
●F;1月14日(水)『舞台美術や暗転多様、スモークのショー的要素のハシゴは作品の質や表現と如何に関係しているのか』
   最終日には、ダンス作品の最近の傾向。その負の面が強く感じられた。何と4組中3組が舞台上にハシゴがおかれ、舞台効果を狙ったものが多かった。誰もが思いつくどこかで見た演出では、未知に向かう新人と名乗る意味がない。大ラスの作品が唯一、生身の感動が見られるかと一打逆転を期待したが、この組の大きな流れに負けたのか?凡打だったのが残念だった。




Katja|今年の1月7日から19日まで行なわれた『ダンスがみたい!新人シリーズ7』は、日暮里のd-倉庫の劇場で毎晩満席だった。
このようなイベントでは、主に東京系に限って、日本現代ダンスの潜在能力を見ることができる。特に日本現代舞踊史の特異性、あるいは舞踏とコンテンポラリーダンスの深い関係がたびたび浮かび上がってくる(例えば、金野・高崎・古波津、遠山)。また、演者側の舞台意識への強い性格も現れた。さらに様々なダンス様式が垣間見えた。
はやとんぬ。。は『I respect the will』でスコットランドの民族舞踊からヒップ・ホップまでを踊り、伊東祐輔では『In a cell ~サイボウダンスより~』でジャズダンスの構えが知覚させられ、code20xxの作品では幾何学的な完全な均整が形成されていた。
私の所見によると日本ダンスの特徴のなかでは静かに踊れること、身体のやわらかさ、軽さ、空間と身体という関係があると思う。例えば運動神経が発達しているダンサーの中では秦真紀子、恭和、植竹素子、丹羽洋子を挙げたいと思う。
特別な感性をもった作品としては「しゃべる女」であると思う。テーブルで座っている三人の女友達は日常会話をしながら、他の二人はきちんとした振り付けを上演した。その二人の踊りに磁気のように引き付けられるテーブルで座っている三人のうちの一人が、踊る二人に加わり三人で流暢に絡むようなコンテンポラリーダンスとコンタクトのシークエンスを演じた。予想できる単純な構造であっても飾り気がなく直線性と直線美で身体と言葉の関係を語りつつ、現代社会の若い女性の消費主義と思想の平準化に対し、浅くても批評眼が現れていると感じた。
楽しいユーモアで演じた作品では寺田未来である。彼女は言葉とダンスの組み合わせと均一化する消費社会に対しての早いモノローグで示していた。この場合は演劇の要素とオリジナルの踊り方が現れていた。
注目すべき振り付けに関しては前納依理子の『Ubiquitous…~0/1 Syndrome~』の技術が素晴らしかった。ビデオと踊りの組み合わせも面白くて、肉体の自律性が浮かび上がってきていた。
疑いもなく柴田恵美の能力は高い。長時間カンブレの姿勢を続けて舞台に入り、身体をコントロール、足首の力と柔軟性をみせた技術は明らかにずば抜けている。
一番因習を打破する作品は「るるるホームズ」であった。このディコンストラクション的なパフォーマンスではミニマルな振り付けと音響が特徴であった。




田中|今回から場所を神楽坂から日暮里d-倉庫に移して始まった「新人シリーズ7」。このシリーズに参加した新人と観客にしてもおそらく初めての劇場であったろう。神楽坂よりも一周り大きなd-倉庫は、特徴として左右よりも奥行きが深くなっており、正面のアルコーブの上にも別の空間が存在しているので観る側にとっては遠近感の錯覚に陥るようにできている。逆に正面は観客席の急斜面が聳えており、出演者自身が背負っている空間とは全く逆の空間と対峙し、その特異な空間と戦わなければならない。今シリーズの殆どの新人が持ち時間の中で光を放ちその空間を忘れさせてくれたのは、身体が動いていて尚且つ振付・構成のアイデアが機能したほんの瞬間だけで、それ以外の振付・構成のアイデアが機能していない時間は、単に身体が舞台に存在するだけだった。新人の拙いアイデアや若さゆえの身体能力だけでは、約30分も観客を飽きさせずに踊り続けるのは非常に困難だろう。作品の演出・構成上や景転換の場面に於いて、既成の動作や静止で晒される身体性を再度見つめ直して欲しい。意味付けのないまま素で歩かずに、息を整える為だけに静止せずに、その身体に沁み込んだ動作を再度疑って欲しい。新人だから“当然と言えば当然”とは敢えて言いたくはない。事実、新人賞とオーディエンス賞を受賞した柴田・澤田と他数組は上記の身体性を持ってやり遂げているのだから。今回のコンクールに限らず、ダンスによって観客に伝えたいと思っているであれば、振付・構成のアイデアも大事だが、自身の語彙で内なる身体性をもって表現することを一番に考えて欲しい。




AGroup 1.7(wed)

菅原さちゑ 『シビレ』
志賀 舞台を中央で二つに分ける三つの光が縦に並び、音楽に合わせて光の強さが変わる。上手手前で黒い衣装で顔を隠して一人踊り、下手奥にたたずむ一人。この構成が惹きつける。何か生まれそうだけど、生まれない。それでもこの美的な感覚だけで、強く印象に残る。


加納 ○冒頭のリズムセクションにシンクロするランプ明かりが秀逸。デビッド・リンチを彷彿させる耽美的イメージ。黒い頭巾をかぶった不吉な手の様相とバイセクシャル・イメージ。ダンスは脱構築的。
×肝心なダンスに発展性がない。額縁は豪華だが、全体として半端なクラブ・イベント的なものに終わっている。
★時には、大舞台的な手馴れたダンスを放棄してみる冒険も。。


田中 3本の照明スタンドを縦一列に並べて点滅させながら、1人の私は倒れたり身を捩ったりジーンズを脱いだりしても、もう1人の黒衣の私はラストに並び立つ以外は何もせずに奥に佇むだけで動きは見せない。どちらの私も共通しているのは顔を隠していることだが、首から下が違う2人の私の相違を表現したと言うよりは、逆に相違点の項目を提示していただけで、そこに核心めいたものが存在したとは見えなかった。しかし、覆面同様に作品コンセプトに覆われていた私の存在自体も、残念ながら動くと消えてしまうが、立ち姿だけは何かを孕んでいた。


山崎麻衣子・渡辺久美子 『ワルツ』
志賀 バレエのワルツで始まり、テクニックはかなりあり、踊りをよく見せる。そして演歌のワルツ。ワルツつながりで全体を構成するのは面白い。ただ、タイトルに「ワルツ」を使ってしまうところはちょっと残念だ。


加納 ○特に一曲目の若さ舞踊手の溌剌さが好感。モダン(ポスト・モダン)の振り付けをかちっとする良い面が見えた。大舞台でもそこそこ見られる実力。
×構成が発表会レベル。3曲目の演歌に至っては、全くダンサーの身体性と合っていない。むしろ因習的なモダン(ポスト・モダン)の悪い面が見えた。
★優等生をたまにはやめて、くだらない遊びもの表現には吉。


金野泰史・高崎俊・古波津拓也 『源々囁』
志賀 ジャンベ、パーカッションの二人と舞踏のソロで構成される舞台。アスベスト館に学んだ金野は強い身体を繊細に使い、見応えのある動きを見せる。冒頭の静かな動かない登場から激しくなるまで、視線をそらさせない。ただ、前半が終わって、踊るような踊らないような曖昧な動きから、後ろ向きになって佇み、次の景が始まるのだが、このつながりにちょっと違和感があった。音楽とともに盛り上がるという感覚も、一度ひっくり返すといいかもしれない。以前から見ている踊り手だが、成長が著しいと感じた。


加納 ○冒頭から生ドラム・ジャンベの迫力と鍛えられた身体が魅力。舞踏的な肢体が躍動する。
×最初の躍動感にくらべ、後半の静寂ポーズは腰くだけ。舞踏的にも鶏イメージからの発展がない。クラブ・イベントの典型となってしまった。
★あのいい体じゃ、そんなに簡単には倒れまい。倒れるのは振りだから?なら、倒れるまで踊ろうホトトギス。


田中 鍛えられた素晴らしい身体を持ってはいるものの、四肢だけが動いているだけで胴体が踊っていない。肩関節・股関節と胴体を繋げる筋肉や靭帯に連動性が感じられず、逆に筋肉が邪魔をしているのかのようで、五体全体で踊っているようには見えなかった。連動性が感じられないのは肩関節・股関節だけではなく、その先の肘関節・膝関節も同様で、しなやかさが全く感じられなかった。踊るために作り上げた身体ではなく、肉体美を見せるために身体を作り上げてないだろうか。その筋肉が踊りの妨げになるようでは、何の意味も持たなくなってしまう。そして一番重要なことは、彼はナルシシズムを制御できていないことだ。鍛えられた身体は存在するだけで十分なのに、更にそれを誇示しようとするナルシシズムの穴に落ちている。格好良く見せる必要なんて全く無いし、格好良く踊る必要なんて全く無い。自身を作品に正直に晒して欲しい。


二足歩行クララ 『Bildungsroman~流れをつくるものが門を開く~
志賀 金髪に裸身で一見、舞踏家のような雰囲気だが、舞踏ではない。本人も舞踏を学んだり、舞踏を踊ろうと思って始めたのではないという。かなり手足を細かく動かし、マイムやストリートダンスなども混ざったような独特の動きは面白く、そのバリエーションも多彩。ドラマティックな一曲で通して踊って物語性を出そうとするのだが、自己陶酔的要素が強まりすぎではないだろうか。


加納 ○冒頭半端な曲スジから叙情的なバレエチックなパを変形させた舞踏(武術)?がつづく。肉体ではなく繊細な動きが魅力。その原点がわからない故、奇妙な吸引力がある。逆に音・光・観客に媚びない強さがある。
×曲が変われど、身体の技はかわらず、脆弱。時間長いし最後の挨拶ダンスだか盛り上がりのない照明は何だか理解不能。
★勘違いもあるかもしれないが、突進あるのみ。自己流なおよし。


田中 彼も上記の今野同様に自身の身体的なナルシシズムの穴に落ちている。加えて自身の踊りに対してのナルシシズムの穴にも落ちている。ダンスは観客とのコミュニケーション・ツールであって、ダンサーが一方的にカタルシスを得る手段ではないはずだ。観客側が心を動かしていない状況で観客席に入るのは、まるでライヴでノリの悪い観客を煽っているようで余りにも冒険すぎる。コンクールに対しての意気込みが強すぎたのか、その身勝手な高揚感とアドレナリンだけが印象に残ってしまった。彼だけに限った訳ではないが、男性ダンサーがナルシシズムの穴から這い出るのには相当の覚悟と時間が必要だが、そこから抜け出せない限り友人以外にダンスで何かを伝えることはできない。


BGroup 1.8(thu)

前納依里子 『Ubiquitous…~0/1 Syndrome~』
竹重 舞台の壁三面に白いマスクが10個程飾られていて前納依里子を終始見詰めている。白いマスク自体はダンス作品でも良く使われるツールではあるが、ここではすべてを0/1に還元しようとする現代のデジタル社会の中で自分の存在までもが匿名の記号として扱われることへの怖れをシンプルに表したものとして強いリアリティーを獲得していたと思う。しかし暫くの逡巡の後、結局前納はマスクの一つを顔に着け自分も匿名の存在の一人であることを受け入れて再び踊り出す。この辺りの展開が心理的には良く表現されているのだが、動きとしてはモダンダンスの線的なボキャブラリーを超える彼女独自のものを見い出すことができず、肉体自体が影を持たなかったことがこの作品の説得力を弱くしていたと思う。だが非常にしなやかで美しい筋肉を持ったダンサーである。今後肉体を一つのカタマリとして捉えることを意識して欲しい。


志賀 白い仮面をいくつも配した舞台に黒い衣装で、モダンダンスの正当な動き。ポップな映像が映りそれに絡むなど、展開は面白いのだが、仮面を付け踊りだすと、その動きのパターンが見えてしまう。また仮面を使うと、「もう一人の自分」とか「内面」といったわかりやすいテーマ性を出してしまい、ちょっとマイナスではないか。


加納 ○人形振りを支えるオフ・オフ・バランスの素晴らしい身体、ゆるぎないパへの挑戦。面をかぶった時の佇まいの対比が面白い。ここに次のステップの手ごたえを感じた。壁にかけた白い面が利いている。
×せっかくの身体イメージの定着が、暗転の多用さと映像使用によりかえって消すことに。落としどころが凡庸なのも気になる。
★少ない要素でも、もっといける。深くじっくり。あせらずに。これから長い


田中 踊る技術は相当高いし、確かな表現力も持っている。時として意表を突く動きも見せてくれたが、
肝心の彼女自身の言葉が身体から醸し出てきていない。それが自身で分かっていたからこそ、プロジェクターを使用せざるを得なかったのではないだろうかと穿ってしまう。そのプロジェクターもミスが多くて照明とも合わない場面が多過ぎて、逆効果になっていたのでは意味が無い。作品も手垢にまみれたモチーフを単純に引用しただけで、これではかなり辛い。技術は他のダンサーよりも何倍も持っているのだから、自身が観客に一番伝えたい主題に自身のダンスを投影することを考えて欲しい。そして自身のダンスを作品に投影する時に、幾度となく湧いてくる疑問を大切にして欲しい。


原田有里子 『はなし、しよう ぎゅっとして もっと、ぶって 目覚めたいから』
竹重 観客の方をしつかりと見据えて舞台中央を支配したグラジオラスのように華やかな原田有里子の肉体の記憶が今でも強く残っている。彼女は自分の肉体を無意識ごと客体として晒す勇気を持ち、それによって皮膚を通してエロスを空間に瀰漫させるというなかなか教えることのできない踊り手として貴重な能力を既に身につけている。テクニックとしてはアラベスクなどバレエのものが目立つのだが、動きに決して抽象的な線に還元されない独自のもったりとした感覚がありそれが彼女の肉体固有の時間を感じさせる。作品としてみれば原田が今まで学んできたテクニックと彼女の表現したい内容にかなりの齟齬があるのと、肉体の空間把握能力の未熟さのためにまだ何とも摑み所のない茫漠とした印象に止まってしまったのは確かだが、原田にはお上品で貧血気味の今の日本のダンス界に欠けている毒の匂いがある。その毒を今後優雅に育てて欲しい。個人的には舞踏に向いた資質を感じている。いずれにせよ感性的にも身体性の面でも既にオリジナルな世界を持っているとても可能性豊かなダンサーである。


志賀 横たわったときに体をよじるのだが、太股が印象的。表情などにコケティッシュさを感じさせるキャラクターには魅力がある。音楽と微妙にずらして踊る意識と、バレエ的に伸ばしたときの体の柔らかさ、訓練された動きを外した動きを敢えてつくるところが面白い。意図的なのか、素で踊っているのか微妙にわからないところが、何か期待させる存在だ。


加納 ○意表をつく無防備な室内着。かと思うと当然、床に転がり足をばたつかせる展開。視線と関係性。一見天然で粗野な振り付けに才気が走る。技術を隠蔽した上での不安ニュアンスの表現が抜群。
×下手すると半端なコスプレ系行為ダンスに見えるかも。確信犯的な動きに好き嫌いが分かれそう。
★唯一の脚挙げの飛び道具をオリジナルなものに変えてみては如何。


田中 その感覚と才能は輝きを放っていたものの、それを賞賛と共に受け入れる感情と演出のあざとさ故に拒否する感情とが入り混じり、落ち着かない複雑な心境になった。根本的には踊れる身体ではないから、そのアイデア以外に訴えるものは無いのが一番の問題で、逆に身体が確固たるものであれば、当然ながら審査員賞の対抗馬に成り得たろう。


遠山尚江 『幸せの導火線』
志賀 ただただシンプルに踊るという印象で、身体から何か伝わるものがあまり感じられなかった。自分を見つめて、自分でしか踊れないというエネルギーを貯めるといいのではないか。ある意味、もっとナルシスティックになってもいいかもしれない。


加納 ○正統的なポストモダン的試みをきちっとやっている。地味だが、やっている事の確信がある。
×やろうとすべきダンスと衣装、照明、音楽の選択が違っている。特に照明が暗すぎて一番核心のダンスが残念ながら感じられない。
★誰かにみてもらうのもいいかも、ソロダンスでも決して孤独である必要はない。


Guell 『UNDERBLACK』
竹重 私が新人賞に推した作品。舞台奥のバルコニーの上を石川健次郎が上半身裸の背中を向けたまま下手の端から上手の端にほとんど気付かない程極めてゆっくりと横歩きで移動していく間、下の床では黒いスリップ姿の女性三人のユニゾンが振付した真ん中の澤田有紀を軸に幾何学的な三角形の構図を維持しながら展開していく。結局この作品で一番記憶に残ったのは動きとしては一番シンプルな石川の肉体の生理的な存在感であり、一見様式的な作りの中にエロティシズムが隠れたモチーフとして潜んでいたように思われる。女性達の踊りは床からあまり離れず、硬質だが脆くどこか捩れた澤田個人の身体性が他の二人にもよく浸透した空間的な緊張感の高いもので、石川の肉体のじりじりした艶かしい感覚との駆け引きはとてもスリリングだった。問題は最初は絵柄として頭に浮かんだのかもしれないが、結果的に精神的な意味でも男性と女性の間に支配・被支配の構図を作ってしまったように見えることで、この点に関しては澤田個人の内面的な所から再度考えて欲しいと思う。そのことがこの作品がある種の息苦しさを与えることと関係しているように思えるので。


志賀 この新しいd-倉庫は、奥の黒壁の左右にアルコーブがあり、壁は天井までなく、途中までで蓋のある箱のようになっている。この上に上半身裸で後ろ向きの男が立ち、下手から上手に横にゆっくりと移動する。これが舞台の最後まで続く。下で三人黒い衣装で女が踊る。腰を落とした低い姿勢でよじった形を中心に踊りをつくる。意識的に負荷をかけて踊り、暗い照明と上の男と下の女性たちのコントラストが空間を演出する。緊張感もある舞台は面白いが、このよじった姿には、演出以上に身体そのものへの負荷を感じられなかった。完成度も高い魅力的な舞台なのだが。


加納 ○冒頭の床に微速で転がる舞踏的な動きの女性3人と正面の舞台壁に上った半裸男性(時間の経過を表示)の構図はきれい。ダンサーは3人ともソリストとしても踊れる実力。
×全体的なつくりは上手いが、どこかで見たダンス作品のいいとこ取りで、オリジナルな感動が伝わらない。床から立ち上がった3人の踊りに統一感がなく即興性の悪い面がみえる。これでは、3人(+1)で舞台を作っている意味を感じ得ない。
★作った部分とつくらない部分の検討を。参加者全員でしてみよう。


田中 彼女達の輪郭の強さによる残像は、そのフォルムと相まって重量感が感じられる程残り、それが舞台上に分泌された粘液のような跡を残していた。身体能力を活かした強靭な踊りでありながらも、内面的なものが空間のなかでやり切れない虚しさと憤りの感情を突き上げてくるようなダークなエネルギーが感じられた。が、何と言っても今回の公演に於いての一番の鍵は、アルコーブの上でタイム・キーピングしていた石川を配置したことだろう。この半裸背中の石川が舞台上の濃密な重い雰囲気を救っていた。このコントラストが作品全体に命を吹き込んでいたと言っても過言ではない。今シリーズ中完成度が最も高く、新人賞に推した作品である。難を云えば澤田のソロが、群舞のテンションのままソロに入ってしまったことか。そこは一段テンションを落としてから再度テンションを上げていくべきだし、レベルの高い注文ではあるが、妖しい肉感的な躍動感にやや欠けていた感がした。逆にエロティシズムに頼らずに、これだけのダークな部分で踊れる力量を持った若手ダンサーはそうはいない。これからも期待したい。


CGroup 1.10(sut)

恭和 『HA GU』
志賀 シーツのような大きい布を床に広げた状態、そのなかで踊りだす。さらにそれを使って踊る。体と布だけで踊ろうという意識はしっかりしており、十分見せる舞台だが、ものを使うと、ものに使われてしまうということも考えてみよう。ソロでものを使う場合は、徹底してその対象に入りこむ、自分も物質化するような意識を持つと、ものにも意味が出てくるのではないか。


加納 ○最初の鐘の状況音がある雰囲気がいい。始めの一歩が印象的。布を変化させ踊りのアイデアはいい。小さくまとまった身体と民族的舞踊の旋回が特徴的。
×舞台に敷かれた白い大きな布は、体に巻きつけたところでコンセプトが終わっている。躍動的な体を生かせていない。
★布が、大地になり海になり人になり塊になっていく一般観客に伝わる表現力を。もっと違う表現あるかも。


田中 表題の対象としての素材を使用する場合は、ダンサー側も観客側も大きな想像の制限を受けてしまう。今作品のシーツ2枚に相当の制限を受けていたのは確かで、作品には思案の跡が見て取れたものの、予想を裏切るものではなく作品中に同じ動きが何度も表出していて、作品の展開の妨げになっていた。彼女の人柄の良さは感じられるものの、『HA GU』という記号から想像される率直な情景・心象以外の何かを、自身の過去の記憶に想いを馳せて欲しい。


秦真紀子 『mou le poids』
竹重 『mou le poids』とはフランス語で「ふわふわしていて重みがある」という意味だということだが、去年迄の秦真紀子は彼女が元々資質として持っているそのふわふわとした(mou)肉体の質感だけに頼って悪い意味で即興的に踊りを紡いでしまっているという印象が強かった。しかし今年はタイトルに重み(le poids)という言葉をわざわざ付け加えただけあって、作品作りがより意識的になり、しかも自分の無意識に潜む暗い欲望や記憶を探り出そうという方向性がはっきり見えてきて一皮剥けたという感じを受けた。特に長い紐の付いた小さなオブジェが視覚的にも聴覚的にもこちらの想像力を大いに喚起していたと思う。彼女の精神の謎に分け入ってみたい欲望を感じた。私としては今回もラストのリフレインでナイーブな形で出てしまったふわふわ感をぎりぎりまで抑制して、そのしなやかな肉体をオブジェとしてより硬質に磨き上げる方向に行って欲しいと思う。そのためにはもっと観客を正面から見詰める視線の強さが必要だろう。


志賀 冒頭後ろ向き。そこでしばらく踊る場面から、非常に抑えた踊りは、何かある意思を感じさせる。この抑えた動きで表現をさぐり続けるところからは、踊りへの意識の高さが伝わってくる。少し平板なのだが、自分自身の踊りを探る道が、いま少しずつ見えてきたという印象の舞台だった。


加納 ○暗闇でビーズを床に零した音に期待感が高まる。最初のサス照明での柔軟性を生かした姿がいい。
× ダンスに抑揚がない。独自な振りがみつけられない。
★作品の構成・演出に一考を。舞台はダンサー一人のものではない。


田中 今迄は闇の中で鈍く光る柔軟な発光体のように内向的な空気を醸し出していたのが、一転して外部に向けて自らが光を放つ決意が感じられた作品だった。しかし醸成期間が短いせいか、決心に精神と身体が付いていっていなく、まだエモーショナルな部分が見えてこないのと動作にぎこちなさが出ていたのが残念だった。仮に醸成期間が長く取ることができて、それらのダンスの対象を手に入れていたら、ラスト近くのリフレインでは周囲の空間を大きく変化させることが可能だったろう。つまりは来年が楽しみということだが、ダンスの目指す方向と身体性に大きな変貌が見られたことには、拍手を送ると同時に揺ぎ無い決意であることを願いたい。


戸田はる香 『タイトル未定』
志賀 パーカーのフードを被った状態。この姿を生かして踊ると、無記名性というか、存在の見えない感じが面白い。パーカーを脱ぐと、臍を少し出した状態で踊るのだが、ここからは普通で、むしろパーカーを使いきって、自己を消すような踊りをすると面白いかもれない。


加納 ○白い布かぶってオブジェのようにゆれる冒頭から素に戻った顔の表情がいい。視線や導線・構成に工夫は感じられる。素材として身体をなげつけるモダンの精神は好感がもてる。
×動きのモチーフがかつてのモダンダンスの教科書どおり。いささかオウト・オブ・デイト。
★これから経験をつんだり、いろんなジャンルの空気を吸ってみよう。


田中 上半身の動き、腕の動きに一瞬興味を惹かれたものの、興味を持続させる力が彼女のダンスには無かった。歩く時もキャットウォークのモデル歩きのような素振りを垣間見せたものの、自身の歩様にはなっていない。床を転がる場面もただ転がっているだけで、場面は観えてもダンスは観えて来ない。10代の頃から(10代と言っても幅広いが)作品を発表していたらしいが、不思議なのはダンサーの身体ではなく、何処かのクラブで踊っている一般女子の生々しい身体でしか見えなかったことだ。


柴田恵美 『biyori+』
竹重 柴田恵美の踊りは一つの転機を迎えているようだ。以前の踊りは彼女の内面の神経の震えがそのまま私の神経も震わすような多くのデリケートな細部の積み重ねでできていたと思う。ただどこか内向きに自己完結してしまっていて、肉体そのものの存在感という面では弱い所があった。しかし今回の柴田の肉体を見ると明らかにエロティックで強い表情を皮膚が帯びていて、いわば神経のダンスから皮膚のダンス(実はこの二つは密接な関係を持っているのだが)へと変貌しつつあるように思える。この変貌は彼女が自分の肉体の中に他者を棲まわせ始めているという意味で間違いなく進歩なのだが、今回はその強くなった肉体を自分で持て余している感じで充実した細部に欠けたやや大味な踊りに見えた。今後は皮膚にまで溢れてきているものをいかに空間に零し拡げていくかが問題になってくるだろう。皮膚の感覚をより研ぎ澄まして欲しい。そのためには自分の内部にある闇をもう一段深くひっぺ返す勇気も必要かもしれない。でも柴田にはそれができると私は信じている。もう一つ、舞台空間の高さへの配慮も踊りに欲しかった。


志賀 上手奥のアルコーブに捩れて立つ。この捩れ方が凄い。どこが凄いかは、なかなかいえないのだが、アクロバティックではなく、その徹底してディフォルメした姿にまず惹きつけられる。それからほとんど無音で踊り続ける。クリーム系の薄い衣装もシンプルだが、踊りも複雑ではない。低い姿勢や横たわった姿勢などを含めて、淡々と動き、踊っていく。しかし、これはまさに踊りを紡いでいる。1歩1歩、糸を紡ぐように、機を織るように踊りを出してくる。途中、わずかに音が入るだけで、無音に近い状態。この緊張感と踊りの質から、普通はこういう踊りだと退屈する観客が多いが、ほとんどが目を離せないでいたと思う。次々と静かに展開する動きは、シンプルなのに豊かだ。最後に曲をはっきり使ったところは、ちょっと残念。作品の意味は身体だけで十分語っている。


加納 ○バレエや体操のキャリアを彷彿させる足の甲の強靭さと、体を大きく反ったまま歩行する身体の強度に感心。また、頭を壁に打ち付けたり、ほぼ全編無音で構成されたチャレンジ精神にエールを送りたい。
×足先のクッペやパッセ細かい振動等など繊細なパに対して、ときおり魅せるストレッチ系の腕の伸びが不調和でテンポが定速。また後半に入る薄い音と幕切れにとって付けたビート系の曲はかえってリアルな余韻を半減させる。
★実に惜しい。全編無音か。最後の音楽でさらなるクレージーな展開が見たかった。


田中 今回で3度目だと思うが、新人シリーズに出演を重ねる度に身体性と内面性が充実して来ている。常に次の動きへの予感を秘めた身体性をもっているのは、内部にどろりとした特有の暗い感覚が畝っているようで、ひとつの動きが身体上は終了しても内部ではまだ動いているので、動きのそれぞれが切断されても全てが連動しているように見える。しかし、残念ながら今回は全体的に踊り急いでいた。柴田の場合は身体の層が幾重にもなっており、また内面がどろりとしたものなので、アドレナリンのように瞬間に沸騰して表出して来ない。一つの動きの動き出しから直ぐには出てこずに、1テンポ遅れて内面が出てくるようになっている。それだけに踊り急ぐと内面が表出されない中途のまま次の動きに移行してしまい、尚且つ繊細な動きも多いだけに、全てが均一の軟度のままで流れている感を与えてしまっていたのが惜しい。


DGroup 1.11(sun)

植竹素子 『Sweeeet!』
志賀 風船を色とりどりいっぱい敷き詰めて、そのなかで踊る。この発想は子どもっぽいが、何かそれを壊すような要素、意図が出てくるのかと期待した。しかしそうではなかった。踊り自体も特に個性が感じられず、ただ風船を出して戯れるということをやったに留まった。その風船を片づけるスタッフのほうが面白いパフォーマンスといえた。


加納 ○床に置かれた細胞を暗示させるもしくは無数の風船、その中を転がりながら踊る行為と家庭の食卓を描いたラジオドラマ風のBGM。後半歌われるダンサー自身の歌の内容により、ある孤独な女性の内面を描いたものとして理解できる。
×肝心な内容は果たして本人が表現したいものなのか、監修した先生や影響を受けた先人のものなのか疑問が残る。
★身体言語も自分の言葉で語ってほしい。それが他人には理解不能なものであっても。


田中 余りにもその真摯な気持ちが素直にでてしまい、気持ちばかりが先走ってしまっているようで、ダンスの動きと想いとが乖離しているようだった。想いと作品の間に彼女自身のダンサーとしてのフィルターが無いと、ダンスの存在自体が薄まってしまう。加えて余りにもリアルな映画の音声には耳を澄ましてしまうし、多くの風船が動く度に視力が働いてしまうのは、ダンスで伝えようとしているものから観客の集中力を剥ぎ取る結果になっていた。もしも今回のような作品を再度作るようであれば、身体一つか対象物も最小限にして可能な限りシンプルにして、気持ちを外に直接向かわせずに、その方たちとの記憶とか想いを身体に問い直してから外に出して欲しい。


寺田未来 『小さな幸せの物語』
坂口 言葉と身体がひとつになるというのは、こういうかたちもあるのかと驚いた。とめどなくしゃべりながら、とめどなく体も動き回る。フェミレスのバイトでたまりにたまった鬱憤ストレス、なんでこんなにうわべの挨拶を口にしなくてはならないのか、それでも生きるためには働かなくてはならない……次第に言葉と体がばらばらになり……インドに逃れてヨガ……戻って来てもちっとも変わらぬ日常にキレて、夢の世界へ逃避……。どこにでもありそうな(とはいってもインドに3年も逃れる人はそんなにいないけど)日常風景……でも、どこか懐かしい……恐ろしい風景。日常風景のようでいながら、日常のすぐそばにある恐ろしい深淵、ちょっと踏み外したら落ちてしまう崖っぷちをきわどく歩んでいる……それが日常なのかもしれない……その恐ろしい深淵を回避するにはそれを笑ってしまうしかない……笑っているあいだはちょっと忘れていられるかな? 寺田未来は、“お笑い”を装いながらも“お笑い”の域を超えて人間の真実をつかみとる。真実なんてそんなに御大層なものじゃなくて、すぐそこにあるのに見ないでいるだけのもの。みんな夢を見ていたいんだから。でも、寺田未来は夢をえぐり出して目の前にさらしだす。疾走する言葉のむこうがわには、けたたましく動く身体がある。それはまるで言葉の残像のように、意識の向こうで勝手に動き回る無意識のように併走している。言葉が隠蔽された身体のみの動きを愛でる人々には、過剰な言葉がヴェールとなって肉体に目を向けるのが妨げられるのかもしれないが、人間は肉体だけで生きているわけじゃあない。ダンスにとって言葉は余分なものだと言われるとしたら、それは体だけを見て夢見ていたいという逃避ではないのか。言葉と身体を駆使して、それが生きている人間の真実であることをそのままにさらけだしてしまう寺田未来は、ダンスや演劇という限定されたカテゴリーを無視したところで生きている。それはすばらしいことだと思う。


志賀 ファミレスでバイトする女の子の日常を語りながら、踊る。その日常の物語はよくある話で、とりたてて面白くはない。しかしその話をしながら、踊る動きのテンポの早さと過剰さ。それが当初は、「ふーん」から、「おやおや、これは」と注目し始める。さらに、他愛ない話にいつの間にか笑っている自分がいた。ということは、この物語にもいつの間にか入り込んでいた。そして何よりも、過剰な動きが語りながら行われることで、体に独特の負荷がかかり、体と動きというものが次第に立ち上がってくるのが面白かった。途中、観客参加をしてコーヒーを使ったパフォーマンスのような部分も含めて、最も拍手の多い舞台であり、十分楽しんだ。別の作品も見てみてみたいと思う。


加納 ○のっけからウェイトレスの格好で喋り捲るわ。踊りまくるわ。黒子の男との掛け合いも見事。最後には観客いじりで舞台にも載せて。場内爆笑。一人芝居としてみると相当なもの。
×肝心なダンスがジャズダンスやミュージカルの典型。やはりダンスなのだから、どこかで踊りという表現に対峙しなければならないだろう。
★ゆれている心を表現する片足立ちヨガポーズのように、ダンスと演劇ゆれているのか?どうせならダンスの方に倒れて突っ走ってほしいもの。


田中 ネタ(失礼)としては相当練り込んでおり、さらの客相手に30分間も引き付けたのは並大抵の力量では出来ない。R1グランプリに出場しても予選は楽に通るだろう。しかし「新人シリーズ」のようなダンス・コンクールで勝負する作品なのだろうかは疑問。全篇に亘ってその器械体操のような動きには台詞が付いているので、その身体からは訴えるものが見え辛くなっており、それが笑いというオブラートに包まれているせいか、身体が真実を吐露しているとは考えにくい。作品の完成度が高いのと力量は底を見せてないので、今シリーズ中で再度全く別な作品を見せて欲しいと思った1人だった。


≒(ニアリーイコール) 『しゃべる女』
志賀 上手手前に三人の女が座り、その一人は「仕事をやめしまって、プーなんで。でもそれが何か」という日常を語る。下手奥で二人が椅子に座っていて、コンタクトインプロ的に踊りだす。そうすると手前の一人がそれに参加しはじめ、その間、残された手前の二人の会話が議論になっていく。いまの就職と閉塞状況を話す内容は、ある程度考え抜かれたものだが、ステレオタイプ的であることは否めない。従って芝居としての意味は弱いのだが、その議論を尻目に淡々と三人が踊っているこの構図は面白い。日常とダンスとをどう重ねるかということを、ポストモダンやコンテンポラリーも追求しているが、これは違った意味で一つの挑戦である。


加納 ○○客席の階段から登場する役者2.5人 ダンサー2.5人 計5人。この両方の役割を果たす人物がダンスと演劇の場面を行き来する。科白構成など今時のふつーの女性の日常を、なかなか上手く描いていた。
×肝心のダンスがローザスから現代舞踊の典型のパばかり。
★自分探しのドラマが終わったら、今度は本当のダンス探しに出かけてほしい。


田中 取るに足らない話題をするテーブルから離れて、ダンサーチームに加わり踊り始めまた戻るアイデアが面白いのとラストのセンスが良かった。会話テーブルの問題は底が深いだけに、深く掘れば掘るほど若い娘の絶望的な闇の一端が窺えて興味深い。但しテーマが重くなる分だけ、ダンスと台詞のユーモアを部分的に挿入してバランスを取って欲しい。今回の作品では女優陣に演技力が足りないのと振付に独創性が見えないことが、折角の問題意識に説得力が欠けて水泡に帰してしまっていた。


PICK-League 『en』
竹重 冒頭では振付した柴田恵美が下手手前でブリッジしていて、加藤朋美が上手奥で首を仰向けに反り返って立っている。その後他の三人を交えた五人のユニゾンを経て再び冒頭のシーンに戻ると、今度は柴田が対角線を這いながら加藤に近付いて立ち上がり、反り返ったままの加藤を支えながら二人して舞台の周囲を経巡るようによたよたと歩き回る姿に他の三人がユニゾンで加わる。と書けば想像されるようにこの作品のコアには柴田と加藤のデュオがある。「反る」という柴田のライトモティーフといってもいい動きがデュオという形でより深められて空間に鋭い窪みを穿ち、孤独故のコミュニケーションへの希求が痛いほど私に迫ってきた。しかしダンサーとしての実力に差があると思われる他の三人の踊りには既視感があって柴田個人の身体性が刻印されているとは言えず、彼女の美学が作品全体に浸透していたとは言えないのが残念だった。


志賀 上手奥に立つ女と下手手前に横になる女。このポーズと構図が巧い。と思ったら、柴田恵美の振付だった。その二人が絡み離れていくと、さらに三人の女が出てきて絡みながら、独特の動きを展開する。体に負荷がかかり、他にない動きを追求していることがよくわかる。やがて最初のペアが、レズ的気配を含めて絡んで歩くなか、三人が下手奥のアルコーブから、飛んで出てよじれるような変形の動きをリフレインしていく。これも構図としては面白いのだが、三人のリフレインがちょっと冗長に感じられた。しかし傑出した身体への意識と作品の構成、構図と動き。どれをとってもグループ作品としては、最も強く何かを感じさせるものだった。


加納 ○冒頭と中盤に暗闇にうごめく、仰向けで首を上に反ったままの女性肢体オカルト映画のような劇性がある。いきなり明転し、5人で同じ首反りのモチーフで踊る場面は、そこそこ迫力あった。
×肝心なダンスが、首反り歩き以外は平凡。しかも後半の無音での短いソロ振り付けでは、振り付けもダンサーの実力の差が露呈してしまう。多分大舞台では気にならないかも知れないが、小空間ではシビアーに見える。
★ホラー映画には、ムードだけでなく細かい技術の積み重ねが必須。


田中 人と関わることにより人の重さを受け止めることを重く考えさせられた作品だった。それだけにラストの余りにもベタな演劇的救済場面には展開して欲しくなかった。中盤の三角形布陣からの衝突と重量負荷から大きく展開し、救済される者とされない者の混在の方がリアルではないだろうか。
この日の柴田は前日からの連投にも係わらず、踊り急ぐこと無くソロよりも素晴らしいダンスを見せてくれた。それだけにユニットとして見ると、質感が余りにも違うので柴田だけが浮いて見える結果になっていたのが残念だった。


EGroup 1.13(tue)

るるる♪ホームず 『みかさつみかさ』
竹重 振付の青山るりこは観客の普通の良識というものに揺さぶりを掛けてくる良い意味での野蛮さを持っている女性である。ただ今まで私が観たソロ作品ではアイデアが先走っている感じで、ダンサーとしての技術的な能力の問題もあり、細部の魅力に欠けたやや大味な印象があった。しかし今回はトリオの作品として若い女性二人と中年男性一人の三人の演劇的関係性と空間的なコンポジション、それに動きと音の関係性の三つに焦点を絞って緻密に創り上げ、振付としての単純さがあまり気にならない挑戦的な作品になった。特にサンバ風の音楽が盛り上がっていく中で青山が執拗に続けた立ち姿での仰向けの首反りが私に突き刺さってきた。ラストの幾らかエロティックで謎めいた終り方も印象的だ。こうしてフツーの肉体を組み合わせてダンス作品に仕立てる才能を示した以上、今後もこの道を突き進むしかあるまい。それぞれのパフォーマーの肉体が空間の中でより孤立した存在として見えてくると良いと思う。


志賀 中央に小さい女性、まっすぐ歩いてきて「ハイ」という声を発して戻る。エレクトリックマイルスに似たペットとギターがチェーンソーによるリズムのなかで激しく叫ぶような音楽。そこで右に立った女性が単管の長いペットを吹く。左の男性が斜めに歩いて「ハイ」。この繰り返しから、ペットの女性が踊りだす。行為的な動きの繰り返しと音楽が空間を埋め、リフレインのなかに観客それぞれの解釈を生み出す。それぞれの存在感、キャラクターも強く見せた。ただ脱ダンス的に踊る部分はいま一つ緩く感じた。


加納 ○ほぼ、全編ビートの利いたリズムと音響系のノイズ曲がかかる。クレジットが明記されていない男のダンサーの存在感が光る。他の小さな元気一杯の女の子とラッパを吹き、無茶振りの作家のユニークさは特筆すべき。
×スライド、パフォーマンス、小道具など、意表をつく展開はいいが、やはりど真ん中のダンスでの勝負場面が欲しかった。
★新人らしからぬ図太さ、これからも胴の太い作品を作って欲しい。


田中 ○作品自体の魅力もさることながら、キャスティングが良かった。サエグサの飄々としたテイストがかなりの割合で効いていた。(一方ではこれほどのベテランを新人シリーズに参加させたのは疑問という感がしたのも事実。)そして「はい」と元気に答えながらも影に縁取られた澄井という女優を置いたことにより、舞台上では女の鬱血した情念やエロスを澱ませる効果を生んでいた。今シリーズの≒(ニアリーイコール) 同様に舞台上の踊らない身体という存在が放つ独特の異物感は、決して拡張しない空間の占有者でありながらもダンサーの制空権を霧のように浸食してくる。サエグサと澄井を配置しての今回の青山作品は、青山自身も存在感の強いパフォーマーの要素を持っているために、シンプルでありながらも3人のテイストがアンバランスな濃度を作り上げていた。問題はプロジェクターで、サエグサの時間と存在が取られていたことと、映像を背景にして踊ったときの青山の存在が弱く、映像との調和を考えたのが裏目に出ていたところか。


code20xx 『trans-mission<double>』
志賀 ゴーグルをして一体型の衣装に身を包む女性が二人、テクノっぽい音とともに、それぞれポーズ的な動きをする。これは奇妙で面白い。さらに使う棒の位置づけもよく考えられていて、何か新しいものを感じさせる。ただ、全体にちょっと平板な印象も否めない。途中に違う音楽があるといいかもしれない。ノシロナオコの発想は面白い。

加納 ○無個性を強調するゴーグル、ユニセックスなコスチューム、ほぼ全編をミニマム音楽がかかる。ロボットダンス的な動きは修練の結果が見える。
×小道具をつかわないときには徹底されていた非人間的動きが、2人が棒を握るという行為が加わったときに極めて人間的なゆれ、ブレが気になる。
★コンセプトは人間行為のコード化なのだが、その辺の展開。それが時間の経過により解消されるのか、循環運動なのか?諦念なのか突き詰めて。


三木美智代 『夜中に耳を立てちゃダメだ』
志賀 横たわり床に這う動きを中心に抑えた動きを繰り出す。途中で「夜中に耳を立てちゃだめだ」という言葉を繰り返すのだが、これはちょっと芝居がかっていて、使う「素材」という印象があり、かつこれをタイトルにしてしまうのは残念。こういう言葉の扱いはちょっと古く見えてしまう。踊りの実力、体から発する存在感は強いので、言葉を使うことはあまりプラスではないように思う。


加納 ○振りに忠実な展開。こめる思いは感じられた。
×反面、ジプシー風音楽とミニマムな振りと照明プランが合っていない。
★こめる思いと見てる観客に与えるイメージは別。


村上和司 『REDさん』
竹重 三人の男性共赤キャップ、赤Tシャツ、赤手袋に黒スイミングパンツ、ゴーグルといういでたちで匿名的な水泳選手というキャラクターを一応身に纏ってはいる。しかしどこにでもいそうで良く見れば決して現実にはいそうにないキャラクターである。動きも一見、見慣れた組体操的、スポーツ的な動きの単純な積み重ねのようで実はフォルムや間に対する周到な配慮があって、冒頭の三人が舞台中央の床に縦にうつ伏せで積み重なっているシーンのように時にシュールで不気味な雰囲気を醸し出している。つまりこの作品は日常と非日常の間の微妙な裂け目を狙ったもののようで、その点ではかなり成功していると思う。男性の無意識なマッチョ性に対する批判も含んでいるだろうし、各自が自由に個性的に振る舞っているように見える我々現代人が実は画一的・記号的な存在でしかないというイロニックな意識も感じる。ユニゾン中心の振付から例え匿名的であっても、個の肉体のテリトリーを感じさせる方向に進むことができるかどうかが今後の鍵ではないだろうか。


志賀 男三人ゴーグルをつけた赤い衣装で団子状態。この重なった奇妙なポーズが凄いインパクト。それが次第にほぐれていくが、その後の展開はあまり面白くない。むしろこういう奇妙なポーズをいくつか作って、作品の要所要所に挟むと、それがアクセントになる。そのポーズを主体に構成したら、かなり面白い作品になるだろう。


加納 ○赤いキャップに赤シャツ、赤手袋、黒いミニパンツの男3人の設定がおもしろい。笑える場面も。
×選曲、発想が思いつきどまり。ミニ・コンドルズ狙いか?やはりここ一番のダンスはきっちり揃えて欲しかった。
★客受けだけでなく、ダンス作家としての志をもって欲しい。


FGroup 1.14(wed)

齋藤英恵 『PAPA』
竹重 ナオミミリアンの構成・振付作品。好き嫌いのはっきり分かれそうな作品だが、私はこのシリーズのソロ作品で一番惹きつけられた。終盤になって舞台全体に張り巡らされていた赤い紐にマゾヒスティックに絡まれて踊り出すまでは、ずっとスポットの薄ぼんやりとしたあかりに白いチュチュを着た肉体の輪郭だけを浮き上がらせて踊る。舞台奥のバルコニー上の空間も上手く使い、舞台空間の高さ・幅・奥行きを存分に利用して美しい極私的な幻想空間を創り上げたと思う。少女の純潔を表す白と生理の赤、つまり少女が大人の女性の性を受け入れていく過程を描いた一種の通過儀礼のような作品だと私は解釈した。齋藤英恵は暗いあかりの中では抑制された動きで少女のからだの柔らかさを肉体全体で良く表現していたと思うが、あかりが明るくなってからの踊りではやや軽くなり過ぎて大人の女性の肉体への変容を十分に体現できていなかったのが残念だ。というより彼女自身がまだ大人の女性の性を十分に受け入れていないのかもしれない。


志賀 このd-倉庫という舞台の特徴の背景の上にある空間に座り、スポットに照らされる姿が魅力的だ。さらに動き、掛けられた梯子の前、そして下のアルコーブで赤い照明とともに踊る。これらはとても明確なイメージを作っていて、惹きつける。明るくなると張り巡らされた赤い紐。そのなかで踊り出すと、少し凡庸になる。さらに下の手前には赤い靴というお膳立てで、「乙女のワルツ」がながれ、それを口ずさむなど、最初のタイトな印象が次第に緩くなってしまう。ナオミ・ミリアンの振付だが、最後まで暗いトーンを保ってほしかった。


加納 ○白いチュチュと舞台に張られた赤い糸の対比が効果的。
×赤いハイヒール履く場面で、振り以外の演技的な表現力不足が。
★乙女のワルツは、与えられた振り付けイメージだと思う。次は、これこそ自分のもので勝負して、自信をもって挑戦を。


伊東祐輔 『In a cell ~サイボウダンスより~』
志賀 中央に椅子に腰かけて、次第に動きを出す。やがて踊るような動き。後半、かなり激しく踊るのだが、コンテンポラリーダンスの動きとしては少し鈍く感じさせる。特にソロであれば、視線が集中するので、よほどの強度が必要だろう。ただ、あまり動かずに、あるコンセプトを立てようという発想・意識はかなり買える。
 


加納 ○薄明かりに中に流れるラジオとホワイトノイズ、その中に佇むコート姿はそれなりにイメージがある。
×最初の手踊りが全身にいきわたっていない。局所的な表現に終わっている。
★全身的な表現を。特に自分の身体に向き合う時間を。


はやとんぬ。。 『I respect the will.』
志賀 映像に文字が流れて、自分のダンス感、人生観が語られる。そして衣装を次々と変えて、リバーダンスやストリートダンスからバレエ的なダンスまで、さまざまな動きを見せる。テクニックは申し分ないし、何でも踊れるのがよくわかるのだが、踊れてしまうゆえの「自分はどうしたらいいのか」という迷いがそのまま舞台になる。パロディとして見れば面白いのだが、真面目にやってしまうと、空虚さが残るように思える。


加納 ○踊りはうまい。バレエからヒップホップなど多彩。
×どう見てもパブのショータイム。どう考えてもダンス作品ではない。
★舞台におけるダンス作品という観点から見直しを。


田中 30分以内という時間的な制限がある以上、伝えたいものが沢山あっても整理しなければならない。景を幾つか減らしてキャラ立ても一層差別化すれば、見え方も全然違うものになっただろう。ダンス自体は違うジャンルを器用にこなしてはいるものの、全てが中途半端な印象がした。しかし彼の場合はその中途半端さが、逆に長所なっているようだ。彼の優柔不断な半生と中途半端なダンスは、観ている観客にも現実的な共通項として受け入られていた。それはダンスからの直接的に作用する心象の変化ではなく、観客が自身の過去の気恥ずかしさや甘い痛みを掘り下げる糸口を探る機会を与えていた。それは確かに上手い切り口かもしれないが、1回限定のものであって、(新人賞の審査には無関係だが)彼のダンスの未来像が見えてこない。


丹羽洋子 
志賀 薄暗いなかで、淡々と低い位置で抑えた動き。この部分は素晴らしい。ダンス的な動きを廃しながら、それでもダンスであろうとするところ。技術も意識も高い。それが明るくなると、機械的なポーズ、行為のリフレインに踊りを混ぜたものになるのだが、ここからちょっと失速する。ストイックを演じているように見えてしまうのだ。いい踊り手でこれからに期待したい。


加納 ○正統的なモダン技術はある。肩のひねり技に独自な振りの萌芽がみえる。
×動きに精彩がない。リズム感が弱い。
★条件が悪いときこそ、思い切った挑戦ができるチャンスがある。


田中 今回のシリーズで前半だけであれば、新人賞選考会に推すほどの強い印象を残してくれた踊りだった。月明かりが幽かに及び苔の湿った匂いが漂う空間で生息している生命体を、秘かに覗き見しているようで、エロティックさに似た儚い生命力が彼女の毛穴から漂い、絹糸のように嗅覚に訴えて来ていた。それはまるで少年期の異型の生命体に対しての憧れのような興奮でもあって、置き忘れていた心の深層を手掴みされた気分になった。たしか去年も異様な空間を作り出しながらも、後半に突然バレエを踊りだしたのを思い出した。この余りにも違う景の構成には、昨年に続き今年も夢想から現実に引き戻されてしまった。
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