新人シリーズ6講評

新人賞/Essensial SDC
オーディエンス賞/国枝昌人+古館奈津子


審査委員
::志賀信夫 ::西田留美可 ::坂口勝彦 ::竹重伸一 ::門行人

2008年度1月にdie pratzeで行われた新人シリーズ6の評を掲載いたします。なお審査委員の他に村岡秀弥さんからも評を頂いたのでそれも掲載いたします。評は随時新しいものがdie pratzeに届き次第更新いたします。また写真が掲載されてないものについても後日更新いたします。ご了承ください。写真は田中英世さんによるものです。



総評
坂口// プラッツの「新人シリーズ」がコンテンポラリーダンスの興隆の一役を担ったことはたしかだろう。そして、コンテンポラリーダンスと言われていたものが2005年をピークとして退潮したとしたら、その責任の一端もプラッツが負っているのかもしれない。「新人シリーズ」がどのような影響力を持ち、責任を持っているのか、少しばかり無自覚だっただろうか。場を与えるだけで育てるという心構えが少しばかり足りなかっただろうか。  とはいえ、空騒ぎだったのかもしれない喧騒が過ぎ去ってみると、一過性の流行にまどわされずにダンスと真摯に向きあう人たちがそこにいたことにあらためて気づかせられる。むしろ批評家と言われる人たちのほうが流行を無責任に後押ししていたのかもしれない。  そして今年も自称“新人”のダンサーたちがつどった。数年前のコンテンポラリーダンス最高潮の頃の、なんでもあれの似非ポストモダン的なものが静まって、じっくりとダンスに取り込む人たちが浮かんできたように思うが、どうだろう。だからといって、ポストモダン的な自在な場でようやく生まれてくるものを失ってしまってはもったいない気もするが。その一方で、コンテンポラリーダンスというブランドが一人歩きして、あのころもてはやされていたものを曖昧になぞっているようなダンスもちらほら見受けられるようになったが、コンテンポラリーダンスなんて実体のない幻のようなものだったことを潔く認めたところからスタートするべきだと思う。  今回、新しい試みとして、全公演が終わった一週間後に授賞式を兼ねて審査員たちによるアフタートークが行われた。はっきりと公表されたわけではないと思うが、その目的は、審査委員という名で名を連ねている私たちのスタンスを人前にさらすというものであったはずだ。ダンス作品を批評する際のそれぞれの基準点をあきらかにすることがどれだけできたのかはこころもとないが、批評家と呼ばれている連中を批評する場の可能性を提示するくらいはできたかと思う。ダンスというのは演劇などと異なり基本的に非言語的な行為なのだが、それを語る場が非言語的でよいとされてはいけないだろう。逆に、言葉はつねに過剰なものであり、ダンスを語りつつずれてしまう危険にいつもさらされている。もちろん私たちは一つ一つの言葉を責任を持って発しているつもりなのだが、つねに裏切られる可能性を排除しきれない。そうしたせめぎあいに意識的でありつつ批評の言葉を発して行かなくては不誠実だろう。


西田//作品を作り発表することにおいて<新人>である人は、批評を受けることにおいても新人である。そのような人に対してどのような批評の言葉をどのように発していけばよいのか、いつもためらう。「批判の言葉より賞賛の言葉の方が害が大きい」と語った振付家がいたが、新人であれば賞賛の方が自信もつき意欲も湧くものだからまさかそれが害になることがあるとは思いも及ばぬだろう。批判と賞賛の経験がある人には、何を言うにせよある種の安心感がある。批評の言葉の受け止め方に距離を持って接していることがわかるからだ。しかし新人でなくとも、批評の言葉に一喜一憂したり、影響を受けすぎる人を見ていると、「もっと批評を疑えよ」と叫びたくなることがある。批評のもつ影響力に躊躇しすぎても仕方がないのだが、その影響力を利用する公的私的な力学を見ていると、批評自体が本来どういう姿であるべきなのか、批評家自身も無頓着でいてはいけないだろう。「この批評は批評の言葉を被ってるが本当のところ何を表出しているのだろう。」などと、批評を書く側でありながらあれこれと疑問に思うことがある。海外の新聞などで、批評の言葉に観客動員数が左右されチケットの売行きを左右するという話を聞くと、自虐的ながら批評に対してもっと不信感をもってもいいんじゃないか、とすら思う。批評は作品と同様、批評家の手を離れて一人歩きするから、内容に対する責任はあっても批評の影響力に対しては責任の取りようがない。とはいえ影響力がある以上、批評家が何を批評の支柱としてるのか、個々の批評家の座標を俎上ののせることも必要だろう。しかしたとえそれを俎上にのせたとしても、スポーツの勝敗や点数など目に見える明確なものではないだけに、曖昧さがつきまとう。ましてコンクール等であれば、作品の評価如何によって受賞等の恩恵があるのでその基準は衆目の注視するところとなるのだが、だからといって公的な場で評価基準がルール化されたりそれについて喧々諤々議論されることはあまりない。
 コンクール形式の公演は、観客層の拡大に貢献することが多く、ダークホースの新人発掘の場、青田買いの場として利用されることが多い。コンクールが盛んになってくると、どんな作品が賞をとるか、という関心が高まる一方、コンクールに強い作品弱い作品というものがでてくる。
 百花繚乱に様々な才能が咲き乱れたくさんの人が集う場が生まれている状態であれば、コンクールなど必要なくなり、批評も百花繚乱でありうるだろう。批評はなくとも才能は生まれ作品が生まれてくる。批評はなぜ必要なのか。今回の新人シリーズでは、最後にフォーラムがあったおかげで、批評のありようについて改めて考えることになったと思う。
 プラッツの新人シリーズもささやかながら新人賞があるために、コンクールとは銘打たないものの、コンクール様のフェスティバルになっている。他のコンクールに比べれば明らかにコンクール度は低く、作品も多様で実験的なものもあり出品参加者も意識しない人も多いだろうが、意識し始めた途端にその土俵に引き戻される点は否めない。
 コンクールの土俵で相撲をとるようになると、強弱の差はあれ競争社会の構造の中で見えにくくなるものもある。だからこそいびつなものをいびつなまま面白がり、そのいびつな豊かさを享受できる批評の言葉を探りたい。しかしせっかちな世の中は新しい才能を今か今かと待ち受けており、今を語る批評の言葉もせっかちになりがちだ。賞をあげられなかった作品でも、辛い批評の言葉があるものでも、じわりと味わい深く花開く可能性を秘めている。花開こうとする過程も楽しめる感性をもちたいものだ。


竹重//審査委員を務めるのは去年に続いて2回目だが、全体のレベルが上がったのはもちろんのこと、個人的にも何人かのソロダンサーが一年で飛躍的な成長を遂げたのを実感できたのは嬉しいことだった。
 このコンペの良い所は参加者が舞踏からマイムまで全くノンジャンルで、特定の傾向を見付けられないことではないかと思うのだが、特に他のコンペからは排除されていながら、ジャンルの枠に守られている感もある舞踏の人には、舞踏のスタイルの強味と弱味を客観的に認識できる良い機会ではないかと思う。
 それからアフタートークの場でも喋ったが、男性ダンサーの影があまりにも薄過ぎるように感じる。それはこのコンペに限ったことではなく、最近の日本のダンス界一般に共通して言えることではないかと思うのだが、女性がこれだけ多様性の花を咲かせているというのに、多くの男性が画一的な感受性のレベルで止まっているように見えるのはなぜだろうか?女性が自由になることは男性も自由になることであるはずなのだが、強い自我を持った女性にどう対応していったら良いか摑めないでいるのかもしれない。
 生きることと切れているダンスを観るのは退屈してしまう。生の経験と舞台上の踊りをしっかりと結び付けるものが本当の意味でのテクニックではないだろうか。そしてそのテクニックは最終的にはダンサー個人個人の発見に委ねられているのではないだろうか。


志賀// 新人シリーズの審査もこれで4回目。全体として新人のレベルは、かなり上がっている。群舞などの振付は練られたものが多く、モダンダンス系の技術も見応えがある。そして女性のソロが多い。それも踊り始めるところから丁寧かつ静かに描き出し、踊りと自分を追求するような踊りが多かった。
 舞踏を長く見ていることもあり、そういった内面的なソロを高く評価してきた。しかしそういう踊りばかりになってくると、ある意味で面白くないというのは、観客としての勝手な言い草かもしれない。だが、同じように見えてしまうのは、「自分史」を見せられることに似ているからだろう。自己と踊りと身体の追求はもちろん必要だが、さらに観客の視点をシミュレートすると、それぞれの踊りも少し変わり、内面を求めつつも、外部に対して開かれた踊りになると思う。
 群舞でも、モダンダンス定型を感じさせるものは、技術や揃い方以上には関心を惹かない。今回、Essential SDCが「見たことがない」と感じさせる世界を作ろうとしているように思えた。コント的ネタととダンス的が絡む巧みな構成といえば表面的だが、どこか「外れた」感触は多くの観客も魅了し、オーディエンス賞でも高い評価を得た。
 いずれにせよ、「いま、新人シリーズは面白くなっている」


// 全体のレベルは高かったが、それを無邪気に喜んでいいとも思えない。その場で踊るのを見ると必ず魅了されるようなスキルフルなダンサーであっても、作品性や個性という点で強い印象がない人が少なからずいる。
 むろん、それが必ずしも悪いわけではない。むしろ日本は伝統的にそうなのかもしれない。麗人がいずこからともなく現れ、さらっと一踊りしてふっとかき消えるというあの筆法だ。作品というほど輪郭もはっきりせず、その場を魅了できるかどうかだけが勝負だから他の踊りと比較しての独自性も問題にならない。
 ただ、その場限りの魅力しかないダンスでは、その存在性は、一場の夢のように希薄なもの、後からの参照が困難なものにとどまってしまう。観客にとっては、それを見たかどうかも遠からずあやふやになり、まして内容については何も残るものがない。
 「人は二回死ぬ」とよく言われる。一回は肉体が滅んだとき、もう一回は誰もその人のことを覚えていなくなったときである。その人がいた証が何もなくなってしまったとき、たしかに生きていたはずのその人の存在は、限りなく無に近くなる。それを厭うがゆえに人は墓を建て、さまざまな方法でその人を記念する。情報の塊のような人間という存在であってもそうなのだから、その場限りで速やかに忘れ去られるようなダンスの存在性など、霞か霧のようなものだ。
 その場を去ってなお観客の中に何かが刻印されているかどうか ―― ダンスがたしかに存在したことを証するのは結局それである。そこで初めて、ダンスが確固たる存在性を獲得すると言ってもいい。それはまた、踊り手と観客の生がたしかにそこで生きられたということでもある。



村岡//『ダンスがみたい! 新人シリーズ』も 6回を数えるまでになった。公募形式になってから 5回目、1月開催になってから 4回目であり、今や年中行事になった観がある。(筆者は第1回からの全公演を観た。)
 1シーズンの新人シリーズ公演を滞りなく完了するのは、実質的な制作・主催者である die pratze にとって想像以上の人的・精神的負担があるもので、完了する度にちょっとした感慨がある。(筆者は die pratze 関係者でも実行委員でもないが(一応、元実行委員ではある)。)
 さて、今年の新人シリーズの特徴はというと、例年に比べてモダンダンスに属する舞踊が多く、パフォーマンスやコンテンポラリーダンスに分類される上演がやや少なかった(舞踏系については毎年少数であるので、あまり比較はできない)。かつ、参加作品の水準のバラつきが少なく、あまりにもアマチュア的に思える作品はなかった(参加者の選抜の過程で篩い落とされたわけではないと思われる)。誤解を怖れずに言えば、保守化の傾向が見られると言ってよいのかもしれない。
 新人シリーズを観に来る観客に対しても、筆者はそれとなく観察をしているのであるが、今年は観客の全体的なレベルも上っていると感じた。
 新人シリーズへの参加を考えている舞踊家諸氏におかれては、自身の舞踊のスタイルや水準のゆえに逡巡することなく、果敢に応募、挑戦してほしいものだ。真剣に努力を重ねている参加者の作品は自ずからそれと判るものだ。筆者としては、実験的な作品・上演も大歓迎である。
 今回参加して厳しい評を受けてしまった人も、決して萎縮しないでほしい。この講評集を(他の執筆者のものも含め)通して読んでいただくと、そこにはきっと、いろいろなヒントが隠されていると思う。
 「麻布 die pratze」が閉館のやむなきに到ったことは残念なことであったが、代わって今春には「d-倉庫」の開館も控えており、die pratze は今後も、公演の企画等を縮小することなく前進を続けていくだろう。筆者としてはひとまず安堵している。




//Aグループ

yeux manie-ne (ma) (ユマニネマ) 「endleofan minutes over aphorism」
西田//最後のシーンでそれまでの流れをすっかりひっくり返してしまう構成は推理小説や演劇などでよく見かけるが、最後に3人がハグしたり、観客から女性が登場してきたりするシーンは、それまでの内容と何の脈絡もなく、その脈絡のなさを計算したのかしてないのか定かでなかった。その脈絡のなさが光ったか、といえばそれほどではなかったのだが、そのハグ行為の中にふと見えたものに何か違うものが混ざっていてキラリと見えたのだが、それがあっという間に終わってしまい、何が見えたのか確かめる術がなかった。誤解を恐れずもう一言つけ加えてしまうなら、その行為の方がそれまでのダンスより楽しんでたのではないか、ということ。その楽しさがふと漏れてしまう微笑みのように、体から漏れてきてみえたのかもしれない。

志賀//黒いシンプルな衣装。男2人が踊り、中央左の柱の裏で下着姿の女性が服を着て、奥の壁にしつらえたゴムのネットに1人絡んでいく。コンテンポラリーっぽい抽象音。右端にリンゴが置かれ、時折かじったり転がしたり。上手から男が立ち上がり、中央で踊りに参加。さらに観客のなかにいる女性に手を差し伸べて参加させる。
 黒い舞台に黒い衣装でタイトな雰囲気を作り出し、作品のイメージはよくわかる。ただそれは何かの形をなぞっているように思えてしまう。踊るダンス自体がもっと魅力的であれば、それはモダンダンス的な意味で「見せる」だろう。しかしおそらく、意図としては別の意味を作り出そうとしている。そのためには、もっと緩い感覚にして、身体性の緩さを追求したほうが面白くなるように思う。オリジナリティを出すには、当初決めた設定を壊しながら、何らかに異化をはかるというのが、こういった作品では一つの手ではないかと思う。

// 暗い舞台に立った人影がフラッシュに浮かび上がる幕開けは印象的。主要な出演者である男性二人、女性一人にはじっとたたずむ箇所が多く、独特の雰囲気がある。だが踊り出すと独自性はどんどん薄れていく。コンテンポラリーにしろアニメーションにしろ、既成の技法をそのまま利用していて、「ダンスってこういうものでしょ」といった既成観念から出ていない。ただセンスはちょっといいかも。

村岡//構成・演出の仕方は演劇的である。難しい標題が付けられているが、結局のところ何をしたいのか判らなかった。断片的であり、統合性に乏しい。
1人ないし 2人の男性ダンサーの、緊張感のないやや沈んだポーカーフェイスから、ちょっと切れ味の鋭い動きを繰り出して見せるところとか、この作品としては軽すぎる動き(跳躍の踊り)を皆で見せるところとか、ちょっと面白いと思う場面も、どこにも繋がってはいかない。動いて(踊って)は休み、休んでは動くという、日本人ダンサーにありがちな悪しき習性に堕してしまっている。道具やごく僅かの台詞の使用も「ちょっとやってみた」以上のもの(意味性などの観点から)にはなっていない。


川上暁子 「苛性ソーダ」
坂口//卵のようにつるんと丸くなった体から動きが生まれてくる。うずくまった姿勢がうごめくと、手が出て足が出てダンスが始まるかとおもいきや、そうは簡単に立つことはできずに、ゴチゴチと体が床にあたり、ダンスが阻碍される。人間になろうとしてなれないのか、人間ではないものになろうとしているのか、それとも、人間ではないものの動きの可能性を探っているのか、人間に可能であれども見たことのない動きが生まれ出るのを待っているのか。生まれ出た生き物は、それほどに生を謳歌したとはみえないまま卵の姿に戻ってゆく。そういうひとつの物語の中にダンスがすっぽりと収まってしまうと、動きそれ自体の意味が薄れてしまうように思う。物語の中での位置というのではなく、動きそれ自体の強さを見たい。

西田//小さな動きをじっくり丁寧においかけながら、次第に大きな動きへと発展していく。小さな動きの中でどれだけ多くのことが起きているのか、その多くのことがどのように動きと連動しているのか、小さな動きの雄弁さをどれだけコントロールしているのか。大きな動きへ展開していく前の丁寧さに何かが始まる予感がして興味深く見ていたが、次第にクレッシェンドしていく過程で丁寧にみつめていた動きに対する視線が内部の熱に対する視線へと変化していくのだが、それがうまく接続していけなかったように思えた。床での動きから立って空間へ立ち上がり広がっていく際のふくらみ方には、それまで丁寧にクレッシェンドしていったものがなぜ広がっていくのか、という理由がみえづらく、後半であばれよう、といった意図もその瞬間に見えてしまって惜しく思えた

竹重//まず冒頭、舞台中央円形のピンスポットの中で小さく丸まった背中の表現力は見事。実際は薄茶色のタンクトップを着ているのだが、半裸と見紛うほどに皮膚の濃密な息遣いが伝わってくる。その後円形のスポットが二重三重に広がっていき、円の周辺で立とうとするがどうしても立てない。しかしここは不用意に身体を開いてしまっていて、ドタバタした感じになってしまう。ようやく立ち上がった後、動きは激しくなるが再び小さな円になったスポットに収束するように踊り、ラストはまさしくソーダの泡のようにふうっと蒸発するように消えていった。去年とは見違えるように肉体の存在感が高まり、凝縮した表現に人間の生死をまるごと含み込んだような余韻の深さがある。ただ少し息苦しさを感じる。肉体の表情も含めて、虚構のキャラクターに成り切るような遊び心も欲しい。

志賀//下手に小さい照明がきらめき、上手中央に白い円形の布が広がり、そのなかで奇妙な姿。白い衣装の女性が仰向けで足を体の下に折り込んだ、いわゆるまんぐり返し状態。暗いなかで静かに照明が当たる姿はとても印象的で、ピアノの音とともにインパクトがあった。そしてゆっくり動き出す。横たわったまま、かなり長く踊り続ける。それは卵から生まれたものが、徐々に立つことを獲得するかのような展開だ。円形の布を抱えて下手に赴くと、その布の固まりに照明が当たる場面など、絵的にかなり優れている。ただ動きは、ダンス的なものを棄てようとしながら、棄てられない。体が自然に踊ってしまう。立ちあがって震えるようにして踊る場面もやはり同様に、おそらく意図している「踊りをゼロから立ち上げる」切実さは感じられない。音楽もちょっとドラマティックな展開になって、舞台と「合って」しまう。何も知らないゼロに近い状態をどうつくるか、これは踊れるダンサーにとって大きな課題だろう。

//舞台中心に小さな強い光の点があり、作品の進行とともに広がっていって、光の濃淡が同心円を作る。半径が人の身長ほどに広がった光は、また一点に狭まっていって、暗転して作品が終わる。ソロダンサーの動きは照明の推移に呼応しており、トカゲのように四つんばいになった姿勢から、だんだん動きが激しくなって立ち上がり、やがてよろけるような動きになり、最後は倒れる。極言すればそれだけなのだが、特に前半の、四つんばいで延々ともがくあたり、上体を起こそうとしたり、床に体ごと落ちたり、得体の知れない生き物のような魅力があって、見ている間は楽しい。だが見終わった瞬間に完結してしまい、もう一度見たいとまでは思わせない。

村岡//寝たままの踊り。時々立ち上りそうになるが、寝踊りに戻ってしまう(後には四つん這いの踊り)。これでは「勝負にならない」だろう。
 15分ほどした頃ようやく立ち上る。どういう踊りを見せてくれるかと期待したが、結局、「誰にでもできる」程度の即興の踊り以上のものにはならなかった。立ってからの展開によっては、前半も含めた総合的な評価も違ったものになる可能性もあったのだが。


坂本典弘「spot」
坂口//立とうとしても立てなくてくずおれる身体が延々と続く。四つんばいになって、肘がガクガクと床にあたる。なぜそこまで痛めつけるのだろうと思いながらも、彼の身体の堅牢さから生まれてくるその力強い打撃を見つめてしまう。  

志賀//ソウルっぽいビートの曲が続くなか、上手中央に片手を上げて微動せずに立つ男。この場面でまず惹き付けた。音楽が止むと、男2人の雑談が流れるなか、踊りらしくない踊り、動き。音はオカマの言葉に変わり、さらに朗読へ。話に引き込まれかかると、ぱっと切れて、変わるタイミングの絶妙さ。この「逸らし」は奇妙な感触を生む。後半はピアノソロが続くなかで、立ち尽くし、このまま終わるかと思うと、上手から女性がスタスタ歩み、バチっと男の頬を張る。するとぱっと胸をわし掴みにして暗転。観客から思わず笑いが漏れる。最後の女性の登場は効果的だが、なくても十分センスとリズムで見せる作品だった。極力削ぎ落として、やりたいことを明確に出せるところも素晴らしい。

//たたずむ男にうっすらと明かりがさして、男がゆっくりと体の一部を動かし始める。それは片方の腕を水平に持ち上げて上体を少し逃がすのであったり、肩をこじるのであったり、無駄な力の抜けた腕を上に持ち上げるのであったりする。そのわずかな動きとゆるやかな速度に呼吸の間合いが絡まり、空間の変化が思いもかけず大きく感じられる。後半の床での動きも魅力的で、片方の肩を床につけたねじくれた体勢から流れていくのだが、ユル速の動きの中にクイッ、クイッとアクセントが挿入され、それが常に意想外に出る。最後に客席から女が一人出ていって横っ面を張るのだが、まあそれはあってもなくてもいい。時間や空間の感覚にこの作品で尽くされないものがあると感じられ、次作を見てみたい気になった。

村岡//冒頭、直立姿勢からごくゆっくりと左腕を水平まで上げていく。次いで右腕…。良い(素直な、研ぎ澄まされた)身体感覚を持っており、結果として身体に「奥行き」が感じられる。
 次の幾つかのシーンでは、会話の録音、語り、朗読が音響として用いられるが、これらはうるさい。このような言語的音素材がそれ自体で面白いものであればあるほど、ダンスもしくはダンス作品全体にとってはマイナスなのだということを知らなければならない。語るべきことがあるなら、音楽にも音響にも依存することなく、己の身体そのものでそれを語らなければならない。坂本にはそれが可能なはずと思った。
 全体としてはパワーも十分であり、寝た姿勢に近い(腕立て)姿勢での踊りにも工夫が見られた。が、終盤(ピアノ曲使用)ではパワー(精神的パワー!)の明らかな不足が感じられた。別の展開が期待されるところであった。最後の余興のようなシーンは、無意味、不要である。ストレートな勝負を望む。


//Bグループ

米倉和恵「TEAR ~子宮のラビリンス~
西田//命を育む子宮に対して、特別な思いがあるに違いない。白いまゆ状のものに籠もったり、ヨガ的なポーズを差し挟んだりする中で、子宮にいた頃のことやこれから子宮に宿るかもしれない命に思いを馳せていたのだろう。
子宮に対する様々なイメージを作品にする人は多いので、さらにしつこく追求し独自のものを見いだして欲しいと思った。

//薄明かりの中、繭のような布の内部でうごめく女。繭の中から一握りの羽根をふっと吹き上げ、そこから抜け出ると、掌中で珠を転がすかのような繊細な動きを見せる。いったん明かりが赤くなって動きが激しくなるが、また白い明かりの中のゆるやかな動きに戻る。
 繭の中の動きにはひきつけられた。よく見えないとはっきり見たくなるのが人間の習性なので、このように可視と不可視の中間地帯を使うのは有効だ。だが羽根を吹き上げ、舞台全体が赤くなったところで大きくがっかり。なぜ固定したイメージのついた手法を今さら使うのだろうか。変なたとえだが、厚顔な犯罪者を「容疑者は差し入れのカツ丼をぺろりと平らげ」と形容するようなもので、どんなに思い入れがあっても、それを選択した時点で、どのように受け取られるかが自動的に決まってしまう。衣装もよくない。せっかく繭から出たのにまだ何枚も身につけていて、ちょっとタマネギの皮のような印象を受けてしまった。「子宮」というコンセプトからしても、あとは薄もの一枚で十分だろう。動きの激しい部分も、作品の中でどのように生きるのか見えなかった。
 しかし脱いだ繭を床の照明にかぶせてぼんやりと光らせるなど、赤い照明以外は光の使い方が効果的だし、なにより白い半透明の衣装でゆっくりうごめくパートのイノセントな魅力は捨てがたい。欠点もあるが美点も多く、とりあえず次作を見たいと思った。


村岡//胎児・嬰児を演じるところからスタート。全体として演劇的な演出である。よく考えて構成しているはずと推察されるのだが、それにしては、二度ほどある、立ち上ってやや激しい動きの踊りを見せる場面が、何を表現したいのか判らなかった。その場面ではテクニカルなダンスの動きも取り混ぜているのだが、それにしては、ちょっと動いては休むみたいな感じになっているのが残念。どういう動き(形)を見せるかに関わらず、もっと流れを重視して動きを繋いでいかなければ…。
 本来、身体性・身体感覚も悪くないものを持っているようだが、この作品にあっては、あまりにも音楽や物(道具)に依存した身体感覚(かつ、精神性と言ってもよい)で踊っている点が何とも甘い! 素人受けする要素はあるが、それは、通人・玄人には通用しない。(「素人受け」と書いたが、この日の神楽坂 die pratze の観客の反応(拍手)は冷淡なものであると、筆者は感じた。)


斎藤麻里子「パラダイス」
坂口//黒沢美香をボスとするダンサーズにいつの間にか紛れ込んでいた大きな目の斎藤麻里子。まずは会場をその大きな目で見据えて邪気を一掃する。傘いっぱいの折り鶴という目立つ小道具をたずさえているが、そんなものに頼らずともいつのまにか迫力を備えている存在がある。おかっぱ頭の少女風のいでたちにだまされてはいけない。踊りの生成する現場に見る者を巻き込もうとしたたかにたくらんでいるようなのだから。いわば生まれつつある生成状態にある踊りの断片を身体にまとわせようとするそのうごめきとうごめかなさは、ボスの黒沢美香を思い起こさせるものがある。黒沢美香ほどに自在ではないにしても、黒沢美香とは別の身体で彼女は微細な運動を感受して増幅させようとしているようだ。指先のほんのわずかな動き。指先が動いているというよりは、体が動かされているように感じさせる相対的な運動がそこに生み出されてくる。辛抱強く待ちつつも捉えたらササッと我がものにする貪欲さ。さかさにした傘いっぱいの折り鶴は昆虫採集のように捕獲したそうした踊りのひとつひとつなのだとしたら、食べたくもなるだろう。

西田//黒沢美香ダンサーズの中でも目をひく存在になり独自の活動もしているようだが、動きにも作品にも黒沢美香節を彷彿とさせるものがある。ことに小さな動きの流れの中からひょいと強いアクセントのある動きがトレモロのように入りこんでくるあたりなぞ、美香節を彷彿とさせられた。何も語らず、何も言わずともただそこにいるだけで見るものをぐぐっと引き込む存在感を身にまとう術を伝授したのか、それともそれを試そうとしているのか。傘いっぱいに入った折り鶴を儀式のように運び入れ、小さな鈴の音をしゃりしゃりさせながら、無表情ながらくっきりとした意志が連綿と小さな動きの変化の中で見えてくる。存在感もあるし、やろうとしていることも見えているのだが、ここからどこへ向かうのか、彼女の中のダンスがどういうものとして芽を出し膨らんでくるかは、もう少し見てみないとわからないように思えた。

志賀//逆さにした食卓の蝿除けネットに一杯の折り鶴を入れて持って登場し、前に進み止まり、前に進みなどの動きを繰り返す。中央では表情を変えて、意味ありげな雰囲気が立ってくる。折り鶴を床に置き踏み歩くところも、奇妙な味わい。そしてそれを再び蠅ネットに集めつつ、口に含み咀嚼して、去るという、極めてシンプルな行為なのだが、妙な気配と素っぽい身体が目に残る。何かやらかしそうないい気配を持った女性だ。

村岡//奇妙なパラダイスである(全篇無音)。少女の、現実世界に対する違和感を表現しているようだ。
 全体としては概ねシンプルな動きに終始している。立ち止っている時は、ほとんどはとても安定感のあるしっかりとした立ち方で、またほとんどの場面で、眼をパッチリと見開いた無表情な(やや緊張した表情の、と言った方が正しいか?)顔である。それらがこの作品では成功している――奇妙な表情(百面相というほどではないが)を見せる場面もあるのだが、1場面だけに限っているのが成功している。(ついでながら、おかっぱのヘアスタイルも、この作品に大いに寄与していると思われた。)
 主として上体を用いるものであったが、動きにも工夫が見られた。量的にはそれよりずっと少ないが、脚や足先で見せる微妙な表情に魅力があった(舞踊的な身体表現にとってはとても大切なものだ)。
 小道具(赤ん坊用の蚊帳と多数の折り鶴)は何かの象徴のようであるが、的確な用い方をしているようである。(終幕で折り鶴を片づける際、二度、折り鶴を食べてしまうのが、意外性もあって面白い。)
 最後に語られる短い言葉は、作品の本質には関わりないと思われるものだが、作品を完結させるための演出としては、それも認められるものだ(微妙なところではあるが)。


磯島未来「Matilda」
坂口//まるで実験のように感じられた作品だった。なんの実験? 踊りが生まれてくるのをじっと待つ実験? 実験されるのは自分の身体か。だとしても、実験するのも自分の身体じゃないのか? そこでなにかしている磯島未来を見ているもうひとりの磯島未来がいるかのように、そんな一種の疎外感を感じさせられたのはなぜなのか。ぐるぐるといつまでも舞台を走り回っているとき、椅子の上に不安定に乗って落ちるのを待っているとき、何かがやってくるのを受動的に待っているだけでいいのだろうか、と不安な気持ちに襲われる。激しく倒れ込み、それが演技でもダンスでもなく本当に足を膝を床に打ちつける痛々しさが見えるとき、それが単にリアルな痛みになってしまっているのであれば、それを見ていることは、ただののぞき見でしかないのではないか、と不安な気持ちがわいてくる。そういう意味で、過渡的な作品だったのかもしれない。ピンクの3人組を突き抜けようとするもがきなのだとしたら、どこへ突き抜けるのか見てみたい。

志賀//黒い衣装で下手の幕に絡みながら登場。手にドライフラワーを持って、椅子が置かれた舞台を回り始める。途中からリズムを崩して、下手に花を何度かに分けて置き、椅子に座る。そして椅子から重ねられた花に飛び込む。その倒れ方は、数回繰り返すと膝に血が滲むほど激しい。椅子の背から飛んだりと、その執拗な動きとインパクトが魅力。何が起きるのか、ドキドキさせて壊れそうな危うさが舞台にじわっと立ち上がるところが魅力的。グループ「ピンク」も体力限界型だが、ソロでこの展開は、今後さらに期待したい。

//「待つ」時間に何が起きるかを見てみようという作品。だから上演ごとにまったく異なることもある由。今回は椅子の上で待ってみようと思ったらしい。
 今回の上演では、最初と最後に舞台を周回した。最初は時計回り、最後は反時計回り。走りながら手に持った花を中央に置いていき、だんだん中央に意識が集中していく。だがそこで特別なことをするというよりは、日常性を保った散文的な身体への負荷が高まるような感じ。椅子の背に足をかけて花めがけてダイブしたり、ブリッジの姿勢からひねりながらこらえてみたりする合間に、球体関節人形か子熊のぬいぐるみのようにキョトンとする場面も入る。
 要するに、時間のゼンマイをぎりぎり巻き上げて限界線上のあり方を見せつつ、一気にそれをほどいて袖に駆け込むという結構。次の一瞬の挙動にわくわくするというその場の魅力はあるのだが、「この人ならでは」と思えるものは見つけられなかった。タイトルは「待っているだ」?

村岡//物語のあるパフォーマンス(舞踊的ではない)といった感じの作品。ただし、シンプルに創られている点が成功につながっている(どこまでが創作で、あるいは、どこからが即興であるのかも判らないが)。
 少女は枯れ野ないしは荒野を、長い道のりを走り続ける。何のために、あるいはどこに赴こうとしているのかというと、それは葬送のためであるらしい。少女はドライフラワーのような造花の束を手にしている。弔いの対象は、あるいは少女自身の一部であるのかもしれない(目的地に着くよりまえにそこここに(舞台上では一箇所だが)花を手向け続けるのだった)。
 シンプルに、抽象的に作っていることが成功につながっているが、それでいて、そこはかとなく内面性(情緒)を感じさせるところに、当人としての大きな進歩がある。身体の使い方としては、脚を大きく開き、かつ重心を落とし、しかし足先は、不安定というほどではないが、頼りない状態の使い方であるのが、この作品では効果を上げていた(いつでもそれで良いというわけではない)。
 幕引きは、再度舞台に出て締め括りの所作を見せるという方法もあるわけだが、今回のやり方でいくなら退場から暗転までの間にたっぷりと時間をとった方がよい。(内容と標題の整合性については疑問がある。中盤で一度だけ控えめに音楽を用いるが、それ以外は無音という構成も適切。)


//Cグループ

大越 歩「あら・ぬ」
坂口//頭の上の赤い丸は、日の丸の赤なのだろうか。背中にはまん中が丸くポカリと抜け落ちた白い布がついていて、これは中心の赤が抜け落ちた日の丸のように見えた。そこにどれほどの政治的意図が込められていたのかはわからない。動きから何かが読み取れるわけでもないが、日の丸に集約されがちなナショナリズム的意味を解体する意図もあったのだろうか。そのあたりがはっきりと見えたらおもしろかったのだが。  

西田//ちらしには「被爆者は爆心地を探したい」と書いているし、頭には赤い日の丸、衣装は黒のつなぎに丸い穴があいた黒い日の丸を思わせるゼッケンをつけたユニークな出で立ちで登場したので、黒い日の丸に何か意味を込めたのか、何かを象徴させたかったのかと思ったが、特に関連性が見えるという訳ではなかった。
 導入部での昆虫の触覚の動きを模したかに見える動きやリズミカルなアフリカ民族音楽風とのアンバランスで面白い感性を見せたので、どのような展開をしていくのか期待したが、後半からは自らの定めたルールに縛られたか、あるいは次の展開をするきっかけの扉を見いだせずに終わってしまった感が残念だった。

竹重//長袖の黒のつなぎの服に後前のゼッケンを付けている。その後には黒い日の丸のデザイン。頭にはてっぺんが赤い日の丸のデザインの頬かむり。舞台中央で後向きの中腰の姿勢から始まり、その中腰の姿勢をずっと維持しながら膝と肘を曲げて、重くてぎくしゃくした阿波踊りが踊る場所もほとんど移動せずに最後まで続く。音は最初水の音だが、途中から口琴やアフリカ系打楽器、そして日本の民謡に移行する。しかし音が変わっても踊りの質はほとんど変化しない。タイトルから想像すると、明確なフォルムに行き着かない衝動を即興で踊ったように思えるが、展開が一本調子で後半は少し退屈してしまった。それとモチーフ的にも古めかしさを感じる。しかし、中腰の苦しい姿勢を20分きっちりとキープし続けた農家の女性のような腰の粘り強さが、表現にしっかりと大地に結び付いたたくましさを生み出していたのも確かだ。

志賀//水の流れる自然の音のなかで、黒いタイツに白い背中に丸い穴の開いたゼッケン、頭に布を巻きそこには赤い丸が縫いつけられている。自然音に口琴が混じり出す。なるほど湿原にムックリの音、これは丹丁鶴だろう。頭の色は丹丁の赤。ちょっと屈むようにして震える動きを踊り続ける。音は途中変わって、追分のような歌にもなったりするが、踊りは執拗に最後まで変わらない。鳥の動きを発想の元にしているかもしれないが、自分のこれだと思う動きをやり続ける意欲はいい。間にタイプの違う音を交えると見え方が違ってくるだろう。

村岡//自己流の舞踏のように思われたが、作品を成立させる術(すべ)を心得ているようだ。(訊いてみたところ、大駱駝艦に 7年間居たとのこと。)
 扮装にも意を用いており、筆者の受けた印象としては、水木しげるの描くような妖怪が主人公、あるいはそういう世界を描いて見せているのではないかと思った。大駱駝艦出身者にありがちなスタイルとは一線を画しており、自らの表現の世界へ踏み出している。ただし、全篇ほぼ一貫して前屈の姿勢で踊っているのだが、別のやり方も研究してほしい。「空間の処理」という意識を持って創り、踊るとよいのではないかと思う(空間とは身体空間と舞台空間の両方)。
 今回は 19分間ほどであったが、さらにこの続きの展開を観たいと思った。高得点を獲得するためにはそういった辺りが課題であろう。


丹羽洋子「リーナ」
西田//動きの方向性をはずしたりコントラストをはっきり見せる中盤までの展開は、明確な形をクリアに見せ面白く見た。後ろ側にアクセントがくる強い動き、右へ伸せば左に引き戻されるといった逆方向同士の動きの連鎖、床の上でのぬるぬるとしながら、肘をかくかくとはずしていく動きなど、こちらへ行くかと思えばあちらへ行き、視線をはずさせられる思いがした。それがさらに視線をはずさせられながらも妙な展開をしていくんじゃないか、と期待したが、そのちょっとした動きのゲームはそこで終了し、終盤は音楽にのって気持ちよく踊るパートが登場し、音楽と動きのよくある連携関係が目立って見えて残念だった。

竹重//四景構成で、内面的にも踊りの技術の面でも丹羽洋子というダンサーの持っている幾つかの要素を見せてもらったと思う。最初の景はクリーム色のツーピースを着て、舞台中央で正面を向いて両肘をゆっくりと屈折させていくなどのいわゆる自動人形のような動きが続く。あまり無機的な感じではなく、むしろ絹の肌触りのようなエロスが漂っている。身体の軸もしっかりしていて、この一景はなかなか魅力的だった。だがその後次第に動きが活動的になり、最後には弾けてバレエのように踊ってしまうところは上手く全体のまとまりを付けてしまったようで残念だった。全体から垣間見える逸脱したビザールで退廃的なものへの嗜好が、まだ囚われているように見えるバレエ由来の上品さ、可愛さといったものの殻を打ち破って前面に出てくるのを期待したい。

志賀//上手で倒れて、トイミュージックのような音とともに動き、暗転すると、中央で右手を繰り返し曲げて動かす人形振り。その動き自体は結構面白い。ただ音楽が面白い分、動きの魅力が見えなくなる。そして最後は女の子っぽい踊りを展開する。こうなると、結局踊りたいんじゃないということで、人形振りと合間って、考えつきそうな発想というところに落ちついてしまう。最後は別の展開をしてほしかった。暴れる、倒れるなど破壊的なものにするか、いずれにせよそれまでとの繋がりを壊す必要があるだろう。

//ショートカットの女性のソロ。肘の先だけを回すところから始まり、それに首の動きが連動し、突然逆の肩が後ろに引っ張られたように動くなど、いろいろに展開していく。丹羽はバレエ出身。バレエには「顔をつける」と言って肢体の動きや姿勢に首から上の持ち方を呼応させる作法がある。この作品はそういう要素を取り出して一般化、抽象化したように、体のほとんど無関係な部分を相互に対応させている。おもしろい着眼ではあるが、現時点では素材をそのまま見せている感じ。
 最後のパートだけ毛色が異なり、バレエのクラスレッスンで最後にやる挨拶のシークエンスをバレエ的にでなく見せるといった風。床を滑らせて足をすっと出し、それを引いて反対側、といったバレエの平凡なフレーズが、味付けを変えてこうした文脈の中に置かれるとまったく違って見えておもしろい。
 丹羽は最後のパートのためにその前があると言っていたが、分断して見える。作り方の点でも、思考の深化という点でも、まだ長い探究のとば口にいる感がある。

村岡//人形振り(機械仕掛けの人形)のような動きで、身体の一部のみ(直立している姿勢のときは脚は固定している)を使った動きを見せる。(床に這いつくばったような姿勢のときはそれとはかなり印象が異なるが…。) それも悪くはないのだが、いかにも断片化されているという印象だ。
 最後には全身を使った、概ね古典的ではあるが美しい舞を見せる。
 普通のクラシックバレエのようなダンスを踊るのには飽きてしまったということはよく判るが(推測)、ではこの作品にどのようなテーマがあるのかというと、それは筆者には判らない(標題は女性の名前のようだが)。時間枠もまだかなり余っているし、もっと練り上げていってほしい。


1+1「キオク-ノ-ハヤシ」
志賀//雑踏の環境音のなかで、女性が2人、最初は右に、次は左にと、倒れ始める。斜めの倒れ方はうまくなく、ダンス的でもないが、それを基調にして、コンタクトインプロ的なモード、だがあくまで倒れることにこだわるところはいい。ただ雑踏の音その他、雰囲気に合いすぎていて、次第に単調に見えてくる。一度このリズムを壊す音のなかで、同じように倒れ続けると、舞台にメリハリがついたように思う。

村岡//「倒れる」および「崩れる」という動きが一つの全体的なモチーフ(つまりはテーマということになるが)になっているのだろうか? 動きはほぼきちんと振付けられ、十分に稽古を重ねられたものらしく思われる。
 人物(ダンサー) 2人は、同時にそこに居ても、関係があるような無いようなである(後にははっきりと「関係」を持ってくるが)。何か、真面目すぎて面白みに欠ける気がしたが、後にはちょっとだけ面白いところも出てくる。
 標題を見れば何かテーマがあるのだろうと思われるが、純粋に舞台だけを見ていたら、何も判らないという気がする。「不思議感覚」、「奇妙さ」といったものが狙い、主題的モチーフなのだろうか? しかし、心や身体の内面にまでは表現が到達していない。
 けっこう長かったような気もするが、実質は 15分間ほど。甘え(依存)のない表現を目指しているようではあるが、遊びが足りないという気もする。


//Dグループ

三輪亜希子「エミリー」
写真準備中
//上下が分かれたランジェリーを着た女が一人、カーテンのかげからそっと出てきて、部屋の大きさを確かめるように歩く。フランスの懐メロが流れ、細かい動きがぎっしり詰まった振りを踊る――のだが、動きがすべて日常レベルの身振りから出ることがないため、ただ忙しくしているだけで、おもしろく見えるような見方を発見できなかった。この種の振付指向の作品では、誰が演じるかによって見え方が大きく変わることもあるのだが、踊り手の選択は適切だっただろうか。

村岡//見掛けよりずっと頑丈な足腰を持っている。全身的な運動能力も高い。運動量も多く、休むことなく全身を使って踊り続けるのが好ましい。すべて、パフォーマンス的な動き等ではなく、ダンスとして創っていこうとしているのもよい。ただし、振りは、時折、演技的な振りが侵入してくる。そういうところは、もっと抽象化した方がよいと思う(ちょっと通俗的に感じてしまう)。
 用いている楽曲が珍しく、米国辺りのミステリー(犯罪)物のテレビ映画の劇音楽と思しきものを用いており(最初の曲およびそのほか)、物語にもそのような内容がありそうに思えてくる。が、作家の想定しているところはどうなのだろうか? 作品のテーマは?「エミリー」という標題は?と、疑問が湧いてくる。


国枝昌人+古館奈津子「すんだ」
写真準備中
坂口//前半の躍動感と後半の緊縮感がクッキリと対置された時間は、クライマックスを迎えて終わるという時間とは異なる流れを作り出していた。冒頭、国枝と古館が少し離れたところに立ち、ミニマルな動きを続けるあたりから、力がグッとためられながらなにやらうごめくものが感じられた。その力が次のシーンでサアッと気持ちよく解放される。空中で半回転して伸びあがるふたりの跳躍にさわやかで新しい風を感じた。コンテンポラリーダンスという名で呼ばれてきたものの中にはなかなかなかった動きの快楽。だからといって、バレエのテクニックで得られるものでもない快楽。そんなものをふたりはつかんでいたように思う。でも、それだけではない。かれらは、遠近法を周到に組み込んで作品を作っている。暗転したあとのシーンはその前とはまったく異なり、動きは完全にセーブされて時間も空間もその質を変え、それまでの運動が背景に一気にしりぞいてしまう。力をため込んでいまにも動き出すのではないかと見せつつ動かない国枝の張りつめた身体におののく。しかも美しい。新人賞はこのふたりに挙げたかった。

西田//前半の動の中にある息をのむ緊張感、後半の静の中にある凜とした緊張感、それぞれが独自に魅力を放ちながら、一つの作品として相互によい関係が生まれた力のある作品だった。舞台に緊張感を作り出す力は舞台上の様々な要素に対してどれだけ観察力が豊かかということと関係が深いと思う。国枝と古館の動きのずれやシンクロはアイデアとして珍しくはないとはいえ、そこから生み出したその瞬間瞬間の緊張感は唯一無二のものだった。突風のような自然音のどこでその動きが入るか、わずかな判断の差異が大きな差異となって見えてくる。音との掛け引き、光との掛け引き、相手の動きとの掛け引き、時間との駆け引き、それらすべての中でこれしかないというものを掬い出すのは判断力と観察力以外の何ものでもない。その力を備えつつ同時に体の言い分も聞きその変化もよく眺める必要がある。冷静で高い観察力と緊張感を生み出す熱い思いは良かった。

竹重//デュオの作品としてこの作品の優れている所は、二人の間の絶対的な距離感、それ故のコミュニケーションへの欲望を上手く浮き上がらせた点だと思う。全く大人の作品である。特に二景の、下手側奥のアルコーブ付近で後向きのでんぐり返しの途中で両脚を宙に固定したまま止まった国枝昌人に、最初上手側手前で後向きに横座りして足の裏を掻いていた古舘奈津子が、対角線上を少しずつ蝸牛のようににじり寄っていくシーンのドキュメンタリー的な緊張感は実に素晴らしかった。足の裏を掻くという本当に日常的な仕草が、ダンスの表現としてこれほど濃密なものとして迫ってきたのは初めての体験だった。それに比べるともったいなかったのは、冒頭二人がそれぞれユニークな跳ねる動きを見せながら、すぐにそれを止めてしまい、既視感のあるユニゾンに移ってしまったことだ。あの冒頭の動きをもう少し続ければ、二人の個性の違いが観客により明確になったと思う。

志賀//冒頭遅れたが、入ると2人が垂直に跳ねている。そして激しい音楽とともに踊り出す。飛び跳ね、転がりダイナミックかつ定型のダンスではなく、躍動感のある身体表現。かなりハードに続いて暗転すると、下手奥のアルコーブで国枝が逆さになって足を延ばしており、古舘は上手手前で倒れている。かなり不動の時間からゆっくりと動きが始まる。無音のなかにうごき、そして音が入っても静かな展開。全体としてメリハリがあり魅力的だ。背が高くハーフの国と小さい古館とのコントラストもうまく生きている。牛川紀政の巧みな音使いとあいまって魅せる舞台となった。

//前半は動きが激しく、リズミカルな跳躍を主なモチーフに、周期的な変化や、突然の大きな変位と小さな装飾の組み合わせなどを見せる。後半は、うつぶせの上体を床につけて足を壁に立てかけた姿勢や、横座りの姿勢がわずかずつ崩壊していくとか、動きはほとんどなく、むしろ静止したありようを見せる。“動”→“静”ときて、次にどうするかと思っていると、何も起きずにそのまま終わる。リズムの作り方など、部分的にはおもしろさが感じられるが、観客の裏をかくためだけのような終わり方に反感を覚えた。

村岡//国枝の動きがとても良い。古館も、国枝とのデュオ(殊にユニゾンの)は息が合っていて、良い。床を転がるところは別としても、倒れる、あるいは床に横たわるところは多いのだが、いつまでも寝ているとか、床面依存的な要素は特にないので、その点は問題ない。
 かなり激しい動きを繋いでいくのだが、それは 7分間ほどで終る。2人とも荒い呼吸をしているが、しばらくするとピタッとそれは止み、静止と静寂が訪れる。やがて、今度は極めて緩慢な速度で動き始める。後半は、ほぼそのままで終るのだが、これだけではちょっと物足りない。――この日の参加者は皆そうだったのだが、上演時間が短めである。せっかく die pratze の企画公演に参加し、大勢の観客に観てもらう機会を得たのだから、時間枠いっぱいまで踊りたいという「欲」はないのだろうか?


P'LUSH「Headache ―Take 3―」
西田//昨年の玉内集子のソロにある奔放さとストイックな中にある激しさに魅力を感じていたので、3人ではどのような方向性の作品になるのかと思って期待した。内にあるエネルギーを外に放出していくような元気ハツラツなダンスは、ジャズダンス風なノリの良さに楽しさが溢れて気持ち良いのだが、そこに留まっている感もあり、作品としてはもう一つ別の新しい展開へ開いていって欲しく思った。

竹重//20代の女性3人の若く活力に満ちた肉体を前面に押し出した作品で、女性のストイックなソロダンスが多かった今回のシリーズの中では異彩を放っていた。最初、衣装は赤、青、黄のショートパンツに赤のフード付きジャンパー、音楽は椎名林檎と噎せ返るような生理的パワーに圧倒された。しかしその後、衣装は黒のチュチュに変わり舞台は次第に静寂さを獲得していくなど、動きの面でも展開的にもバリエーションに富んでいたにもかかわらず、もう一つ作品の世界が深まっていかなかったのはダンサー達にどこか他律的な踊らされているという雰囲気が漂っていて、その場で踊りが生まれているという新鮮さを感じることができなかったからだろう。

志賀//赤いフード付ショートジャンパーに両手を入れてカラフルなショートパンツ、色違いの女性三人が激しい音楽とともに暴れるように踊る。そこからニュートラルな動きなどに展開する。ジャンパーを二人が脱ぎ、一人に撒きつけるなど、戯れる要素を入れながらも、真面目に構成している。その真面目さがどこか遊びのない世界に見えてしまう。弾け方がどこか違う。動きはのびのびと楽しい要素はあるのだけど、実際はなにかとても不自由に見える。自由になろうとして不自由であることを、さらに自覚すれば、より面白くなるだろう。

//赤、黄、青のホットパンツにお揃いの赤いダウンベストを着た女子が三人。レスリング選手のウォームアップや短距離走のスタートのような、スポーツに取材したしぐさを抽象的に見せるかと思うと、アティテュード・ターンやらピルエットやら、アカデミック・ダンスの語彙をしれっと挿入したりもする。最後には、激しく痙攣する一人の背後で残り二人がキャベツをまき散らかす。
 興味深いものもあるが大半は大して珍しくもない思いつきで、それをただ羅列したかのように統一感に欠け、脈絡はないか、あるとしても興味をひかれない。安全な枠組の中で暴れて見せているだけのように見える。

村岡//この作品は深谷正子の構成・振付・演出によるものである。深谷正子は、他称・自称によらず、およそ「新人」とは認められない人だ。筆者としては、そこで、まず次のことを言っておきたい。
 (1) 公演チラシに(まずは die pratze の『新人シリーズ 6』総合チラシということになるが)、構成・振付・演出者名を明記すること。
 (2) 当『新人シリーズ』の他の作品は、ほとんど例外なく(多分に推測を含むが)、新人である参加者・出演者自身が創作・構成・演出等をしているものであるので、それらとこの作品とを無条件に比較・評価することはできないであろうということ。
 (3) 当『新人シリーズ』に参加するときくらいは、ダンサー(出演者)が自分たちで創った作品で臨んでほしかった。
 さて、筆者としてはずっと注目して来ている P'Lush であるが、今回の作品もすこぶる面白い。今回は特に、上演時間が短いということもあり、身体的パワー全開で、観客の耳目を楽しませるエンタテインメント的な趣きのある作品でもあった。
 面白く構成されてはいるものの、ダンサーは、それぞれに自身に要求された(振付けられた)踊りをてんでに踊っているだけという感じが強い。それもいつものことではあり、深谷作品の持ち味、特徴でもあるのだが、グループ表現の理想形とは違うと思う。


//Eグループ

三木美智代「confession ~告解~」
西田//ノイズ系の音と交互にブルガリアンヴォイスの音が入る。ポリフォニックな音の豊かさと既にできてしまってる宗教的な音の世界とこれから舞台で作りだそうとする自らの世界との接点がどのようなものなのか。ノイズ系の音を交互に差し挟み拮抗させようとしたかったのかもしれないが、それでも音のインパクトの強さに押された感が否めない。ダンスなどで多用されてきただけに、敢えて必要と思うならより独自の路線を出す必要があるだろう。樽をかかえたような姿で動き回ったところが妙に印象に残った。

//上演空間を歩き回りながら何度もひれ伏して額ずくが、方向はバラバラなので、メッカを礼拝しているわけではないようだ。何回目かの平伏の後、やおら横ざまに転がって立ち、挑むようににらみつける。ここから、理不尽な切迫感を湛えたパフォーマンスが展開する。鶏を追うように両手を低く広げて腰を落とし、あおり立てるようにじわりと前進する、その前方にこの人は何を見据えているのか。
 静止した姿勢から隙を盗んで瞬時に起動する、そのタイミングが絶妙。体や脚には奇妙にこわばる時間とほどけた時間が交替に現れ、ながーい呼吸のようなその満ち引きの間合いに魅入られる。光に手を差し伸べるとか、柱に抱きつくとか、ややベタな部分もあるが、それも情緒を導入するというよりは、その際の体のありように注意を向ける感じ。空間意識、時間意識に強い個性がある。

村岡//「攻撃的な祈り」といった印象の作品だ。そういった類の鋭さを感じさせる身体性はあるが、音楽による構成の方が優位にある(主導的である)と、どうしても感じてしまう。要するに、音楽に合せて踊っているという感じだ。その結果、身体性が背景に退いてしまう。作品の内容も、標題に掲げられているところのことは(書かれているのだから)判るが、告解の内容となると、推測も及ばない。


佐佑 ~sa-Yu~「西のエデン」
志賀//顔だけ白塗りの男が下手で舞踏的な雰囲気でさまよい,上手で女性がシンプルに動く。やがて男が薔薇を持って倒れ、女性が踊り出すのだが、ここから表情や身振りで表現しようとする。手話に基づく「サインダンス」らしい。見るのは初めてだが、パントマイムとモダンダンスの中間という感じだ。身振りで何かを示すという発想は、表現性、観客の恣意性、自由を損なう部分もある。ダンサーが示したいものを伝えればいいという範疇で表現を行うことになる。もちろん日舞も動きに意味があるのだが、すぐわかったら、きっと面白くないだろう。いろんな意味で考えさせる表現だった。

//顔を白く塗った男女。パントマイムっぽさは最初から明白だが、前半は、身をよじって肩を床につけるなど、演じられる対象より演じる体の方にフォーカスした動きが優越してなかなか見せる。だが“What a beautiful world”が流れて女性がいかにも幸福そうな満面の笑みを見せたところで、既成のパントマイムの枠内に自らを閉じ込め直してしまった。男女の関係を一輪のバラが媒介する構図もあまりにも陳腐。

村岡//2人が一緒に踊る時間は少なく、一方が踊っているときはもう一方は舞台で寝ていることが多い。その割には不満が少ない。よく考えて創っていて、完成度もまあまあということなのだろうが、やはり短すぎると思う。「愛に満たされている」といった観があるが、だからと言って、舞踊作品として優れていると言うわけにはいかない。
 最後から 2番目が実質的には終幕の場面になるものと思うが、女がひとり踊るそのシーンはいかにも演技的な踊りで、それも顔(表情)による演技が過剰である。抽象的で意味の(ほとんど)無い動き(振付)の部分の方が良かった。


清藤美智子・池田 光「階段」
志賀//シンプルな服を着た女性のデュオで、モダンダンス出身だろうが、モダン的なものを外して踊ろうとしている。しかし全体に緩いダンスというものにしか見えなかった。このへんの「自然体」というのはあまりにも蔓延しているので、食傷している。かといって、モダンダンスのヒラヒラブルーの衣装などは、さらに見たくないのだが。

村岡//あからさまではないが、造形的な美を追求しているといった向きがある。そして、その意味でも成功している(わりと珍しいものだ)。
 全体にそつなく纏めている――音楽・無音部の用い方、等々も。
 スタイルとしてはモダンダンスだが、旧いとは感じさせない(選曲の一部を除いて)。特に池田は、自身のテクニックの見せ方もつぼを心得ている。2人の身体性、技量にバラつきが認められるが、それはまあ仕方のないところだろう。
 「階段」という標題は、2人の女性の人生の一断面・一側面を象徴しているのだろうが、それ以上には解釈が及ばない。


//Fグループ

三上周子「氾濫」
志賀//両手を左右に延ばし手首を上に向けて、両方で上に何かを支えるようなポーズで上手をゆっくりと前に進んでくる姿は、インパクトがあり、かつ魅力的で目が離せない。この緊張感を共有できる点で素晴らしい。次に下手の柱に張りついてゆっくり動く場面もいい。しかしそのあとちょっと暴れ動きまくるところでは、弱くなった。緊張から開放に向ったときに、休息的開放に見えたのだろうか。

竹重//ソロダンスとしてはこのシリーズで随一の作品だったように思う。間違いなく舞踏なのだが、踊りに独特の微細に揺れ動くリズム感があり、それが不思議と<今>を感じさせる。冒頭の上手側で肩の高さに上げた両腕を肘を直角に曲げてアルカイックなポーズで踊るシーンと、ラストの舞台中央でそれまで履いていた赤いストッキングを脱いで、重心を落として腰から下を滑り出すように官能的に踊ったシーンが特に素晴らしかったのだが、中盤で下手側の柱にしがみ付いた辺りが、ややパフォーマンスに流れて弱かったのが残念だった。既に独自の踊りの語法と肉体の質感を身に付けており、構成力もある。その上に凝縮した動かない表現もできるようになると、より作品の世界が広がるように思う。

//一言で言ってヨタヨタしたあり方を見せる。ゆらっと立った内股でゆっくりよろけ、柱をかき抱く。動作がきわめて緩慢なので運動の記述もごくわずかで済んでしまうが、それはそれで決してつまらなくはない。だが、その緩慢な動きの中にこの人ならではの質があるかと問われると、あるのかもしれないが容易には見出せないと答えざるを得ない。たまたまこの場にいるから見ているという以外にこれを見る必然性が見つからず、つまらなくはなくても、ちょっとつらかった。

村岡//全くタイプの異なる(複数の)舞踏を学んでいるとのことだが、今回のものは奇を衒うところのないシンプルな舞踏作品だ(即興性はあまりないものと推察された)。
 後半の方が良い(3部構成の第3部)。
 上体は垂直に保ったまま、重心を落とし、足腰をしっかりと使って踊っている。顔は、全篇を通じ、ほとんど無表情なのも正しい。ただ、構成・意図はよく判らない。第3部の踊りを中心に据えて、すっきりとした 3~4部構成にして見せてほしかった。
 音楽・音響はなるべく控えめにするのが「勝ち」である。


柴田恵美「ピィちゃん」
坂口//昨年の「やさしい砂」は記憶に残っている。そして今年。ミニマルな震える動きは同じとはいえ、確実に変わっていた。作品を作るというよりは、何かが身体の中に降り積もって行くのを待ち続けているような。もちろん身体能力はそうとうに高いと思うが、それで見せるのではなくて、それを受け皿にして何かがそこに宿り、生まれる。だから、それは作品としてかっちりと形を取ることなく、ゆるやかに時間を区切られた瞬間としてそこにあることになるだろうが、その時間のなかでは彼女の身体はとても多様な意味をまとって変化して行く。その時間がすばらしい。

西田//昨年の演出に凝った作品から一転、じわじわと体温を上げながら自分の体と向き合おうとする意欲をみせる作品となった。ずりずりと背中を床につけて舞台を一周したり、仰向けで足を開いていったり、漕ぐ動作をしてみたり、どれもシンプルな動きながら体の中心を確かめようとしているかに見える動きを見ていて、その無骨なまでの正直さと真摯さに好感をもった。今まで体に染みこんだ動きや培ったものを解くため、中心(もしかしたら丹田)を意識するところから動きを紡ぎ出そうとしたのだろう。マイペースで独自の世界を見いだしつつある。

竹重//グレーのタンクトップに白の短パン。決して上手いダンサーだとは言えないが、教えられた振りではなく、自分の内部から生み出してきた動きを丹念に積み重ねている。だからその動きは、冒頭の仰向けで床を足で漕ぐ動きからして一見誰にでもできそうなのだが、紛れもなく彼女の生理が刻印されている。特に印象に残っているのが爪先立ちの不安定な動きを繰り返していたことで、この作品の中心的なモチーフになっていた。更にコーンコーンコーンと上手奥のアルコーブに時々落とされたピンポン球が内面の不安感を増殖させて、全体としてメランコリーに満ちた緊張感のある舞台を創り上げていた。一つ難を言えば、まだ稽古の延長のような気分が漂っていて、観客とコミュニケートしようという意志が希薄に感じられることだろうか。

志賀//一つ一つ丁寧に、ダンスの動きを逸らしつつ非日常の世界を作ろうとしている。その底に踊り慣れた巧みさが見えるのだが、それはプラスに働き舞台を締めていた。しかしもう少し、インパクトというか、切り込んでくる部分がサビのようにあればいいとも思う。これはこれでいいのだが。

//踊りとしぐさのあわいを探究しているような作品。貧乏揺すりとか、髪の毛をかきわけてシラミを捕るとか、そんなしぐさが興味深げに反復される。不器用に立ち、肘を脇につけて片脚を低く持ち上げた姿勢でバランスを取りながら痙攣するとか、そこから前のめりに倒れて痙攣するとか、何かにつながりそうな気配はあるが、現状ではまだ習作のような印象。

村岡//暗い身体の使い方だ。それが悪いと言っているのではない。むしろ、このやり方が、当人には向いているのかもしれない。
 「暗い」と言っても、身体の全体を大きくしっかりと(十分に)使っていることがやがて判る(局部的な使い方をする踊り手が、このシリーズに参加するようなアマチュアには少なくないものだが)。動きないし踊りとしても、曖昧なこと(動き)はしていない(そういうのもとても有りがちだが)。明瞭な動きをしている。パワーも感じさせる。
 ピンポン玉を用いて内面性を強調する演出も良い(ただし、それには大した意味はないと思うが)。
 残念なのは、短時間(18分)で、尻切れトンボのような感じで終ってしまったことだ。持ち時間はまだ十分にあるのだから、あの後に、何でもいいから踊ってみせてほしかった! また、冒頭の、仰向けに寝たまま脚で漕ぐように床を滑っていく場面は、期待する気持ちを大いに殺がれたものだった(単にカットしてよいものだろう)。(標題に籠められた思いは判らない。)


山本眞己・宮田亜希子「汚れぬ雲(ケガレヌクモ)」
志賀//モダンダンスの衣装と雰囲気で暗めの照明にやたらスモークを焚き、場面を作ろうとするが、動きに魅力がなく、ポーズと絵柄しか見えてこない。丸い台を仕込んでその上で踊るのも、単に装置でしかない。

//両手を広げたくらいの大きさの円形ステージを中央に置き、二人の女性がそれを中心に点対称の動きを見せるくだりが延々と続く。黒一色の衣装はなんだかジャパニーズ・ニンジャのようでもあり、何度か現れる、膝を片方前に出したポーズがなんとも古い。一面にスモークを焚いたり、雨音に上を見上げてみたり、チープなイメージが痛々しい。作品が異常に長いことも、自作を客観的に見られないことの証左である。

村岡//普通の動き、普通の踊りと思われた。この踊りに何か意味(意義)があるのだろうか? とも思った。――ダンスに「意味」がなければならないわけではない。その反対に、全く意味のない抽象的な動きだけで実に素晴しいダンスを見せてくれた例も知っている。しかし、そのような方向性を持った踊りでは全くないようだ。観る者の心に響くものがない。
 舞台中央に直径 1メートル半くらいの円形の置き舞台。その中心点を対称中心にした点対称の、2人の女性ダンサーによる踊りだ。それがコンセプトの 1つなのだろう。終盤に到って、その対称性が崩れてくる。2人が常に逆方向を向いていなければならないはずのところが、同じ方向を向いてしまう(中盤にも一度そういう場面があった。筆者はそれはミステークであったのだろうと思ったのだが…)。さらに、やがて、タイミングそのものの斉時性が失われていく。だが、どんな主張がそういった演出や振付に込められているのか、やはり判らない。
 2人の衣裳も、ほぼ同じ物なのだが、アシンメトリ(左右非対称)に作られており、しかしよく見るとそれらは「面対称」(鏡像)となっていて、踊りの「点対称性」とは明らかに矛盾しているというのも皮肉なものだ(どこまで意図して、それに意味を込めたものであるか判らないが)。


//Gグループ

畦地真奈加「畦地'S+7歳」
写真準備中
坂口//冒頭、赤い薄手の衣装をふわりと羽織ったふたりが舞台の奥から対角線上に歩いてくる。そのときの手の動きが秀逸。ゆっくりとしなやかに手が前に出され、それにともなって体も動き出すのだが、いったいどこからその動きが生まれてくるのか、それがわからないからか少しばかりめまいを覚えた。もちろん良い意味でのめまい。手と身体の動きで空間がぐにゃりと歪んで斜めに切り裂けるような感覚。期待感が高まる始まりだった。とはいえ、それに続く本編とでも言うべき部分は、何らかの物語性を示唆するような構成に見えながらもそれを排除するダンスとも見えて、どこか中途半端なまま過ぎていってしまったようだ。

竹重//この作品で私が好きなのは全体が徹底的に遊戯的な感覚で貫かれていて、適度な毒を含んだ上質なファンタジー小説を読んだような気分にさせてくれることだ。2人してピンクのノースリーブのワンピースを身に纏い、カツラで表情を隠した畦地真奈加、畦地亜耶加姉妹のユニゾンは両腕を小さく波立たせるように踊られ、独特の浮遊感と人形のような不気味な非現実感を醸し出す。同じ衣装の7歳という室井初寧(好演!)の生身の少女の身体と時に重なり、時にコントラストを描くことによって、記憶の中で過去に帰っていく2人のクレージーさがより浮き彫りになってくる。そして最後にはすっかり赤ん坊に回帰してしまった2人を室井が乳母車に乗せて舞台袖に運んでいくのである。今回は円環する迷宮状の時間の魅惑にどっぷりと浸らせてもらったが、今後極私的で閉じられた世界という枠をどう広げていくのか、あるいは閉じられたままで毒性を強めていくのか、その辺りが課題だろうか。
 
村岡//面白い動きをしている。柔らかい動きの内にもパワーを感じさせる要素がある。デュオのユニゾンのパートは動き・形がとてもよく揃っている。
 暗転での場面転換、その都度(ほとんど)ダンサーは退場してしまうというのは、この作品の場合、やむを得ないところか?
 不思議感覚の作品というのが狙いと思われる。近頃そういうのも珍しくないと思うが、動きそのものにオリジナリティが感じられる。
 畦地亜耶加は、母親役を思わせるシーンがあるのだが、母親としての「殺意」を感じさせるところもあって、良いと思った(後で聞いたところ、母親役ではなかったとのこと)。女の子(室井)も、要求によく応えていた。


ストライプ Gal:s「SOFT MACHINE ver.1.5」
竹重//3人は大学の同窓生ということだが、体型も踊りの質もかなり違っていてそういう各自の個性を楽しめるという面白さがあり、踊りの緩急の使い方にも独特なものがあった。一方で3人での常套的なユニゾンに頼っているところもあって、モダンダンスからの逸脱の仕方が中途半端である。作品全体のコンセプトも曖昧だ。前半にタイトル通りの機械仕掛けの人形めいた振りも出てきたが、一つの固有の世界を提示するところまでは至っていなかった。恐らく今回は共同振付に近い形ではないかと思われるが、この先このグループの個性を強く打ち出していくには、振付家をはっきり決めてその人に作品全体をコントロールさせるということも必要だろう。

//女性三人。ぴょんぴょん飛び跳ねながら、肘から先を立てて機械的に動いたり、格闘技のように絡んだりする。床に落ちるとイモムシのようにじりじり動く。ブラウン運動する分子をシミュレートするコンピュータソフトウェアの画面や玩具のロボットを見ているようなおもしろさはあるし、情緒的なものが一切入り込まないのは爽快だが、まだアイディアだけにとどまっている。

村岡//ポストモダンダンス的な動き(無意味・抽象的な動き)かと思われたが、実はジムで筋力トレーニングをしていたり、武道のトレーニングをしていたりするのであった。(体育会系の踊り(いくぶん演技的な)か?)
 10分間くらいやや激しく踊った後、2人は床に横たわって、1人は脚を伸ばして坐った姿勢のまま眠りについてしまう。静寂と静止。やがて、ごく緩慢に再び目覚め始める。が、これは何をしたい、見せたいというのだろう? ただ遊んでいるだけのようにも思える――「それではダメ!」とも一概には言えないのだが…。どこか「芸術ぶって」いながらテーマも思想も見当らないというところが、観る者に白けた印象を与えてしまうのではないか? パフォーマンス作品的な音響(音楽)の使い方も、単なる思いつきの域を出ていない。


まあさ「gravity」
写真準備中
竹重//前半は抽象と具象が入り混じった説得力のある風景を創り出していた。どうも突然密閉された地下室に放り落とされた男という設定らしく、舞台中央の空間がスポットで正方形に区切られている。まあさはそのスポットの外延部を重心を下げて、両手で部屋の壁を確かめるかのように動き、具体的な空間性と重力、心理的閉塞感を上手く表現したと思う。肉眼では見えない壁をあたかも物質的に存在するかのように感じさせる描写的な表現力はなかなかのものである。だが、スポットを消した後半のダンス的な部分との関係が見えてこなかったので全体としては舌足らずな作品になってしまった。ダンスのコンペだということは気にせず、マイムの具体的な空間性は大事にした方が良いように思われる。

//山高帽をかぶった演者による、まんまパントマイムだが、肩や腕といった体の一部が反乱を起こし、それを追いかける形のパントマイムの所作に、それを何かの模倣でない抽象的な身体運動として捉え直したい意図が感じられ、その点ではおもしろかった。そういう意味で、パントマイミストとしての技倆も不問でよいと思う。ただ最後まで「演技」の枠組が堅持され、ダンスとしてのおもしろさが枠からあふれ出すことがなかったのが残念。

村岡//天空から男が落下してくる。しばらくして意識を回復した男は、重力(gravity)に抗うことに苦労しているようだ。かなり長いこと執拗に繰り返しているのを見て、抽象的な動きのパントマイムか踊りをしているのかとも思われたが、やがて、男はガラスの壁で囲まれた狭い部屋に閉じこめられていることに気づく……というふうに具体性のあるパントマイムに移行していく(あるいは一貫してそうであったのか)。
 後にはもっとダンス的な動きを見せるシーンも出てくる。意図的に重心を低くしてもいるし、通常のパントマイミストとは異なる重量感のある身体だ。パワーも感じさせる。だが、狙いはどこにあるのだろう? パントマイムと舞踊表現の融合か? パントマイムそのものの拡張なのだろうか?
 エスプリ、ユーモアの要素が乏しく、おかしみを感じさせるべきと思われるところも妙に真面目くさって (with gravity) 演じている。
 観衆に迎合しないパントマイム芸を追求しようとしているのだとしたら、それは困難な道だと思う。一方、パントマイムであるからには、状況をクリアに描写する技をもっと磨いてほしい。終幕の場面、今度は逆重力(マリオネット人形に作用するような浮揚力)に悩まされるシーンは、腕だけ(ないしは主として腕だけ)を用いるのではなく、足腰を中心に全身を用いて演じ、表現してほしいものだ。(そこが要となるべきではないのだろうか?)


//Hグループ

板垣朝子「起点」
写真準備中
竹重//記憶に強く残っているのは身体の軸がしっかりしていることと、重心が終始低く安定していることである。といっても舞踏のように重心を下げるわけではないのだが、手足の長い見栄えのする身体を持ちながら、ラストを除けば、ムーブメントの快感ではなく空間の中で身体の存在を濃密にしていく方向に意識が向かっていることに好感を持った。特にそれが強く感じられたのは、ラスト近くで上手側奥の空間に佇みながら、肩の高さに上げた肘を鋭角的に曲げて自分のポートレートを見せるようにゆっくりと一回転した場面で、レリーフのように身体の輪郭が浮き彫りになった美しさがあった。ただ、まだ踊りが視覚的なフォルムに依存していて硬く、空気を震わせるような官能性に欠けているように思う。全体の印象がややモノトーンでもう少しシーンごとの濃淡も欲しい。衣装の使い方にも研究の余地がありそうだ。

志賀//淡々と展開するソロだが、身体の緊張と音楽との関係がなかなか巧み。しかし最後は音楽の力で盛り上がりを作っていて、もったいない。

村岡//閉ざされた空間で踊っているという印象。やや切れ味の鋭い動きを見せるも、半面、ポーズが多い。後半特に、美術モデルを思わせるようなポーズが多くある。
 重心は概ね低く保つも、腕・脚を大きくいっぱいに伸ばした踊りが多いのは心地よい。その一方、前傾ないし前屈の姿勢が多く(ほとんどと言ってもよい)、それに伴ってとも言えるわけだが、背面の空間の処理が全くできていない。
 形や動きに美しさも認められるが、表現が、当人が意図しているようには自身の内面にまで届いていない。結局、何が主題なのか、何を見せたかったのか、判然としない。シャツ(ファウンデーション)の胸に描かれたバラの花にはどういう意味があるのだろう? ダンサー自身の現実の精神生活に結びついた表現を見たいものだ。


とまるながこ「ある瞬間 ~Run in the 神楽坂 die pratze~」
竹重//白のタンクトップに緑の短パンという体育会系のいでたちで短距離競争のスタートを試みようとして、すぐ止めたりといった踊りとは言えないような動きが積み重ねられる。現実に実行するには至らない、未発の衝動を表現したようにも思われる。一見パフォーマンスとも取られかねないような舞台をしっかりダンスとして成立させているのは、どこか黒沢美香にも通じるような、とまるながこの踊りを切断する時間感覚の現代性と空間の中でのポジションの選択の鋭さであろう。残念ながら断片の積み重ねを貫くコアがまだはっきりとは見えてこないので、全体として一つの説得力のある絵が浮かんでくるという所までは至っていない。自分の身体を流れる独自の時間がもっと見えてくると良いと思う。

志賀//音楽がいい。ブルースや最後のラテンまで、その音とは必ずしも合わせずに踊る意識はしっかりしている。しかし最後は音楽に引っ張られるように動きが高まり、音楽に頼らないでほしかった。

村岡//今年の参加者の中ではパフォーマンスっぽい方だが、演技(芝居)的な要素も濃厚。音響(音楽)の用い方に凝っているが、それが作品の成立に大きな役割を果たしているわけでもない。主観的であり、意図しているところが観る者の心に届かない。
 いくらかでも良かったのは、後半、運動量がやや多くなる場面とその後だ。舞踊的とは言えないが、走る演技にちょっとした動きを追加していた。その振り、動きのゆえに良いというのではなく、身体の運動と当人の頭脳の働きが、そのこと(運動)によって幾らかでも切り離されていたからだろう。


突起物「割れ目の気持ちがわからない」
写真準備中
坂口//聖なるものと性的なものとの親和性を力ずくで暴こうとしているのか、滑稽なほどに、ときには恥ずかしくなるほどに、エロスと宗教的イメージが接近する。安易な冒_でもないし、気楽なお遊びでもないだろう。「喜びの歌」に乗ってドカドカと大股で3人が歩くところなどには、突き抜けた爽快さもある。男と女の性的なエピソードがひとたび終わったと思うと、もう一度同じ曲で繰り返される。しかし今度は女が男になって。この入れ替えによって、最初のエピソードの意味までも揺るがされて秀逸だ。西からやって来た新宅一平が、男と女のあいだに割り込んで、聖と俗、男と女、そういった関係の間に不敵に立つ不思議な存在感を持っていた。

志賀//男2人と女1人が第9など同じ曲をリフレインして、定型の踊りを踊り、間にコント的展開。「天にましますー
」と三面記事の読み上げ、エロティックな会話やダンスなど、漏りたくさんで中途半端。もっと徹底して締めて作り、セリフも上手ければ見せただろうが、この甘さは大学祭レベルに見える。

村岡//辛辣で冒涜的なダンス作品。構成面から言うと、各場面が短く、暗転を挟むことで断片化されてしまっているという難があるが、新人シリーズ参加作品ゆえの制約もあり、やむを得ないと言うべきか?
 坂本貫太は(どのダンサーも筆者は初めて見たのだが)、笠井叡のクローンかと思われるようなダイナミックな踊りを見せる素晴しい踊り手だ! オイリュトミーの稽古で鍛錬された発声もなかなかのもの。藤原亜衣子および客演のダンサー(新宅一平)も良い。
 この作品がハチャメチャであるというわけではないが、作品としての完成度云々という話は、今は保留にしておきたい。悪ふざけっぽいところも、当人たちは案外真剣にメッセージを発しているつもりなのかもしれない。昨年の『ダンスがみたい! 9』の砂山典子のような積極的な思想性・社会性は伴っていないが、当人たちの成熟に伴い、変化していくことだろう。
 (当初の仮題は「夢魔」というものであったが、そのままでも不都合はなかったように思われる。)


//Iグループ

青山るりこ「一分前まで○○だった」
写真準備中
坂口//昨年は、花や瓶やタライや卵など、たっぷりと物をつかってそれらの物と身体との関係の中から生まれてくるものを探っていたように見えて、とても印象深く思い出すのだが、今年は物との戯れはほとんどなく、わずかにマシュマロが暗闇の中でボテッ、ボテッ、と落ちる音が聞こえてくるばかりになり、しかも体の動きも、膝と手を床について大きくおなかを上下に動かすなど、単調で激しい数少ないものに限定され、ひとつのコンセプトに集約して作品を作ろうという意気込みを感じた。

志賀//下着姿で奥で震える。上手に丸く照明の輪があり、これが変わらずポイントを作る。そのなかで震え揺らめく。下手手前の柱に持たれて頭を繰り返し打ち付け、ストッキングと赤い上タイツを半端に着る。そして四つん這いになって激しく腹を上下し頭を振り乱す。これを移動しながら繰り返す。微妙に異常な雰囲気が漂う。壁に張りつき倒れ、暗いモードから、最後は丸い照明のなかでパンティ1枚になる。繰り返されるギターのリフ、カット音が抑えて鳴り、舞台が展開するところ、とても見応えがある。音楽が途中で一度場面を崩すとさらにいいだろう。

//ぼんやり青い光に照らされた空間には誰もいない。上手の奥から菓子のプラスチックの包装をいじるクシャクシャっという音がする。ポテっと音がしてマシュマロが一つ床に落ちる。それに続いてダンサーが出てくるのだが、逆光で弱く照らされるだけなので、輪郭ばかりがうっすら光る。まるで亡霊のよう。クシャ、ポテという音がひとしきりあり、やがて下手からトストスと音が響いてくる。柱に頭を打ち付けている音だ。捉えきれないフォルムとかすかに響く音が、薄闇の中に匂い立つように浮かぶ。聴覚に訴えて「気配」という形になりにくいものを提示しようとするのだろうか。その線で見ると、四つん這いで体を揺すってハッ、ハッ、ハッと荒く息をするあたり、濃厚なイメージを喚起する力がある。
 だがそういうコンセプトだとすると、物体としての身体の扱いが問題になる。「気配」だけ見せたいのなら身体はむしろ隠されてありたいからだ。ましてパンストを脚と腕に着用したり、最後に身につけているもののほとんどを脱いで薄いアンダーショーツ一枚になったりされても、どう整合するのかよくわからない。

村岡//初めのシーン(マシュマロを用いた)は全くのパフォーマンス。それ以外もパフォーマンスの要素が濃いのだが、当人はそれとは別のものを狙っているのだろう。舞踏的な内面性、自己の内面や身体的内面としっかりと向き合う踊りをしたかったのだろうか? しかし、観客のことは何も考えていないようなパフォーマンスというのが、まず第一の印象だ。全体的には暗くて見づらいというのも問題。
 最後はショーツだけの裸になって仰向けに横たわるのだが、筆者に言わせれば、この時の心身の状態が舞踏の始まり、ここから舞踏がスタートするのだ。


三枝はな「冬の空のにおい」
坂口//最初のパート、起き上がろうとするがすぐにどこかからくずおれて倒れてしまう、その動きを様々に幾度も繰り返す、その執拗な探求に惹きつけられた。なんということのない動きなのだが、予想の付かない微細な動きがどこかから生まれてきてくずおれていく。そして、素っ気なく始まる次のリンゴのパートは素に戻った感じで話していたのだが、そのうちにいつしかダンスが始まる気配が生まれ、そうなるといつ踊りが始まるのか、その瞬間を見極めたくなってくる。始まってしまえば最初のパートの強さに比べると普通のダンスが広がるだけなのだが、始まるまでの引き延ばされた空白の時間の淡い緊張感は貴重だ。

志賀//ギター、ピアノ、サックスなどを重ねた音楽のなかで何度も倒れる行為を繰り返し、期待する部分があるのだが、音楽が素人っぽすぎて、乗れない。そしてリンゴを取り出して剥く。おじいちゃんが送ってくれたといいつつ、剥いてあったリンゴを観客に配り、サンバで踊り出す。ここから踊りが面白ければいいのだが、残念。

//チュニック風に胸元で絞ったクリーム色のパーカーと、更紗の長いスカート。頭はお団子を重ねたようにまとめている。なんともオンナノコである。脈絡なくリンゴを持ちだしてきて「こんにちは」と挨拶し、問わず語りに山形のおじいちゃんの話をしながらリンゴをむいてかじり、むきためたリンゴを客席に配る。ボサノヴァにのって、後ろを向いてスカートを揺するように踊って見せたりもする。それはふうわりと華やかな舞いなのだが、そのような部分は全体から見ればわずかで、残りの大半では振りの一つ一つがけっこう土臭い。ワサワサ大股で歩いて体を揺らすとか、横ざまに寝た姿勢からゆーっくり起き上がってそのまま崩れ、繰り返しながらだんだん昂進していくとか、どうも赤いほっぺのオンナノコと結びつかない。それをオンナノコっぽくやるのは先例があるから避けているのかもしれないが、いずれにしてもなんらかの統一原理が必要だろう。

村岡//冒頭、横たわった姿勢から、ゆっくりと立ち上っては、ゆっくりと、とても柔らかく崩れ落ちるという動作を繰り返す。その動きがとても好ましい! (天使館系の女性舞踏家でこういう動き(踊り)を見せる人が居たような気もするが、居そうで居なかったというのが事実かと思われる。) これはしかし、単なる思いつきではなく、稽古を積み重ねた結果の踊りであるに違いない。
 動きは、やがて、立ち上ったものの、脚が体重を支えきれないために崩れ落ちてしまうといった感じのものに変わる(柔らかく崩れ落ちるというのではなく)――意図は判らないが…。
 10分ほどして「中入」の力の抜けたパフォーマンス。りんごの皮を剥き、食べ、極めてプライベートなことを語り、観客にりんごを配って食べさせる。(その間にもごく軽い踊りは踊るが。)
 それが済むと、今度はちゃんと立っての踊りへ。サンバ調の曲を用いて、ごく気ままに、自分が踊りたい踊りを自由に踊る――というふうに一見見えるのだが、実はこのとき、ピリッとした緊張感のある踊る身体(の状態)になっていく。(これもまた天使館系の舞踏家を思い起こさせるものだ。おそらくは何の繋がりもないのだろうが。)
 これだけのことができるのだったら、中入のパフォーマンスの遊びなど不要! 純粋に踊りだけで勝負してほしい!
 後半の踊りだが、動き、流れが途切れてしまわないようにすることが肝要である(即興であったのかどうかもはっきりしないが)。
 パフォーマンスに使用する腰掛けは、適当なスツールを買うなどして用意すること! もし箱馬を利用するなら、それをちゃんと化粧した上で用いること!
 標題は、詳しい意味はともかくとして、妥当であったという感じがする。


Essential SDC「ミス・ジョディ」
写真準備中
坂口//多くのシーンを組み合わせて構成されている作品。実はこういう作品は新人シリーズでは数少ない。どうしてもソロが多くなるからだろう。それに比べて、3人という少人数とはいえ、シーンの構成の力で見せる作品が登場すると、しかも見せるだけの構成力を持った作品を見ると、魅せられてしまう。それぞれのシーンの唐突さが小気味よい。しかも単に唐突なだけではなくて、見る者を絡め取って行くだけの演出がなされている。わけのわからない事が起きても、それがどことなくギャグっぽい雰囲気で置かれているから飽きさせないのだろう。

竹重//20分程度の時間の中で万華鏡のように様々なシーンが展開されるのだが、最後まで観終わると再び冒頭のシーンの記憶が新たな光を帯びて強く蘇ってきた。2ヶ月経ってもその記憶は全く色褪せていない。舞台奥の上手、真ん中、下手の三つのアルコーブに3人がパンタロンかスカートかなど微妙な違いのあるで白で統一された衣装で佇み、着替える仕草をする。そして真ん中の小柄な寺西理恵だけが下着姿になって恥じらうような表情をして暗転するのだが、一見何気ないシーンでありながら、全くオリジナルなエロスの世界を提出している。そこで私が感じたものは恋人と一対一で向かい合った時の女性しか出さないような、デリケートで親密な感情なのである。演劇的なエンターテインメントという仮面を被っているが、本質は中心になって振り付けた寺西の内面を架空のアメリカ人女性のキャラクターに託して多面的に掘り下げた知的な作品である。ダンスの語彙としてはさして目新しいものがなかったのは事実だが、それでも踊りのテンポの緩急の自在さがその欠点を補っていた。

志賀//三つのアルコーブ(壁のへこみ)が開けられ、真中に下着姿の女が出て「きゃっ」。白い衣装の女三人でモダンに踊るのかと思うと、違う。フランス語のアラブ圏の奇妙な音楽とともに、崩れた動きから、人の上に重なったり奇妙なデュオが展開する。かと思うと、長身の女はモダンっぽいソロをスポットを浴びて踊り、しかし他の2人が顔に白粉をはたきつける。所々ユニゾンになったり絡んだり動きも面白いが、特に音楽がユニークで、センスがいい。激しい曲で三人が暴れて踊り、喧騒から終わるかと見せて、暗い照明に暗い曲で組み体操ポーズからトリオの踊り。ダンスとギャグが単なるネタに留まらず、何か奇妙な世界を感じさせる。あちこち荒いのだが、発想センスとも抜群といっていいだろう。

//女性三人組。下着姿で登場して、舞台上で服を着ていくあたりは何の変哲もないが、いつの間にか不思議ワールドに導かれる。踊りらしい踊りがちゃんとあるのだが、それもちょっと変わっていて、肘から先をくるりんと回す動きにリードされる手踊りがまずあり、それを上から回したり、体幹に巻き付けてみたりして、だんだん体全体に波及させていく。全体から部分が決まる通常とは逆である。後半ではくたっとした感じを見せる踊りも見られる。
 踊る女の後景にバナナをむさぼる女が無意味に現れ、このあたりからだんだんおかしくなってくる。踊る女に「このあたりに、おいしいコーヒー飲めるコーヒーショップ、ありませんか!?」と片言で尋ねる女は、体ごと強制的に踊りに巻き込まれてなお問いを繰り返す。流れてくるイスラム風のフレンチポップスにかぶせて「あの懐かしい場所を覚えていますか?」など、回答されない質問が次から次に繰り出され、いつの間にか空間は「どこともしれないどこか」に変じている。その場で足踏みしながら走ってみせる振りが何度めかに反復されて旅は続く。
 この不思議な感覚はたしかに魅力的だが、それ以外にあまり強い印象がなく、「ある種の演劇」と形容すれば済んでしまう点が弱い。

村岡//演出過剰の観がある。いったい何のための演出なのだろう? 要するに、自分たちがこういうことをやって楽しみたいからやっているのであり、一般的に言っても、演出とは観客に対するサービスであり――というふうに考えると、何も否定できなくなってしまうのだが。最後に言えることは、時間(上演の持ち時間)を無駄にしているのではないかということだ。
 踊りらしい踊りはというと、ソロで(主として)、それぞれに踊ってみせるだけだが、ちょっと物足りない。けっこう踊れる人たちであると思うので(殊に中西は)、もっとたっぷりと踊ってみせてほしい。
 旅行・移動といったことが一つのライトモチーフになっていて、民族音楽を多く用いており、ちょっとだけだが、そういう雰囲気の踊りを皆で見せたりもする。辛うじて作品としての統合性を保っているといったところか…。
 楽しいのは結構であるとして、標題に面白みがない(チラシ掲載の過去の作品名に比べて)。

(余談だが、今回のシリーズ中、舞台で本当に何かを食べる作品は 3つだけだった。その 3つがすべてこの日に集合した(マシュマロ、りんご、バナナ)。全くの偶然であるが、こういうこともあるものだ! もしもこういう(コンテンポラリーダンスの)公演を観るのが初めてで、この日だけ観た観客がいたら…。(笑))



//Jグループ

清藤美智子「黒い太陽」
写真準備中
村岡//そつなく創作し、かつ踊っている。安心して観ていられるが、新しみがない。月並みな感じがする。と言うより、楽曲主導の構成となっていて、音楽に合せて踊っているために、身体性も内面性も中途半端にしか現れてこないのだろう。(そういう点がしっかりしていれば、旧い新しいは関係ないのだ。)
 標題に込められているモチーフはある程度理解できる。


小川水素「!)「小川水素用語集 第一集」」
坂口//分解された運動が再び集積してひとつながりになってゆく。それはコソッと肩を落とすところから始まる。日舞の仕草なのだろうが、もうそれは日舞という場所からひきはなされて、その可能性をまっさらの状態で探られようとしているみたいだ。ちょっとした仕草から始まり、いくつかの動きがつらなり、ミニマルな運動が始まる。少しずつ新しい運動が加わって少しずつ複雑になってゆく。トリシャ・ブラウンの『アキュミュレーション』のようにも見えるけれど、あのようななめらかさはなくて、もっとディジタルな運動が続いてゆく。こういう身体=運動の真摯な実験的試みは、ずっと続けてほしい。それらが堆積・蓄積していくことで、新たな層がみえてくるだろうから。

村岡//実験的な身体表現、あるいは(少なくとも)実験的な作品だ。そのこと自体は大いに結構! 骨格(解剖学的な)を意識した小さな動きを繰り返しつつ、動きを少しずつ拡張していく。反復自体を強調しているわけではないので、筆者としては退屈することなく観ていられた。
 邦舞を習っていたというのもよく判るような身体の使い方。一方、美術モデルのような雰囲気もある。撮影のための照明や舞台照明の基礎を実験的に実演して見せているような照明も、個人的には楽しんで観た。
 あくまでも実験ということを中核に据えているわけではない――というのは、身体の左右の使い方が均等(対称的)ではないからだ。それに関連するが、当人はニュートラルな(抽象的な)動きだけをしているつもりなのだろうと推測されるが、終盤にちょっとだけ抒情性のようなものが出て来そうになる感じもあった(初め無音、しばらく経った頃から静かなモダンジャズを流す)。ただし、上演時間 15分というのは、今回のシリーズ中でも最短の一つで、意欲というパワーの不足と映ってしまう。
 衣裳も良いが、下に着る(穿く)物については一考の余地があるかと思われた。


dance-tect「Metro-[No]Me」
写真準備中
竹重//テクニックとしてはコンタクトを使いながら、ダンサー4人の間に終始演劇的な強い緊張関係が漲っていてありきたりなダンス的動きは一切なく、一人一人が個としての存在感を最後まで保っていたことには惹きつけられるものを感じた。上手側奥の円形のスポットが当たった部分がこの舞台の特権的な場所らしく、その場所の所有権を2人で争うのが中心的なモチーフになっているのだが、他の2人はその争いに始めから排除されていて、その内一人は死体である。不満だったのはそういう具合に物語的モチーフが鏤められていながら、それが単なる状況設定で終わってしまっていて、時間が経っても一向に深まっていかなかったことだ。ポストモダンダンスの内容の否定というテーゼにこだわっているのだとしたら不毛だと思う。表現したいコンセプトを突き詰めていく中で、コンタクト頼みのテクニックの限界も見えてくるのではないか。    
 
村岡//とてもユニークな(単にオリジナリティがあるというに止まらない)空間・時間を創造して見せた。コンタクトインプロヴィゼーションというのが一つのキーワード(手法)であるらしい。初めのうちは「どういうことをやりたいのかは概ね判る」くらいに感じていたが、最終的には強く引き込まれた。(舞踊的な動きは全くと言っていいくらい見せない。概ねパフォーマンス的。)
 特に優れていると思われたのは音楽だ(DJ 的手法による選曲・編集。ダンス作品用のそれとして優れている。ライブではなく録音)。だが、音楽に合せて動くということはなく、むしろ、ある場面では、ダンサーの動きに従って音が変化するようにも感じられた――これはダンサーの方が優れているということだが。
 初めのうち、舞台上におけるダンサー相互の関係は疎遠であったが、やがて徐々に、小さな対立、衝突、闘争によって、その身体性を際立たせていく。それは、現実の世界(ただし生活圏的な)の比喩・反映のようだ。出演者たちは個人の(同時に人間存在としての普遍的な)欲望・欲求を描くことにひるむ様子も見せない。といって、そこにあるものは別段、何の悲劇でもなく、もはや月並みになった感もある「祝祭性」に辿り着くわけでもない。
 舞台空間を「造形的に」積極的に利用しているが、それが主題・目的というわけでもないようだ。ダンサーたちの身体によって舞台空間をデザイン(構築)するといった要素はある。(出演は、チラシに「予定」と注記されていた 1人を除く 4人。後で変化するが、そのうちの 1人は「死体」であったとのこと。)
 作品の的確な構想、創作・上演のための戦略、ダンサーたちのセンスと実行力(即興的表現力)が、この作品を成功に導いた要因であろう。(上演時間は約38分と、果敢に持ち時間をオーバーしている。)


//Kグループ

秦 真紀子「retour (再生)」
写真準備中
坂口//昨年は極限まで柔らかな身体をめいっぱいに使うことで不思議で美しいフォルムが生まれてきた。今年は、昨年のような幾重にも折り畳まれる身体というよりは、伸びやかに広がる身体を作ろうとしたのだろうか、それが昨年ほどの美しい力を生み出すことはまだできなかったように思う。あれだけの可動性のある身体をもってすれば、たいていの動きは生み出せるだろうが、うねうねと凝縮してうごめいているときに比べて、四肢が伸び広がったときの力の入れようが中途半端な感じでもったいない。

西田//じっくりマイペースに自身の体に向き合っているとその人の動きの質感にあるパターンができてしまうことがある。見る側もそれに心地よさを感じてその人の良さとして認めてしまったり、踊る側でもそこに気づかないままでいたりすると、自由で突飛な発想を規制してしまうことがあるかもしれない。だからこそアーティストは常に今までにない動きを見いだすべく新たな発想を探求するのだろう。今年は昨年と違った展開をしようと試みたように見えたが、真摯に追求しているゆえにかえって突飛にはみ出る感性を規制してしまっていたのではないか、と思った。

志賀//縞のタンクトップに白いズボン、暗いなかで奥を左から右に、右から左に歩いていくことを繰り返す。暗転すると背中を向けて暗いなか座っている。立ち踊る姿も抑制があり、丁寧な踊りが感じられる。際立ったものではないが、自分の踊りをきちんと追求している姿勢が伝わった。

村岡//照明のせいもあって暗い印象だが、手脚を大きくいっぱいに使って踊っていて(概ねはゆっくりした動きだが)、健全な動き、踊りである。上昇への志向といった趣きのある様々な動きを繰り返し(幾度か)見せる。主題に関わりがあるのだろう。物語があるらしく思われるが、動きは抽象化されているので、内容までは推測が及ばない。
 やるべきことをじっくりとやっているが、構成的には平板で、いろいろな意味で地味だ。だが、いちばんの問題は、内面のパワーが表出され、伝わってくるような踊りにはなっていなかったということだろう。


那由多「霧中」
写真準備中
志賀//白いエレガントな衣装で左手だけを前に出して立つ。よく見るとその腕のみが白塗りされており、そこに執着した踊りを踊りだす。しかし次第にそのフェティッシュは失われてしまうのは、残念だ。雑踏の音をずっと流し続け、その変化のなかで、踊りはあくまで白い衣装で執拗に踊る。そのまっすぐな姿勢は買いたいが、単調に思えてしまう欠点をどう克服するかが課題。

村岡//ダンス(バレエ)的な動きを見せる場面も時折あるが、全体としては演技的な印象を受ける。心や頭の中にあるものが影響しているのであろうか? 何かに捕われている、どこか束縛を受けているといった印象の動きが主導的である(主題的にはそれで正しかったのかもしれないが)。
 空間の処理という観点から見ると、背面空間の処理があまりできていない。身体空間的に偏っている(そういうところからも被拘束的な印象を受ける)。
 上演時間は 18分ほどだが、意欲は十分に感じ取れる。かなり激しいダイナミックな踊りを、あまり休むことなくしっかりと見せてくれたのが、ちょっと予想外で、嬉しかった。


田村のん「ウニカ」
写真準備中
志賀//包帯をつけ白い衣装に白いヴェールで観客席から登場し、舞踏的な雰囲気で期待させる。しかし動きがなんともスタスタ、サッサと舞踏の緊張感が感じられない。身体に何かを充満させてエネルギーを感じさせるというのでもなく、舞踏の形をとりながら、素に近い動き。背中の裏で両手を組み、縛られたようにしてのたうつ場面のみ舞踏らしく見えるが、腰のみに負荷をかけた仰向けで体を折った姿も一瞬で、持続がない。向こう向きで包帯を解き上半身裸でアルコーブに入っていく。襦袢で登場して、下手奥に去るなど、いずれもサッサ、スタコラという感じで「タメ」が一切ない。
 しかしこの恐ろしく舞踏から遠い動きを舞踏的な姿でやっているのは、奇妙に面白いといえる。見方によっては、面白く見える人もいるように思う。

//体中に包帯を巻いた白塗りの女のソロ。「ウニカ」というタイトルはベルメールの球体関節人形のモデルとなった女性から取ったものか。衣装もしぐさも舞踏的ではあるのだが、舞踏らしからぬ(あるいは、舞踏とは異なった種類の)弱々しさがかえっておもしろい。床でのたうち回ってももがいても、「強烈な表現」といったくどさはなく、うごめく虫を見るような感じがする。その弱さは、シフォンを幾重にも巻き付けただけのスカートで横ざまにもがいて裾がはだけかける場面や、向こう向きにへたり込んで上半身の包帯をすべてほどくあたりでとりわけ印象的に感じられる。隙だらけの体勢を見せて、見る側になんらかの感触を強制的に抱かせる仕組みである。
 その点からすると、包帯をほどききった後に、向き直ることなくすっと壁の背後に入り、トキ色の襦袢を羽織って出てきたのは残念だった。薄もの一枚とはいえ襦袢では強すぎる(むろん裸体ではもっと強い)。紙風船をふくらます結末部も効果的ではなかった。しかし、無自覚で隙だらけでほつれが見える、そんなあり方をするこの人は、相当に興味深いイキモノだと思う。

村岡//演劇的(演技的)だが、質のよい舞踏だ。衣裳もとても良く、やや控えめな白塗りのメークも適切。美しさも備えている(美術だけではなく、総合的に)。音楽の用い方もよかった。
 中盤は「胎児の踊り」から始まるもので、一旦立ち上って再び崩れ落ちるなどした後の寝踊りが長いが、よくありがちな「床面依存性」といった心性は感じられないのがよい。胎児のような場面でも瞳をパッチリと見開いていたのがよかった(暗くてよくは見えなかったが)。
 エピローグ的な終幕は、それはそれで魅力的なのだが、作品としての統合性はあまり感じられない。新人シリーズの時間枠では不足とも思われ、さらに練り上げていくことが期待される。
 舞踏的な技巧はしっかりと身に付けているようであるが、身体的(かつ精神的)内面性とどう結び付けていくかが課題だろう。


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